ロシア帝国におけるユダヤ人との戦い
はじめに
16230文字:投げ銭よろしく
日露戦争:1904年(明治37年)から1905年(明治38年)
シベリア出兵:1918年8月11日(大正7年)から1922年(大正11年)
この戦争の謎を解くためにロシアでのユダヤ人との戦いを学ぶ必要があると思った。なので「ロシアにおける反ユダヤ主義」のWikiを読み出したら面白かった。
英語・ロシア語のWikiより日本語の「ロシアにおける反ユダヤ主義」のwikiの方が遥かに詳しい、保存もかねて紹介。
⭕️ユダヤ人問題を知らない人はこのどれかを読んでから、このnoteをお読みください。
このnoteは日本語の「ロシアにおける反ユダヤ主義」のwikiを頭に入りやすいようおかしなノイズをカットし、資料を足したもの。理由はnoteのあとがきで説明してある(後書きから読むのもあり)。ポグロムあったとは思うけど数を誤魔化しているんじゃないかな?600万の人種だし(笑)
南京大虐殺は雑な、プロパガンダに気合が入っていないホラ・コーストだと思う。昔はコラージュ写真で冤罪捏造する人種がいるとは思わなかったし(笑)。731部隊は調べていないのだけど、ホラ・コーストが本当だというのだから嘘だろう(笑)
全てのメディア学者、誰もユダヤ人が2度の世界大戦の起こしたと理述べてないし。フリーメーソン、スカルアンドボーンズの話をしていないし。そもそも生贄儀式殺人する輩と述べてないし。調べたらわかる話を調べられない学者の話は信じない。731部隊のWikiを見ると謎解きは簡単そうな気がするが、ホラ・コーストと世界大戦の理由が正反対なんだから、もういいだろう。
謎は解けるがユダヤ人の犯罪はキリがない。(;・∀・)
ロシア人とキリスト教
プーチンのように、キリスト教に追い込むための罠の可能性もあるが、確かに、ロシアのキリスト教徒はユダヤ人の味方をするのではなく、糾弾していたようだ。だからキリスト教を否定する「ニーチェ主義」を与えた。とシオンの議定書で述べられていたんだと思う。
議定書を読み込んでいたらロシアの聖職者はゴイムで、正常にユダヤ人たちに怒っていた者たちが多かったのではないか、と思われる文があった。これはとても謎だったんだ。シオンの議定書を配布してくれたセルゲイ・ニルスはキリスト教の聖職者だ。
ーーー本編ーーー
モスクワ大公国 (1263-1547)
モンゴルのくびきから解放されたイヴァン3世(在位1462年 - 1505年)がモスクワ大公国を四倍に拡大した時代、ユダヤ人はモスクワ大公国に足を踏み入れた。

スハリヤユダヤ教団事件
1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロドでユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた。しかし、スハリヤユダヤ教団は「ユダヤ教まがいのキリスト教徒」として密かに活動を続け、イエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派、フォティノス派の教えと同じであった。この「ユダヤ教」の教えはロシアで広まったが、全スラブ主義者が勝利して、イヴァン4世(在位1533年 - 1547年)治世下の1540年、スハリヤユダヤ教団の指導者たちは処刑された。

このスハリヤユダヤ教団事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人への隔離政策も行われた。
ロシア・ツァーリ国 (1547-1721)
1550年、イヴァン4世(イワン雷帝)は、ポーランド王ジグムンド=アウグストからユダヤ人商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国させることはできないと拒否した。

ロシア帝国 (1721-1917)
1698年、ピョートル1世(ピョートル大帝)がアムステルダム市長ウィトセンからユダヤ人商人のモスクワ滞在の許可を求められると、自由思想の持ち主であったピョートル大帝は時期尚早と断った。1721年にピョートル大帝は皇帝を宣言し、ロシア・ツァーリ国はロシア帝国となる。

エリザヴェータ皇帝(在位1741-1762)は、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止した。1743年には元老院がユダヤ人商人の市場参加で帝国国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった。

パーヴェル1世(在位:1796年 - 1801年)は、ガヴリ−ナ・デルジャーヴィンにポーランドのユダヤ人調査を命じて、デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣以外の何物でもない、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家であり、ユダヤ人は隣人の財産を奪い取ることを目的としていると報告した。(⬇︎カハルについてわかりやすい)

ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801年 - 1825年)は、ユダヤ人を市民として解放すれば、ユダヤ人のキリスト教への改宗を早めることができるとして、ユダヤ人解放を計画した。

ニコライ1世の時代 (1825 - 1855)
ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825年 - 1855年)は、ユダヤ人対策を強化した。ニコライ1世は、教育相ウヴァーロフの提案で、ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要した。しかし、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまり、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じられた。

1825年に起きたデガブリストの乱の指導者の一人ペステリは、ニコライ1世の対ユダヤ強硬政策に同調して、ユダヤ人は強制的にロシア人に同化させるか、パレスチナへ追放するかのいずれかであると述べている。
デカブリストの反乱は、ナポレオン戦争中に遭遇した自由主義思想の影響を受けた、農奴制の廃止と立憲君主制の樹立を含む政治改革への欲求によって引き起こされました。さらに、皇帝アレクサンドル1世の死後、継承をめぐる混乱と、ニコライ1世の専制政治への不満も反乱の動機となりました。
ユダヤ人徴兵法 (1827)
1827年にはユダヤ人徴兵法が成立した。ユダヤ人にも兵役が義務づけられ、プロイセンのカントン制度を模して7歳以上のユダヤ人の子供をカントニストとして軍事教練に送り、キリスト教に改宗させた。
カハル解体、ユダヤ書物の検閲
ダマスクス事件(1840)の発生によって、ニコライ1世はヴラディーミル・ダーリに併合したポーランドのユダヤ人の調査を命じて、ユダヤ人の大多数は儀式殺人の慣習を持たないが、ハシッド派(ハシディズム)の狂信的な宗派は儀式殺人を行っていると報告された。

ニコライ1世は1844年にはユダヤ人自治機構カハルを解体し、ユダヤ書物への検閲が始まり、モーシェ・ベン=マイモーンの書物が儀式殺人を教唆するものとして差し押さえられた。また皇帝は、正教会でイディッシュ語で執行されるミサへの参列をユダヤ人に義務づけようとした。

モーシェ・ベン=マイモーンはノアヒディズムのルーツのラビだね。
作家アレクサンドル・プーシキンは作品でユダヤ人を裏切り者やスパイとして描いた。

作家ゴーゴリは小説『タラス・ブーリバ』(1835年)で、卑怯な搾取者のユダヤ人ヤンキェルが、コサック領主によってドニエプル川に沈められる姿や、「羽をむしられた鶏」のような姿を滑稽に描いた。

イワン・ツルゲーネフの『ユダヤ人』(1846年)では、密偵のユダヤ人の死刑執行が「見ていて本当に滑稽だった」として、「奇妙な仕草、実に非常識な叫びや身震いなどによって」「その光景がどれほど嘆かわしいものであってもわれわれはどうしても微笑んでしまうのだった」と描かれた。

「解放ツァーリ」:ユダヤ人の解放と反ユダヤ主義の拡大
ロシア皇帝イワン・ツルゲーネフ(在位:1855年 - 1881年)は、ユダヤ人徴兵法を廃止し、学校での宗教教育を自由選択として、ユダヤ人からは「解放ツァーリ」と呼ばれた。ユダヤ人の富裕層ではロシア語使用がすすみ、ユダヤの新聞がロシア語で出版されるようになった。

ロシアの富裕ユダヤ人には、銀行や金鉱開発や鉄道事業で成功したギンツブルク家や、金融資本家で南ロシア炭鉱会社を経営してロシア貴族ともなったポリャーコフ家があった。ネクラーソフはスラヴ人商人は良心の呵責によって窓から金を投げ捨てる一方で、富裕ユダヤ人は平気で搾取横領し、その成果を外国で貯蓄運用すると対比させた。

1862年、汎スラブ主義を主張する評論家アクサーコフは、ユダヤ人解放に反対して、「ロシアの民衆をユダヤ人のくびきから解放すること」を主張し、またキリスト教徒をユダヤ教からも解放すべきであると主張した。

1869年、ロシア正教会に改宗したユダヤ人のヤコブ・ブラフマンは『カハルの書』『地域的ならびに世界的なユダヤ人同胞組織』において、ユダヤ人は非ユダヤ教徒を商業・産業から追い出し、あらゆる資本や不動産を自分の懐に集めており、また、国際的な活動をするユダヤ人同胞組織によって世界中のユダヤ共同体(カハル)が同じ方向に向かっていて、「世界イスラリエット同盟」はフランス革命を起こしたと報告した。また、ユダヤ人はロシアに国家内国家を形成し、一般市民を服従させ搾取すると主張した。
どうなっているんだろうね?
1877年のロシア・トルコ戦争によって、ロシアでは反ユダヤ主義が国家上層部と大衆の間で広まった。
ドストエフスキーと反ユダヤ主義
文豪フョードル・ドストエフスキーは、ゴーゴリのユダヤ人描写を模して、『死の家の記録』(1862年)ではユダヤ人徒刑囚ブムシュテインを「羽をむしられた鶏」として滑稽に描いた。『悪霊』(1872)の作中では改宗ユダヤ人が共犯者を告発する様子を描いた。

ドストエフスキーは改宗ユダヤ人のブラフマンによる反ユダヤ主義の書物『カハルの書』(1869)から影響を受けた。1873年以降はユダヤ人への攻撃が激しくなり、ドストエフスキーは死去するまで反ユダヤ主義的な発言を繰り返した。1873年にドストエフスキーは、ロシア民衆が飲酒で堕落したままであれば、「ユダヤ人たちは民衆の血をすすり、民衆の堕落と屈辱を自分たちの糧とするであろう」とし、農村はユダヤ人に隷属させられた乞食の群れとなると警告した。
1876年にはユダヤ財界人が自分たちの利益のために農奴制の復活をもくろんでいるとし、ユダヤ人がロシアの土地を購入すると元利を戻そうとして、たちまち土地の資源が枯渇されるということに異議を唱えれば、ユダヤ人は市民同権の侵害だと騒ぐだろうが、それはタルムード的な国家内国家の重視であり、「土地だけでなくやがては百姓も消耗させられてしまうとしたら同権も何もあったものではない」と反論した。
読みづらいのでーーー大中略ーーードストエフスキーは
ユダヤ人に怒りまくっているのがわかった(汗)
1877年4月には、ヨーロッパで2世紀もロシアを憎んでいる「何千何万のヨーロッパのジューと、その連中と一緒にユダヤ化している何百万のキリスト教徒」はロシアの宿敵であるとした。
1877年9月、露土戦争についてドストエフスキーは、ロシアがスラブ的理念を放棄して、東方キリスト教徒の運命の課題を解決せずに投げ出すことは、ロシアを粉々に解体して絶滅させることだと論じ、ロシア国民は「ユダヤ人や相場師たちの手中にあって、ガルヴァーニ電気を通じてぴくぴく動くような死骸ではなく、自分の自然の使命を遂行しつつ、真の生きた生活を生きる国民でなければならない」とし、もしロシアがこの戦争を始めなかったならば、自分で自分を軽蔑するようになったことだろうとして戦争を支持した。
同年11月には、コンスタンティノープルをトルコ人放逐後に自由都市にしてしまうと、「全世界の陰謀者の隠れ家となり、ユダヤ人や投機人のえじきとなる」というスラブ主義者ダニレフスキーの見解を卓越した正しい推論と称賛した。
1879年のカフカース地方のクタイシでの儀式殺人裁判についてはドストエフスキーもユダヤ人に疑念を持った。1879年夏、ドストエフスキーは、ドイツの保養地バート・エムスに療養で訪れた際に、湯治客の半分はユダヤ人であり、ドイツとベルリンはユダヤ化されてしまったと友人のロシア宗務院長ポベドノスツェフに報告している。

聖務会院とは、1721年にモスクワ総主教庁が廃止されてから、1918年にモスクワ総主教庁が復活するまでの間、ロシア正教会を統括する最高機関であった組織。
これに対してポベドノスツェフ宗務院長は「ユダヤ人はすべてを侵略し、蝕んでいますが、『この時代の精神』が彼らに有利に作用しているのです。ユダヤ人は、社会民主的運動やツァーリ暗殺運動の根幹に位置し、新聞・雑誌を支配し、金融市場を手中におさめ、一般大衆を金融面での隷属状態に追い込み」、「今ではロシアの新聞はすでにユダヤ人のものになっています」と返信した。
小説『カラマーゾフの兄弟』(1880)では、肉欲と物欲の権化であるフュードルがユダヤ人が多く住むオデッサでユダヤ人と知り合いになり、金を稼いで貯め込む才覚を磨いたとし、また儀式殺人で快楽を引き出すユダヤ人について描写した。
1880年8月にドストエフスキーはスラヴ主義や西欧主義は間違っていると批判し、「偉大なるアーリア人種に属するすべての民族を全人類的に再結合する」ことはロシア人の使命であり、「すべての民族をキリストの福音による掟に従って完全に兄弟として和合させ、偉大なる全体的調和をもたらす」と主張した。
死の直前の1881年1月には、土地を領有するものは鉄道家や実業家や銀行家やユダヤ人でもなくて、誰よりも農民であるべきだとし、農民は国家の核心であるとした。
ポリーナ・スースロワの夫ヴァシリー・ローザノフはドストエフスキーを尊敬し、アーリア人の威光とユダヤ人の血の欲望について論じた。ドストエフスキーは聖ロシアを第三帝国としなければならないと論じ、その思想は『第三帝国』を著したドイツの右翼知識人メラー・ファン・デン・ブルックに影響を与えた。
トルストイと反ユダヤ主義
文豪レフ・トルストイはヘブライ語で旧約聖書を読んだが、戒律と愛との関係においてユダヤ教とキリスト教は根本的に対立するとしており、ユダヤ教の選民思想については「民族的思い上がり」と批判する一方で、ユダヤ教は我々の似非キリスト教共同体の道徳よりも高い(1890年5月25-26日付ゲッツ宛書簡)と述べるなど、アンビバレントな評価をしていた。
しかし、死去するまで手紙や日記では反ユダヤ主義的な発言を繰り返した。

ドレフュス事件についてトルストイは「私はドレフュスのことは知らない。だが、私は多くのドレフュスたちを知っており、そうした人々は有罪であった」 と述べ、この事件は「フランスにとって取るに足らぬ重要性しか持たず、ましてや他の世界には全くといっていいほどつまらぬ問題」であり、「ロシア人が、ドレフュスという何ら際立ったところもない人間の擁護にかまけているのは、なんともおかしなことだ」と事件の反響を批判した。
ドレフュス事件とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された事件である。
小説『アンナ・カレーニナ』(1875-1877年)では、アンナの兄の貴族オブロンスキが権限を持つユダヤ人に「勝ち誇ったように」就職を拒絶する場面を描いた。トルストイはソロヴィヨフに自分はユダヤ人のテーマを扱う気にはなれないと打ち明けた。
1903年の大規模なポグロムについて、自分に言えることがあるとしても出版には適さないと発言した。
日露戦争に際してトルストイは、ロシアの敗走ではなく、「偽キリスト教文明の敗走」であったとして、「芸術・科学的活動において、金銭を得て成功するための戦いにおいて、ずっと前から崩壊は始まっていた。ユダヤ人はそれらの活動において、あらゆる国々ですべてのキリスト教徒に打ち勝った」と述べた。
ロシア皇帝、アレクサンドル2世はなぜユダヤ解放政策を取りましたか?
アレクサンドル2世暗殺とポグロム
1881年3月13日、ユダヤ解放政策をとってきたアレクサンドル2世がテロ組織「人民の意志」のポーランド人メンバーのイグナティー・グリネヴィツキーによって暗殺された。暗殺グループにはユダヤ人女性ハシャ・ヘルフマンもいた。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は「鉤鼻をした東洋風の男」が、『ヴィリニュス通信』はユダヤ人が犯人であると報道した。

人民の意志は、ロシア帝国の反体制テロ組織。組織的テロリズムの草分けともいうべき存在である。人民の自由とも呼ばれる。(ユダヤ人が多そう)
ナロードニキの秘密結社「土地と自由」から分裂した過激派によって1879年に結成された。フランス革命に影響を受け帝政の打倒と農村共同体を母体とした社会主義をスローガンに掲げていたが大衆からは支持されていなかった。「最終的には革命は大衆の参加を必要とする」と考えていたがそのために最初に皇帝を暗殺して大衆の価値観を変え、反乱勃発を促そうとしていた。

皇帝暗殺事件を背景にして1881年4月の復活祭に先立つ聖週間には、ウクライナのエリサヴェトグラード、キエフ、オデッサで大規模なポグロム(迫害)が発生した。扇動者一団は鉄道で訪れ、ユダヤ人は皇帝を殺害したというビラが街中に貼られ、街頭で反ユダヤ新聞を読み上げて、ユダヤ人への暴行がなされていった。扇動者一団には、君主制護持派の大公や将校が結成した聖従士団の一部が関わっていた。1881年から1884年まで、南ウクライナのキエフ、エリザヴェトグラートで農民や出稼ぎ労働者によってユダヤ人のポグロムが発生した。
ポグロムについてどーみてもユダヤ人作家のシチェドリンやレスコフはユダヤ人に同情して弁護し、ゴーリキーも当惑と恥辱で胸いっぱいになるとして、作中ではユダヤ人はつねに善人として描写された。
他方で1880年代のロシアの左翼団体では反ユダヤ主義が称賛され、社会主義雑誌も一誌をのぞいてポグロムを好意的に語った。
皇帝アレクサンドル3世(在位:1881年 - 1894年)は1882年にユダヤ人の搾取からキリスト教徒を守る臨時条例を定め、1883年2月には「ユダヤ人についての現行法見直し委員会」を設置し、5年間の討議の末、委員会は反ユダヤ的な政策を廃止して、ユダヤ人をキリスト教徒と融和させることが必要であると結論したが、空文となった。
空文:内容のない、意味のない文章のこと。

1883年に皇帝は「ユダヤ人がキリスト教徒から搾取し続ける限り、この憎悪が和らぐことはないだろう」と書いている。1890年、モスクワ警察はユダヤ人商店に看板でヘブライ語の名前を掲げることを義務づけた。1891年、ロシア政府は過越祭(ペサハ)に合わせてモスクワからほとんどのユダヤ人を追放した。
最後のロシア皇帝ニコライ2世 (1894-1917)
最後のロシア皇帝ニコライ2世(在位1894 - 1917年)は1882年の臨時条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、ロシア人農民がユダヤ人から搾取されないようにユダヤ人の田園地帯、キエフ、皇帝離宮のあるヤルタなどでの居住を禁じた。定住地域外ではユダヤ人への検挙が行われ、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店ではユダヤ人であると分かるように店舗に明示することが義務づけられ、また1887年から学校でのユダヤ人定員が制限された。

ユダヤ人国外移住推進政策
ドストエフスキーの友人だったポベドノスツェフは、ユダヤ人は寄生虫であるためつまみだす必要があるとして、「ユダヤ人の三分の一は国外へ移住させ、三分の一はキリスト教に改宗させ、残る三分の一は死に絶える」と政府に提案し、ロシア政府はユダヤ人の海外移住を推進した。
1881年のポグロム以降、1891年までにアメリカ合衆国へ移住したユダヤ人は13万5000人、1891年から1910年の間にはほぼ100万人のユダヤ人が米国、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、南アフリカへ移住した。ロシアのポグロムから逃れた東欧ユダヤ人のうちドイツに留まったのは10万人以上で、7万人はパレスチナへ移住してユダヤ人民族主義運動のシオニズム運動を発展させた。
南アフリカの共産主義ユダヤ人たち。⬇︎
『シオン賢者の議定書』
1895年、ロシア警察に保管されていた『ユダヤ教の秘密』という文書では、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊すると計画したとされたが、この文書は皇帝に提出されなかった。
他方、1897年にはユダヤ人労働者政党ブンド(Bund)が結成された。

右:1905年、オデッサでのポグロムに際し殺害された同志の遺体を囲むブンド党員
◉ブントは、東ヨーロッパで大きな社会的・政治的変化が起こり、ユダヤ人コミュニティが反ユダヤ主義の高まりと経済的困難に直面していた時期に出現しました。
◉ブントは、シオニズムに反対し、ブントは宗教に基づく政治を拒否し、世俗的なユダヤ人のアイデンティティを主張しました。
◉ドイカイト:「ここにいること」を意味するこの原則は、ユダヤ人がパレスチナに移住するのではなく、現在の故郷で権利のために闘うことを促しました。ブントは労働者の権利、市民の権利、そして反ユダヤ主義との闘いに重点を置いていました。
◉ロシア・ブントは1921年に解散し、多くのメンバーが共産党に入党しましたが、残党は各国に残りました。
◉ブントの影響は特に北米で持続し、社会主義労働運動とユダヤ文化生活に貢献しました。ユダヤ人の政治思想と活動に永続的な影響を与えました。
⬇︎

『シオン賢者の議定書』では、シオンの賢者らがユダヤ人専制君主を全世界の法王とするためにフランス革命を起こし、世界すべての民をユダヤ教の前に平伏させることを目的としていると書かれた。
ロシアでのユダヤ人行政が強硬になると、ユダヤ人はアメリカ合衆国へ移住したり、またユダヤ人の間では、パレスチナへの愛とシオニズムが広まっていったが、1903年にはロシア政府がシオニズムを禁止した。
ロシア革命が発生すると、『シオン賢者の議定書』はロシアだけでなく、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、日本でも翻訳され流布していった。
キシナウ事件 (1903)
1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアのキシナウでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシナウでユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。
このキシナウ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。

「ルーズベルト大統領(皇帝に) - 外部に平和があるのだから、なぜ彼の重荷を取り除き、国内に平和をもたらさないのか?」と書いてある。
ユダヤ人セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領がロシア皇帝ニコライ2世にユダヤ人弾圧の停止を要請するカートゥーン(1904)

左:真珠湾攻撃の父、ヨーロッパ戦線を太平洋戦争に拡大したユダヤ人の第32代フランクリン・D・ルーズベルト大統領。
二人のアメリカ大統領を輩出したルーズベルト家は、黒人奴隷貿易で財をなしたオランダ系のユダヤ人でありアヘン密輸業者でもありました。
第32代フランクリン・D・ルーズベルト大統領はフリーメーソン!

第26代セオドア・ルーズベルト大統領もフリーメーソン!
セオドア・ルーズベルトはフリーメーソンで、米国大統領になる直前の 1901 年にフリーメーソンに入会しました。彼は大統領在任中にフリーメーソンの活動に積極的に参加し、フリーメーソンの原則への献身的な姿勢で知られていた。

メンバーシップの詳細
入会: セオドア・ルーズベルトは 1901 年 6 月 28 日にフリーメーソンに入会しました。
ロッジ: オハイオ州マリオンのマリオン ロッジ No. 70 に入社しました。
学位: ルーズベルトは 1920 年 8 月 27 日にマスター メイソンの学位に昇進し、スコットランド儀式の 32 位会員になりました。
大統領職への影響
セオドア・ルーズベルトのフリーメーソンへの献身は、彼の生涯と大統領職を通じて明らかであり、公共奉仕と道徳的リーダーシップへの彼の献身を反映していました。
日露戦争とロシア第一革命 (1904-1905)
1904年から1905年にかけての日露戦争では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦の理由とされた。
1905年1月に血の日曜日事件が起きると、春にかけて各地で大規模な抗議ストライキが起きて、ロシア第一革命が6月まで続いた。2月にはモスクワ総督でロシア大公のセルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。


6月には戦艦ポチョムキンの水兵が反乱した。夏には農民一揆や、ビアウィストク、ブレスト=リトフスク、ミンスク、クリミア半島のケルチでのポグロムが発生した。

ユダヤ人セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』
8月にニコライ2世はドゥーマ(議会)の創設を許可した。9月に日本との講和条約ポーツマス条約が結ばれたが、国内の騒乱は収まらなかった。

ロシア第一革命を通してユダヤ人への猜疑は深まり、セルゲイ・ヴィッテはユダヤ=フリーメイソンの陰謀に加担したとして告発された。しかし、ヴィッテもユダヤ人の横暴が度を越したと見ていた。

十月詔書と頻発するポグロム
10月、セルゲイ・ヴィッテは「国家秩序の改良に関する詔書」で立憲主義を導入して皇帝の専制権力を制限したが、皇帝ニコライ2世は反発した。十月詔書を歓迎するデモが起こり、皇帝派の対抗デモが起こった。「ユダヤ人と革命派打倒」をスローガンとする皇帝派は、数百箇所の町でポグロムを起こした。
十月詔書直後、皇帝ニコライ2世は革命運動の9割がユダヤ人であったために反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した。
ロシア政府は「革命家」を「ユダヤ人」の類義語としていた。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した。
モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、ヴィッテやストルイピン首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称されるゲオルギー・プレハーノフは、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した。

1906年、蔵相ココフツォフはユダヤ人の侵入を防ごうとしても、彼らは簡単に合鍵を見つけるので無駄であり、抑圧政策はユダヤ人を苛立たせるだけであるし、行政側の不正や越権行為を助長することにしかならないので、反ユダヤ法の制定には反対した。1906年以降は、ビアウィストクとシェドルツェのポグロムで合計110人が殺害された。

1906年から1916年にかけて、反ユダヤの著作物が2837冊出版され、皇帝も1200万ルーブルの財政援助をした。クルーシェヴァンの『軍旗(ズナーミャ)』紙は、ユダヤ問題は宗教問題ではなく、人種の問題であり、ユダヤ人は「寄生虫的で貪欲な本能」を持ち、「彼らの侵入を許してしまった社会には確実に死をもたらす」と報道した。
政治家ニコライ・マルコフは、左派代議士に向かって、「ロシア人の子供の喉を切り裂いてその血を吸うユダヤ国の末裔の正体」を暴くこともできなくなった時、正義も司法も頼りにならないとロシア民衆が確信した時には、最終ポグラムが発生して、ユダヤ人の「一人残らず、最後の一人にいたるまで、文字通り喉を掻き切られる」と演説した。
ベイリス事件 (1911)
1911年3月20日、13歳の男の子の死体がキエフ郊外で発見されると、ロシア民族同盟らが儀式殺人の方向で調査し、ユダヤ人の煉瓦工場職工長メンデル・ベイリスが逮捕された。共産主義者の作家のウラジーミル・コロレンコは、ベイリス事件について特定の民族への偏見であると抗議した。アメリカも抗議して米ロ通商条約を破棄し、内相マカロフは訴追を断念した。しかし、法相イヴァン・グリゴリェヴィチ・シチェグロヴィートフは裁判を再開し、ベイリスは無罪とされたが、少年が儀式殺人で殺害されたことは事実と認められた。9月、キエフでアナーキストのユダヤ人が皇帝の目前でストルイピン大臣を銃撃した。


1912年、改宗ユダヤ人の2世、3世は士官への昇進を禁止された。
第一次世界大戦とユダヤ人スパイ恐怖
第一次世界大戦下のロシアでユダヤ人は祖国ロシアへの愛国心を宣言していた。1914年7月にはユダヤ人議員ナフタリ・フリードマンがユダヤ人とロシアには数百年の絆があり、ユダヤ人は深い祖国愛を持っているとし、またユダヤ系新聞『ノーヴォ・ヴォスホード』はユダヤ人同胞は祖国のために志願兵となったと報道した(笑)。
他方で、反ユダヤ組織黒百人組による印刷物の軍内での無料配布も続き、ユダヤ人は捕虜になるとロシア人捕虜を虐待するとも報道された。
1915年にロシア軍が対ナポレオン戦来の焦土作戦に切り替えて大退却を始めると、ユダヤ人がドイツのスパイとみなされるようになった。1月に「ユダヤ人、その他スパイの疑いがある人物」の強制退去が通達され、西部地域から60万人のユダヤ人が内陸部へ追放された。
1915年秋にはユダヤ人の検挙や略式裁判での絞首刑なども行われるようになり、シナゴーグでの慣習であった村を囲む紐を敵と通話するための電話線であるとして被疑者が処刑されたこともあった。1915年に『ゼムシチナ』紙は宣戦布告してきたのはドイツではなくユダヤ人であると報道し、1916年には『グラジュダニン』紙はニコライ2世の従兄弟であるイギリス国王ジョージ5世をフリーメイソンで革命派であるとした。

ジョージ5世として知られるジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートは、フリーメイソンでした。彼は生涯を通じてフリーメイソンリーに関わっており、これは英国王室の多くのメンバーに共通するものでした。
フリーメイソンであるジョージ5世は、1910年から1936年に崩御するまで、連合王国の国王でした。彼は1865年6月3日に生まれ、英国史における重要な人物となりました。
ジョージ5世として知られるジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートは、1910年から1936年までインド皇帝として君臨しました。インド皇帝の戴冠式を祝う盛大な儀式である皇帝即位式がデリーで行われました。この行事は、大英帝国の力と影響力を示す上で重要な意味を持ちました。
彼が国王を務めた時代には、インド独立を訴える運動が勃興しました。
ジョージ5世は、ドイツにおけるアドルフ・ヒトラーとナチ党の台頭を懸念した。彼はドイツが世界平和に対する重大な脅威であると警告し、現状が続けば10年以内に戦争が起こる可能性が高いと警告した。
1915年8月、ドイツ軍がロシア領ポーランドを征服してリガに進軍すると、内相ニコライ・ボリソヴィチ・シチェルバトフは、ニコライ・ニコラエヴィチ・ヤヌシケヴィチ将軍が失敗の責任をユダヤ人に帰して軍内部でポグロムが推進されていると閣議で発言した。
ルフロフ通信大臣は、ロシア人が戦争で苦痛に耐え忍んでいる間にユダヤ人銀行家は国民から搾り取っているし、1905年の非常事態(革命)にユダヤ人が果たした役割を思い出すべきであると発言、シチェルバトフ内相はユダヤ人の破壊活動についてルフロフ通信大臣の指摘は正しいが、戦争資金はユダヤ人の手中にあると述べた。ロシア国内のスパイへの恐怖は、最終的に帝政崩壊をもたらした。
一方、毎度、ロシアのプロパガンダの話で出てくるユダヤ人ぽい作家ゴーリキーやコロレンコ、メレシュコフスキーやアンドレーエフは親ユダヤ発言を行って反ユダヤ主義に抗議した。
ソビエト・ロシア共和国:1917-1991
2月革命後の3、4月にはロシア軍脱走兵によるポグロムが発生した。3月にニコライ2世は退位した。
ロシア革命で臨時政府が全市民の平等を宣言すると、ユダヤ人集団は臨時政府を支持した。1917年、アナトリー・ルナチャルスキー(ソ連初代教育人民委員)がクーデター直前に作成した順位表によれば、1位のレーニン、2位のトロツキー、3位のスヴェルドロフ、6位のジノヴィエフ、7位のカーメネフはユダヤ人であり、指導者グループでユダヤ人でなかった者は4位のグルジア人スターリン(超ユダヤ人だよw)、5位のポーランド貴族のジェルジンスキー(父がユダヤ人の情報はある)の2名であった。
全員ユダヤ人、または9割ユダヤ人で残りはクリスチャンだろう。
ニコライ2世とロマノフ家の処刑
処刑の背景

1917年の二月革命後、ニコライ2世は退位した。ニコライとその家族は当初投獄され、後にエカテリンブルクに移送されました。反ボリシェヴィキの白軍が迫る中、ボリシェヴィキはロマノフ家の救出を恐れ、処刑を決定しました。ウラル・ソビエトは1918年7月14日に処刑を正式に命じました。
処刑
処刑当日の夜、銃撃は迅速かつ無秩序に展開し、ニコライ、妻アレクサンドラ、5人の子供たち、そして数人の使用人が命を落としました。
その後の出来事と遺産
処刑は当初秘密裏に行われ、ボリシェヴィキはニコライの死のみを発表していました。時が経つにつれ、悲劇の全容が明らかになり、広く非難を浴びました。今日では、多くの人々がこの処刑をかつての皇帝一家に対する凶悪な犯罪とみなしている。
あとがき
とても詳しいwikiだったがユダヤ人レオン・ポリアコフの本からの引用なんだ。だから、相反する出来事が交互に載っているwikiだった。
このようにすると、嘘ではない情報があっても、真相を理解できないようにすることが出来る。


レオン・ポリアコフ(1910年11月25日 - 1997年12月8日)は、ホロコーストと反ユダヤ主義について広範な著作を残したフランスの歴史家である。 『アーリア神話』の著者でもある。
ポリアコフはロシア系ユダヤ人の家庭に生まれ、フランスに定住するまでイタリアとドイツに住んでいた。
彼は、第二次世界大戦中のユダヤ人迫害に関する文書を収集するために設立された現代ユダヤ人文書センターの共同設立者です。また、ニュルンベルク裁判ではエドガー・フォールを支援しました。
ポリアコフは1954年から1971年まで国立科学研究センター(Centre national de la recherche scientifique )の研究ディレクターを務めた。

現代ユダヤ文書センター
The Center for Contemporary Jewish Documentation
現代ユダヤ人文書センターは、第二次世界大戦中の1943年、フランスのグルノーブルでイザック・シュネールソンによって設立されたフランスの独立組織であり、ナチスの戦争犯罪の証拠を後世に伝えることを目的としていました。フランス解放後、センターはパリに移転しました。2005年には、ショア記念館と合併しました。
CDJCの目標は、研究を行い、文書を出版し、ナチスの戦争犯罪人を追及し、ナチスの犠牲者への賠償を求め、そして、特にフランスのユダヤ人に影響を与えた出来事に関するホロコースト資料の大規模なアーカイブを維持することであった。 CDJCの活動には、学生や教師への教材の提供、博物館見学や現地視察のガイド、国際会議、活動、記念行事への参加、ショア記念館やドランシーの記念碑などの記念碑や場所の維持管理、そして最も重要な、大規模なアーカイブにあるホロコーストに関する文書の収集と配布が含まれる。
アイザック・シュネールソン
Isaac Schneersohn
アイザック・シュネールソン(1879年または1881年 - 1969年)は、フランスの ラビ、実業家であり、最初のホロコースト記録保管所と記念館の創設者である。彼は第一次世界大戦後、ウクライナからフランスに移住した。
シュネールソンはウクライナ北部のホロドニアとチェルニーヒウで首席ラビを務めた。

フランスへの移住
ロシア帝国出身のイサーク・シュネルソンは、1920年のボルシェビキ革命後にフランスに移住した。彼は戦間期にフランス国籍を取得した。
パリでは、「彼の家はユダヤ人の指導者たちが集まる場所となり、その多くはシオニストで、ほとんどが彼と同じように右翼修正主義者だった。」
右翼修正主義者➡︎『修正シオニズム』の逃げた表現。
『修正シオニズム』が本当のシオニズム。
ネタニヤフのリグルード党は、正統派ラビと同じく旧約聖書原理主義で、『修正シオニズム』の党。オスロ合意のラビンは労働シオニズムの党。彼らはネタニヤフのように神の教えが分かっていない。神の計画ではまだ平和になってはいけないのだ。


レオン・ポリアコフの 『アーリア神話』の紹介
レオン・ポリアコフの 『アーリア神話』を紹介をしている。
このように、意味を汲み取れない高尚そうなポエムの読書感想文を書く仕事の者は、大抵プロパガンダだ。重要なことを日本語で検索すると、良くこのサイトがヒットする。(;・∀・)

おわり
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