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【短編小説】今のお前に足りないものがある

朝の光が、手帳に影を落としている。浦野優子、保険営業。今月の達成率、40%。胃の奥に鉛が沈んでいる。

「今のお前に足りないものがある。危機感だ」

戸倉主任の言葉が頭の中で再生される。明日は査定会議。来月の家賃は払えるのだろうか。手のひらが湿ってくる。

保健営業所近くのカフェ「音色」。

「落ち着いた場所の方が、契約も取りやすいかもよ?」友人の水無瀬理沙はそう言って、場所を提供してくれる。


ドアベルが鳴る。疲れた中年男性。肩の落ち方で分かる。自営業の重圧を背負っている人の歩き方。

「がん保険の件で…自営業なので、いざという時が心配で」

私は資料を広げる。チャンス。

「不動産屋です。昔は大袈裟なキャッチコピーばかり書いてたんですが、最近は正直に書くようにしてて」

正直。その言葉が胸に引っかかる。

「じゃあ、私も正直に」と言いながら、私は嘘の準備をしている。「がんは2人に1人がかかる病気です。40代男性の85%の方が何らかの保障に入られています」

85%。本当は70%だったかもしれない。でも85%の方が効果的だ。

「そんなに多くの人が…」

男性の目が輝く。でもそれは不安の輝きだ。私が植え付けた不安の。

「じゃあ、営業さんのキャッチコピー、僕が書きましょうか?『あなたの明日に、安心という贈り物を』…どうです?」

満足したのか、彼は「保険の方はまた今度」と言って帰っていった。

呆然とする。一件目、失敗。主任の声が聞こえてくる。

「100%を見せてみろ」

俯いた先のメニューには、生搾りオレンジジュースの文字。私も搾り取られているのだろうか。


昼過ぎ、壮年の男性が入ってくる。歩き方に品がある。

「昇進で転勤が決まりまして…保険の見直しを」

「おめでとうございます!」と言ったけれど、この人の表情には喜びがない。

「今まで結婚式場で働いてました。でも僕自身は…その幸せからは少し距離があって」

この人は他人の幸せを演出する仕事をしてきた。私と似ている。

「今度はホテルです。85%の稼働率を言い渡されていて…不安もいっぱいで」

また数字だ。85%。彼も数字に追われている。

「保険で『安心な人生の旅』を演出するのは、いかがでしょう。50代の管理職の方、90%以上の方が医療保険に加入されています」

男性の表情が曇る。「演出って、本物じゃないから演出なんですよね」

その言葉が私の喉を締め付ける。何も言えない。安心という名の演出を。本物の安心なんて売れないのに。

「新しい環境に慣れてから、改めて考えさせてください」

彼は丁寧に頭を下げて去っていく。

私の手が震える。二件も失った。主任の声が頭の中で大きくなる。

「よろしい、お前にもう用はない」

もう終わりかも。100%なのは、危機感だけ。


ドアベルが鳴る。上品な初老の女性。歩き方に育ちの良さが滲み出ている。

「終身保険のことで…息子に迷惑をかけたくなくて」

もう逃せない。私の生活がかかっている。

「60代の女性の場合、75%の方が何らかの生命保険に加入されています」

また数字。不安を煽る、魔法の数字。

「元CAで、その後マナー講師をしてました」

女性の話し方は丁寧で、品があって、私とは育った環境が違うことが分かる。

「でも…正しいマナーって、実は決まりがないんです」迷いが目に宿る。「私、一時期、作り話のマナーを教えてしまって」

胸に痛みが走る。作り話。私がしていることと同じだ。

「息子に迷惑をかけないのが『正しい』と思ってるけど、それも私の思い込みかもしれない」

この人は正直だ。自分の思い込みを疑うことができる人だ。

「いえいえ、お母様の愛情です」と私は言う。「実際、同年代の90%の方が、ご家族のことを第一に考えて加入されています」

90%。嘘かもしれない数字。でも言わないと契約が取れない。

「そうね…何かできることがあるなら」

女性の声に切実さがこもる。本物の愛情が。私が売ろうとしているのは偽物なのに。

私は契約書を手に取る。この人は本当に息子のことを思っている。きっと契約してくれる。今月の目標に近づく。家賃の心配をしなくて済む。

「そうですね…入らせていただこうかしら」

なぜか、手が止まった。年金暮らしのこの人が、生活費を削って毎月保険料を払うことになる。それこそ息子に心配をかけることになるのではないか。

私の中で何かがざわめく。これは正しいのか。正しくないのか。

「あの…」声が震える。「もう一度、息子さんとも、ご相談されてみては…」

女性の顔がほっとしたように緩む。まるで重いものを下ろしたように。

「そうですね。ありがとうございます」

主任の声が頭の中で炸裂する。

「おまえもしかしてまだ、自分がクビにならないとでも思ってるんじゃないかね?」

絶望。


三件目も失った。私は冷めたお茶に手を伸ばす。手が震えている。カップが滑り、大きな音をたてた。

破裂した。何が?カップ?危機感?私?

「安心って、売れるものじゃないのに…」

声が震える。

「みんな、怖がってて、苦しくて…でも私、それを『安心』って言って、売って…」

理沙が静かに立ち上がって、破片を丁寧に集めていく。まるで宝石を拾うみたいに。私の壊れた何かも一緒に拾い集めてくれているような気がする。

「大丈夫?」理沙の声が、ただ優しい。

「…泣いてても、契約は取れないから」

理沙はゆっくりと顔を上げて、そっと隣に座る。何も言わない。ただそこにいてくれる。


しばらくして、ドアベルが鳴る。若い夫婦が手をつないで入ってくる。女性のお腹が小さく膨らんでいる。

「すみません、学資保険のこと、聞かせてもらえますか」

私は微笑んで資料を開く。でも今度は何かが違う。カップが割れて、何かが変わった。

「お子さまがお生まれになるんですね」

「私、探偵をしてるんです」

「僕も救急隊員ですが」

この人たちは現実を知っている人たちだ。数字では表せない現実を。

「確実な数字って安心しますね」妻が微笑む。「でも子どもがどんな未来を選ぶかは…」

「そうですね。お子さんの選択を大切にしたいですよね」

私は心からそう思って言った。営業トークじゃなく。

「まずは僕たち自身が、もう少ししっかりしてからかもしれません」

「資料をお渡ししますので、ゆっくりご検討ください」

また契約を取れなかった。でも不思議と心が軽い。風船のように軽い。

その時、慌てた様子の男性が入ってくる。

「すみません、急いで保険に加入したくて…ネットで調べたら、ここが良いと」

「ありがとうございます」

この人も不安に駆られている。危機感に煽られている。昔の私みたいに。

「同僚に、『保険に入らないとリスクが』って言われて…なんだか怖くなってしまって」

私は微笑む。今度は営業の笑顔じゃない。本当の笑顔。

「大丈夫です。焦らなくても、ゆっくり考えましょう」

理沙がそっと新しいお茶を淹れてくれる。湯気が立ち上がって、頬を撫でる。暖かい。

夕日が店内を深く染めている。今日出会った人々の顔を思い浮かべる。みんな、100%の力で必死に生きている人たちだった。

「今日は変な一日だったね。お酒でも飲む?」理沙が微笑みながら言う。

「酒はダメなんで、オレンジジュースください」

「100%がいいよね?」

「もちろん」

今度は、搾り取られない。
オレンジジュースが、夕日に溶けていく。



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