駆け抜けた創作大賞|一番変わったのは僕だった
あと数時間で創作大賞が終わる。
審査員の方々は僕の作品をもう読んだのか。机の上で順番待ちをしているのかもしれないし、すでに三行くらい読んで「なんやこれ」と蹴り飛ばされてる可能性もある。どちらにせよ、僕の中で、ひとつの季節が終わった。
三か月前の僕は、創作大賞という言葉を前にして、たいそう真面目な顔をしていた。
なにしろ「大賞」である。どうすれば選ばれるのか。どんな文章が評価されるのか。去年の受賞作を読み、出版社のコメントを読み、エッセイの書き方を検索し、ペルソナや読者ターゲット、共感設計だの、見慣れない言葉を拾っては、せっせと文章に貼りつけようとしていた。
今思えば、文化祭で何を出すかも決まっていないのに、勢い任せに段ボールを集めてる高校生みたいである。とりあえず「何か立派なもの作らなあかん」って感じで形から入ろうとした。焼きそばの屋台に、お化け屋敷、モテるためにバンドまで、全部参加しようとしていた。
そんな中、僕を悩ませたのは「読者に届ける」という言葉である。
文章を書くなら読者を思い浮かべましょう。読者の悩みを考えましょう。読者の欲望に寄り添いましょう。そういう記事ばかりが画面に並んでいたけれど、僕が書こうとしているのは、娘に「クソジジイ」と言われたい父親の話である。
誰の悩みを解決したいのか。そんな悩みを抱えている人がいたら、家庭内で別の問題を抱えとるわい!
読者を思い浮かべるほど、僕はどこかいい人になろうとした。家庭の汚れた部分を拭いて、きれいなお皿に乗せて出そうとする。
だけど、拭きすぎた日常って、読み返すとまぁつまらん。きれいに整った家庭の食卓より、壁に穴が空いている食卓の方が、書いてて楽しかった。
……それに気づくまで、えらい時間がかかったけど。
最初に大きかったのは、一万字のエッセイと向き合ったことである。創作大賞が始まるまでは千字ほどのエッセイしか書いてこなかった。千字なら勢いで走れるし、三千字なら、途中で足がもつれても、なんとかゴールへ転がり込める。けれど一万字となると「で、これは何の話なん?」と問い返され、誤魔化しが効かないことを学んだ。
いくら入口の外装を豪華に着飾っても、奥に入ったら空き教室だとバレてしまう。壁も照明も必要だし、順路も考えないといけない。僕は完全に出口を見失った。
だったらいっそ、別の教室へ行ってみようと小説に手を出した。プロットも作り、第一話を書いたけど……そこで止まった。舞台の照明は点いてるのに、役者さんたちは誰も楽屋から出てこない。
それなら、食べるの好きだしフード部門?ただ、創作大賞が求めている方向と、僕の食生活はどう考えても噛み合わん。マクドとコンビニを愛する男が、どの口で食を語るのか。書けるとすれば「包丁まな板キャンセル料理」くらいである。「具なし焼きそばの魅力」で大賞が取れたら世も末だ。
ビジネス部門も同じである。ただの昼寝のすすめになりそうだし『立派な何か』を演じるのは無理だと悟った。もっと読書をしとけば良かったと後悔し始めたのもこの頃である。
やはり、僕にはエッセイしかないと、マニュアル車の話や、サーフパンツで結婚挨拶に行った話を書いた。
最初は「創作大賞らしいもの」を探していたはずである。それなのに、書いている途中で、僕の手はだんだんエゴイスチックな方向へ動き始めた。マニュアル車は、いつの間にか人生の操作感となり、サーフパンツは、結婚挨拶の正装になった。関係ないもの同士を、比喩という名のガムテープで無理くりつなぎ合わせているうちに、なんとなく方向性が見えてきた。
保護犬リンの分離不安の話は、過去に書いたシリーズを創作大賞用へとリライトした。
過去記事を並べれば、それなりの量になる。その材料を僕は準備室へぶちまけた。掃除嫌いにとって、推敲は後片付けみたいで実にめんどくさい。どれだけ書き直したところで、リンの分離不安が治るわけでもないし。
振り返ってみると、僕のエッセイはだいたいこれである。娘は食い尽くすし、妻はすぐキレる。現実は何も変わらない話ばかりである。それでも、書くことで気持ちは整理されていくから不思議である。
娘の思春期の話を書いた時、それはさらに強く感じた。
出来事を並べると、たいした事件は起きていない。娘が朝起きず、父の日がスルーされた。新聞の社会面どころか、校内新聞にも載らない出来事である。
だけど書いている僕は、それを大事件のように扱っていた。床に落ちている毛を拾い上げ、虫眼鏡で眺めながら「どこの毛や」と騒いでた。
その記事は、嬉しいことに予想以上にコメントがついた。「うちの娘は」「うちの父は」「私の反抗期は」と、それぞれの家庭の天気図を持ってきてくれたのだ。
読者は「あなたはどう思いますか」と聞いたから話すのではない。悩みを解決しなくても、ただそこに『ある』日常を差し出すことが、結果として誰かの心に触れた。
最後に応募したオムライスの話は、日常エッセイとして投稿してた。フォロワーさんに褒められたことで調子に乗った僕は、創作大賞タグを付けた。こう書くと非常に軽いが、実際かなり軽かった。余った材料で作ったオムライスが意外とうまくて「これも出したら?」と言われ、そのままメニューに追加したようなものである。
創作大賞は孤独な戦いのようでいて、コメント欄やフォロワーさんの言葉に何度も背中を押された。問いも投げず、起き逃げしてばっかだったのに、拾って遊びにきてくれた。ほんまに、ありがとう!
そして多肉植物シリーズは、オールカテゴリ部門で応募した。求められてるのは、たぶん育成日記のほうだろう。僕は、ホームセンターではしゃいでる話を十二話かけて書いてたことに、終わったあと気づいた。けれど、そういう自由さこそオールカテゴリちゃう?知らんけど。
こうして並べると、僕はこの三か月、かなり忙しい創作をしていたらしい。文化祭は、本番より準備中の方が楽しいのと一緒である。『立派な何か』を完成させることより、指を接着剤でベタベタにしながら「これ、おもろない?」と笑っている時間が好きって感じで、僕にとって創作大賞は、それに近かった。
文化祭が終わったあと、あれほど燃えていたクラスTシャツが部屋着になるように、今の熱もそのうち日常に紛れるだろう。気づけばまた、読者ターゲットという段ボールを集め、ペルソナというガムテープを買い込み、共感設計という看板を作ろうとするかもしれん。
本番の結果はまだ先にある。そして今、僕はもう次の準備をしている。受賞した時のコメントでも、書籍化の帯文でも、サイン会で着る服でもない。
ペンネームである。
創作大賞を駆け抜けた僕が、いま一番真剣に考えているのは、受賞後に本屋へ並ぶ時の名前である。
