【連続短編小説】今日、歴史が終わった 2052-2088 第1話|狂っているのは歴史のほうだ
あらすじ
これは、100人による、100の立場の、100年の物語である。
現代社会の多様な職業や立場にある人々の、内面的葛藤と選択を描く連作短編集。
国際政治学者、製薬研究者、教師、財閥の令嬢、就活生、音楽家、建築家、定年退職者……。
彼らは、それぞれの仕事と人生のあいだで「意味」を問い続け、「意志」を繋いでいく。
知識の価値、選択の自由、世界への愛、公共性の意義。
日常の裂け目から立ち上がる普遍的テーマが交錯し、物語は偶然の出会いを通して緩やかに結びついていく。
誰だって、何かを抱えて生きている。
これは、「働くこと」、「生きること」、そして「知ること」をめぐる、私達の小説群である。
※2052-2088までの31編を収録
狂っているのは歴史のほうだ
松本禅のタクシーが図書館の前に停まった。
トランクから段ボール箱を降ろしながら、彼は言った。「兄貴から頼まれまして。寺の古い資料、地域史の研究に使ってくださいって」
司書、橘陽菜は箱を受け取った。龍雲寺、明治以降の過去帳の写し。
デジタル化の作業を始めてから三日目の夜だった。資料室に一人残った陽菜は、天保七年の記録を見つめていた。
「於松 享年七」「清吉 享年五」「お梅 享年三」
子供の名前が続く。飢饉の年。住職の筆跡が次第に震えていく。墨が滲んでいる箇所がある。涙か、ただの劣化か。陽菜にはわかった。これは涙だ。
ページをめくる。安政二年、江戸大火。「焼死」の文字が並ぶ。陽菜は目を閉じた。炎が見える。逃げ惑う人々の叫び声が聞こえる。煙で目が痛い。熱い、熱い。
「やめて」
陽菜は声を上げていた。机に突っ伏していた額が、汗でじっとりと濡れている。スキャナーの緑色のランプが、規則正しく明滅している。いつの間にか眠っていたのか。いや、眠っていたのではない。ただ、江戸の大火の中にいた。
明治十九年、コレラの流行。住職は戒名の後に小さく「南無阿弥陀仏」と書き添えている。その文字が、陽菜には声に聞こえた。
特に一つの記録から離れられない。「お松 享年二十一」その直後に、「男児 当日死」
陽菜は何度もこのページに戻ってしまう。住職の筆跡が変わっている。いつもの流麗な文字ではない。一文字一文字、石に刻むような重い筆跡。墨が濃い箇所と薄い箇所。筆を置いて、息を整えたのだろうか。
お松の声が聞こえる。いや、聞こえる気がする。「赤ん坊を、せめて赤ん坊だけでも」という最後の願い。でも男児は母を追った。当日死。
「天明三年 田辺銀二 享年二十三」
田辺家。ここから二百年以上続く家系。死者の名前と年齢だけが並ぶ。でも陽菜には、その一行一行に込められた悲しみの重さが伝わってくる。
陽菜の頬に涙が伝った。記録から現れる、過剰なまでの妄想。私はおかしいのか?
二週間後、松本禅が追加の資料を運んできた。陽菜は田辺家のことを、松本に尋ねた。
「そういえば」禅は資料の箱を見ながら言った。「田辺家って、まだうちの檀家さんですね」
それから数日後、田辺裕一が図書館を訪れた。「先祖の記録を閲覧したいのですが」
陽菜の手が震えた。この人の先祖を、私は知っている。天明三年から始まる全ての死を。
「天明三年の田辺銀二様から記録があります」陽菜は言った。
田辺の眼差しが鋭くなった。陽菜は過去帳の記録を、まるで暗記しているかのように語り始めた。いつ、誰が、何歳で亡くなったか。その正確さに田辺は驚いた。
「お詳しいですね」田辺の声は静かだった。
「私...」陽菜は震える手で顔を覆った。「おかしいんです。過去帳を読んでいると、死んだ人たちの声が聞こえて。特に、若くして死んだ人たちの...」
陽菜は堰を切ったように話した。安政二年の大火で死んだ田辺家の少女。彼女は七歳だった。炎に包まれる恐怖を、陽菜は感じた。
「私は狂っているのでしょうか」
田辺は長い沈黙の後、口を開いた。
「フーコーという哲学者を知っていますか。彼は『狂気の歴史』で、狂気とは社会が作り出した概念に過ぎないと論じました。理性に収まらないものは全て狂気として排除されてきた、と」
田辺は続けた。「でも、あなたが聞いている声は、本当に妄想でしょうか。忘れられることが死者にとっての二度目の死だとしたら、あなたは彼らを生かし続けている」
「私の祖先も、過去帳には『享年二十三』とだけ記されています」田辺は静かに言った。「でも、その一行の向こうに、確かに人生があった」
陽菜の目から涙がこぼれた。
「記録は事実を伝える。でも、あなたのような人がいて初めて、それは記憶になる」
田辺が帰ろうとしたとき、入口で松本禅とすれ違った。二人は一瞬、顔を見合わせた。
「あれ...」禅が首を傾げる。「どこかでお会いしたような...」
しかし、どこで会ったのか思い出せない。雪の日の、ほんの一瞬の出会いは、歴史の底に沈んでいる。
その日から、陽菜は死者の声を恐れなくなった。声は相変わらず聞こえる。お松の願いも、名もなき子供たちの泣き声も。でも今は、それを聞くことが、自分にできる唯一の応答だと思えた。
ある朝、陽菜は過去帳の最後のページに触れた。まだ誰の名も記されていない、静かな余白。それは、未来そのもののようだった。その白い紙を、誰が開き、誰が読み取るだろう。陽菜はそっとページを閉じた。窓の外では朝の光が差し始めていた。
彼女は、狂っているのではなかった。
彼女は、歴史の中を生きていた。
狂った歴史と死者たちの声と共に、陽菜は今日を生きていく。
過去帳は、静かにそこにある。
【2053】鉄風、鋭くなって
【2054】ある人切りの物語
【2055】セミナー講師、かく語りき
【2056】共に歩く道を見つけよう
【2057】売れない芸人の神話
【2058】幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする
【2059】曖昧で豊かな境界線
2060s
【2060】実存男と構造女は相性が悪い
【2061】奇跡は誰かがつくっている
【2062】人間は選択の刑に処せられている
【2063】僕たちに意志はあるのか
【2064】よそう、また夢になるといけねぇ
【2065】七つの光は消せないから
【2066】時の蕎麦とちゃんこ鍋のぜんざい
【2067】私のインフルエンザ
【2068】あの日、彼女は世界をつくった
【2069】水は飲んでも飲まれるな
2070s
【2070】地雷の思考と悲しき恋愛
【2071】地獄とは他者のことらしい
【2072】全沢奈緒
【2073】老い人、無知の幸福を超える
【2074】あなたの意味は、ひとつとは限らない
【2075】おじいちゃん家の論破王
【2076】上質な交響曲のような永遠を、あなたの手に
【2077】英雄のカフェイン摂取が増えた理由
【2078】整うまで帰れません
【2079】拳を握れば抱きしめられない
2080s
【2080】ある男の崇高な対象
【2081】万博が我らに残すもの
【2082】ロックンロール
【2083】雨の声は届いていますか
【2084】世界の終わりのガールフレンド
【2085】今のお前に足りないものがある
【2086】世界を運ぶ男
【2087】漫画家失格
【2088】百のプラトー
第3部 全38話
1部 今日、歴史が終わった 1989-2020
2部 今日、歴史が終わった 2021-2051
