茨城百景 守谷城址
茨城百景については→『茨城百景とは結局何なのか?』


今回一覧表は一致。
下調べ編
まず景の名前になっている守谷城ですが軽く調べるとどうやら守谷城址公園という公園になっているようです。史跡の保存◎
百景の石碑もこの景は存在していて城跡から400mほど離れた守谷小学校のすぐ近くにあるらしい。石碑◎
守谷城は茨城県守谷市本町周辺にあったとされる中世の城で、自然の地形を利用した平山城です。昔々守谷城は沼沢地に突き出た城でした。
元々茨城県南部~千葉県北部あたりには香取海という大きな内海があり、関東平野のそれ以外の地域も池沼や河川が入り乱れる地形だったのですが江戸時代以降の何百年間にも及ぶ土木工事の積み重ねで現在の地形になりました。

守谷城もかつてはこういった関東平野に数あった沼地に浮かぶ城だったわけですね。
そしてそんな事よりもこの城で肝心なのが平将門伝説です。
ここは築城者・築城時期に関する史料が無く誰がいつ築いたのか詳細は不明。諸説あって鎌倉時代の初期に千葉常胤の次男・相馬師常が築いたというのが一応有力説となっていますが、一方で平将門が築いたという伝承が残っています。
『将門記』によれば、「新皇」を称した平将門は「下総国の亭南」に「王城」を置いたという。平安時代の『扶桑略記』では、それが下総国猿島郡の岩井郷(現在の坂東市岩井)であるという認識が記されているが、鎌倉時代頃から将門が相馬郡に都を置いたとする言説が現れ、定着するようになる。たとえば『平家物語』においては将門が「下総国相馬郡に住して八国を横領し」との一節があり、『神皇正統記』には「下総国相馬郡に居所をしめ、都となずけ、みずから平親王と称し」とある。
そしてこういう伝承が出てきた後、先ほど述べた相馬氏の子孫が将門の直系子孫を称しまくります。

そしてしばらく時代が経ちこうなったようです。
こうした経緯を経て、守谷において守谷城は「将門城」と認識されてきた。明治時代には「平将門城址」と記した記念碑も建立されている。「茨城百景」の選定に際し、当時の守谷町は「平将門城址」の名で推薦したが、主催者側の判断で「相馬城址」と改められたために、「守谷平将門城址」で登録するよう守屋町長名での要望が出されるという騒動が生じた。現在では「守谷城址」が正式名称であるとされる。
資料『茨城百景巡歴』のレビュー記事で選定の段階で何故か人気投票の結果が必ずしも100%反映されている訳ではない事に言及してますがこれで理由がわかった気がします。こういう各方面との調整やイザコザは他の景でもあって色々な事情が重なってるんだろうなという。
①平将門の遺跡
将門伝説の続きですが、平将門がこの地域に都を真似た偽都を作ったという伝説があり資料『茨城百景めぐり』の著者鈴木センセはその伝説に関連する(とされている)史跡を平将門の遺跡として挙げています。

実際このあたり一帯には平将門にゆかりのあるとされる史跡が点在しています。そーいえばこの辺の地域には平将門とゆかりがあるから成田山に参拝してはいけない家があるとかなんとか聞いた事あるけどそういう事か。
しかし~この包含風景は明らかに前途の景の名称を巡るイザコザの折衷案から生まれたモノだと思われます(鈴木センセはそんな事情知る由も無かったと思うので仕方ないんですが) 即ち暗に守谷城の事を指しつつ守谷周辺にゴロゴロある将門関連の史跡のどれかとも取れるようにしてあるわけです。でもせっかくならどこか行っときたいなぁ。
鈴木センセの挙げている場所は常総市でこの景の包含風景というには別地域すぎる。じゃあというわけで他の先人茨城百景巡ラー達の記事を参照してみると海禅寺(守谷市高野に所在)という平将門が京都になぞらえて町作りをした際に紀州金剛峰寺をモデルに創建したと伝えられる寺に行っている人がいました。自分も先人に倣ってその海禅寺に行ってみるかぁ。
②一茶の遺跡


この西林寺は守谷市本町に所在する抑護山清浄院西林寺の事で守屋城址から1.5km南に所在。
「将門の都の跡」は文芸的な興趣を誘う題材であったようで様々な俳人がこの地域に訪れ「将門古城」に寄せた句を詠んだとの事。そして↑の小林一茶もその一人。彼はこの西林寺の住職であった義鳳と親交があり、たびたびこの寺に訪れて句会を開いていたようです。
③板戸井清滝山の景勝
ここは守谷城とは関係性が無いので資料『茨城百景巡歴』に書かれていた「結びつけて総合した近隣の観光地」だと思われます。

大井沢村の板戸井までは特定できましたが(現在の守谷市板戸井)清滝山がわからない。
板戸井清滝山で調べると板戸井にある清瀧寺というお寺が出てきます。ただしこのお寺の山号は雲光山なんですよね~どういうことだ・・・
このあたりの字(あざ)を調べると滝山という所があります。場所は清瀧寺と鬼怒川を挟んだ対岸にある清瀧香取両神社がある付近らしい。この滝山の名前の由来を調べてみると1980年の広報もりやが出てきました。


つまり滝山にある清滝神社で清滝山という事か!
そしてどーやら元々清瀧寺と清瀧神社の境内は繋がっていて寛永年間からの鬼怒川の開削工事で分断、1956年に滝下橋が出来るまでは船で渡っていたそう。つまり清滝山は神仏習合時代の名残的呼称かな。
ともかく茨城百景の選定した板戸井清滝山とは渡し船で風光明媚な自然に囲まれた川を渡って寺と神社に参拝~的な観光地だったというイメージ。
現地編
まずは石碑。

石碑のすぐ目の前にある守谷小学校は陣屋の跡地に作ったものらしい。龍ヶ崎城と同じような感じ。
百景の碑から道路を挟んだ所に平将門城址の石碑もあります。



ちなみにこれらの石碑のある所は地味に土塁跡らしい。小学校の敷地内にも遺構があるみたいなんですが城マニアの人のHPを見てると不審者扱いにビビって見学を頼む事すら諦めてる様子でしたw
あと今は開発が進んで道がゴチャゴチャしていますが元々は石碑のある場所から城跡までは一本道だったようです。


選定当時は守谷の市街地から城跡に向かう時はまずこの石碑の所から美しい田園地帯の道をハイキングして城跡にたどり着いたんでしょうけど今はただの住宅地の生活道路なので現代人らしく車で400mほど移動して城跡公園の駐車場に到着。

公園駐車場の目の前の民家に殺〇用みたいな大型犬の犬小屋が此見よがしに設置されていて車から降りた瞬間メッチャ吠えられました。


将門の幽霊が怖いから対策として飼ってるんでしょうか?
番犬の横をすり抜けると少し下ってこんな感じ。



このボードウォークは守谷野鳥のみちと言って現地の野鳥の会的なのが整備したらしい。
このボードウォークの入口のすぐ隣にコレ。堀の跡です。



うおおおおおお圧巻の一言。
あ、そうだ(唐突) 今更ですが守谷城の構造の説明です。

先ほどの堀の写真は矢倉台と二の丸の間の空堀です。そんでまずは矢倉台に。



ここからは守谷の高層マンションが見える。石碑の所もそうでしたが守谷はTXの駅の周囲は開発されていて近未来的、だけれど通りを一本行ったら旧来の市街地があるという面白い街並み。この矢倉台は正にそんな守谷の街を体現しているような感じ。
次は船着き場。

水上にあった城というのが実感できます。
次は二の丸へ。


二の丸には見晴台が整備されていました。水田に水を張り始めた時期なのでもうあと1ヶ月くらい後なら水上の城だった時代の雰囲気を感じれたのかも。
そして二の丸から本丸に渡る途中には土橋。


これを渡ると楯形曲輪。

現地には要所要所に親切な案内が置かれているので下調べ無しでも楽しめそうです。
楯形曲輪から空堀に下って再び登って遂に本丸へ。


本丸が一番特徴無いな。あ、妙見郭だけ見忘れた。
追記(2025年11月4日)
再訪して妙見郭行ってきました。




①平将門の遺跡
大雄山 海禅寺でぇす!

ここには相馬氏の位牌と七騎塚というものがあります。

これが透明性って奴ですか・・・


②一茶の遺跡


何かやたらと殺風景な境内ですが昔のストビューを確認すると元々は境内の周囲は雑木林で囲まれていたようで、その雑木林の所に集合住宅が出来てこうなったみたいです。

③板戸井清滝山の景勝
まず清瀧神社から。参道は取手豊岡線側からのと川側のがあります。




この周囲はまだ開発の波が来ておらず原風景って感じです。



ただし川側の参道は船着き場跡に続く部分が藪に覆われ寸断されています。




ちなみに昔はこんなんだったらしい。

ともかく渡し船は既に無いので橋を渡って寺側に行ってみます。
トコトコ・・・

この取手豊岡線はカッペロードですが守谷の中心部から延びる片側二車線道路が接続していている上、ここが突然片側一車線になるネックポイントなので大量の車が流入し交通量が多いです。明らかにキャパオーバーなのでさっさとバイパス作ったほうがいいと思いました(小並感)
橋からの景色は抜群。


名前の由来になったであろう滝みたいな部分はアレかな?
橋を渡り終えたらすぐに清瀧寺です。


こちら側は渡し場へ至る道の跡すら見つけるのが困難です。航空写真や古地図を見るとこのあたりにあった筈。

