【短編小説】ロックンロール
薄曇りの空が、レコードショップ「ECHO」の窓辺をやわらかく包んでいた。午後の淡い光が店内に漂い、無数のレコードジャケットが静かに佇んでいる。
奏は昔のレコードを手に取り、傷ついた表面を指でなぞった。ウーバーメンシュ「神マストダイ」—コアなファンに愛され続けた、伝説の一枚。それでも今では、誰も手に取らない。
「あなたは、いつまでここにいるのかしらね」奏は小さく呟いた。
夫は修理工場で旧式のバイクと向き合い続けている。彼女はもう一つの愛を見つけた。手で触れられるもの、重さのあるもの。バイクからレコードへ。どちらも同じ渇きを満たしてくれる。デジタルの海に溺れそうになる度、この円盤たちが確かな浮き輪になってくれる。
店のドアが開き、鈴の音が響いた。男の子が入ってくる。少し緊張した表情で、きょろきょろと店内を見回していた。彼は、ハルトと名乗った。背は小さいが、高校生らしい。
「田中ユウトのレコード、ありますか?」ハルトは遠慮がちに尋ねた。
「ストリーミングの方が早いわよ」奏は微笑みながら答える。「でも、レコードなんだ」
「DJやりたいんです。物理的にコントロールしたくて」ハルトの目が少し輝いた。「アプリではひと通りできるんですけど、なんか…手応えがないっていうか。AIが補助するから大体完璧なプレイになっちゃって」
奏は頷いた。この子も何かを探している。ずっと昔、母のバイクを探し回っていた自分のように。分からないけれど、手放せないもの。理由なんてなくても、心が求めてしまうもの。
棚を探しながら、奏の手が偶然、あのレコードに触れた。
「これ、どう?」彼女はウーバーメンシュのレコードを取り出した。「ずいぶん前のバンドだけど。良いわよ」
ハルトは首をかしげた。「聞いたことない」
「聞いてみる?」
奏はレコードをターンテーブルにのせた。針を下ろす瞬間、店内に緊張が走る。プツッという小さな音に続いて、スクラッチノイズが空気を満たした。時間の痕跡。傷ついた記憶の証明。
「God must die! God must die!」
拓海の叫び声が、奏とハルトの間の空間を裂いた。荒々しいギターと、若い怒りが渦巻いている。
「God is dead!」
楽曲を聴き終えて、ハルトは困惑したような顔をした。
「なんか…ダサくないですか?」ハルトは正直に言った。「でも、なんだろう。なんか、よく分からないけど」
奏は懐かしそうに微笑んだ。記憶が重層的に折り重なる。バイクを探していた過去の若き自分。雨の夜のクラクション。そして今、レコードに囲まれる老いた自分。時間は螺旋を描くように、同じ場所を違う高さで通り過ぎていく。
「昔、私もよく分からないものに夢中になったことがある」
「何に?」
「古いバイク。母が乗っていたのと同じやつ」奏の目が遠くを見つめた。「分からなかった。なんで欲しいのか。でも、手放せなかった」
溶けてく景色のように、奏の記憶が蘇る。二十歳の夜、母のバイクを探して街を駆け回った。理由なんて分からなかった。でも、それこそが自分を形作っていた。そして今、また誰かが同じ迷いの中にいる。世代を超えて受け継がれる、説明のつかない渇望。
「もう一回聞く?」
楽曲が進み、最後の部分に差し掛かる。「世界の神は、まだ生きている。でも、僕らの神は、死んだらしい」という静かな呟きの直前で、針が飛んだ。
「あともう一回、最後まで聞かせてください」ハルトが言った。
今度は最後まで。拓海の最後の言葉が、午後の光の中に響いた。
「僕らの神は、死んだらしい」
長い沈黙が流れた。ハルトは何かと格闘している。理屈では説明できない引力。奏はその葛藤を知っている。過去の自分も、同じ場所にいた。答えのない問いを抱えて立ち尽くしていた。
「これ、売ってもらえますか?」ハルトがようやく口を開いた。
「田中ユウトじゃなくていいんだ」奏は意地悪そうに微笑んだ。
「分からないです。理由は」ハルトは正直に答えた。「でも、これが欲しい」
奏は穏やかに頷いた。「理由なんて、なくてもいいのよ」
レジでレコードを袋に入れながら、奏は言った。「あなたの神様は、まだ生きていそうね」
ハルトは怪訝そうな顔をしたが、やがて小さく笑った。
店を出る時、ハルトは振り返った。「ありがとうございました」その後ろ姿に、奏は自分の過去と未来を同時に見た。
ドアが閉まり、鈴の音が消える。一人残された奏は、棚からもう一枚のレコードを取り出した。針を下ろすと、優しいメロディが流れ始めた。
「進めビートはゆっくり刻む、足早にならず確かめながら」
歌声が店内に響く。急がない。確かめながら。一歩ずつ。
窓の外では、雲が切れ始めていた。晴れわたる空の色が顔を覗かせ、店内に新しい光が差し込んでくる。
旧き物にさよならと言う日々が、明日からも続いていく。でも大丈夫。音楽がある限り、誰かが何かを探し続ける限り、止めた時間はきっと元に戻る。
奏は微笑みながら、レコードの温かい重みを感じていた。
彼らの神は死んだらしい。
でも、ハルトの神は、今日微笑んだ。
