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【滋賀】古代の都・大津宮お花見旅①-2 〜膳所

お花見に古の都と商人の町・大津にやってました
引き続き義仲寺など膳所方面を回っております

義仲寺の木曽義仲のお墓と翁堂

ここからは膳所方面を回っていきます

↓↓前編・大津駅〜大津港周辺の旅はこちら


膳所の歴史


膳所(ぜぜ)は滋賀県大津市に位置する地域で、大津と同じように古代から近世にかけて重要な役割を果たしてきたエリアです

●膳所の地名
膳所=ぜぜとは、あまり読み慣れない地名ですが…
奈良時代に「膳夫(かしわで)」という食事を提供する役所が置かれたということに由来するのだそうです
『日本書紀』や『続日本紀』にはすでにその名が見られ、朝廷に食事を供給する役割を果たしていたようです

●平安〜室町時代
膳所は大津と同じように琵琶湖の交通の要衝として栄え、湖上交通や陸路の要地として戦略的にも重要性の高い地域でした
戦国時代には、近江を支配する戦国大名(六角氏や浅井氏、織田信長など)の影響下にあり、戦の場になることもあったようです

●江戸時代
1601年、徳川家康の家臣・戸田一西(とだ かずさい)が膳所に5万石で入封し、膳所藩が成立しました
1602年、琵琶湖側に膳所城が築かれ、廃城した大津城のかわりに琵琶湖の水運を押さえる戦略的拠点となります

膳所藩の藩主は戸田氏→本多氏①→菅沼氏→石川氏→本多氏②など複数の譜代大名家が入れ替わりますが、
本多氏が再度膳所にもどり、本田俊次が2度目に藩主になってからは、幕末まで本多家が治めていきます

●出羽国庄内藩と近江国膳所藩の関係

この膳所藩主になった本多氏
元は徳川四天王の酒井忠次の子孫にあたる家系のようです
本多氏で最初に膳所藩主になった本田康俊の両親が、徳川四天王の酒井忠次と家康のおば・碓氷姫になります。家康とは従兄弟同士になりますね
なので徳川家にとても近い譜代大名といえます

https://shonaisakai.or.jp/history/family-tree/

また遠く東北の地の庄内藩とも関わりが強い一族になります
庄内藩は今の山形県鶴岡市、信濃藤四郎を所蔵する致道博物館のあるところになりますね

酒井忠次の孫・忠勝から酒井家庄内藩が始まりますが、膳所藩主・本多康俊から見ると、忠勝は甥にあたります
庄内藩の酒井家初代殿様・忠勝、その叔父さんが膳所藩の殿様・康俊になってるわけですね

また時がたち、8代膳所藩主・康政が21歳の若さで後継のないまま亡くなると、5代庄内藩主の息子・康伴が養子になり、9代膳所藩主になっております
このように、膳所の本多家と庄内の酒井家はずっと縁が続いている家同士になるようです

https://shonaisakai.or.jp/history/family-tree/

↓↓鶴岡に信濃くんに会いに行った旅はこちら


膳所城と城下町

一方、琵琶湖の湖面に映る城は粟津の松並木とともに、多くの画人に描かれたそうで、俳人・松尾芭蕉も膳所のこの風景を愛したそうです

膳所駅近くにある義仲寺
元は木曽義仲こと源義仲のお墓があるところですが、芭蕉は亡くなる前にそこにお墓を作って欲しいと頼んでいたそう
そのため、現在木曽義仲のお墓と並んで松尾芭蕉のお墓があります
よほど膳所の地にいたかったんでしょうね

幕末には、藩内の尊皇攘夷派が将軍家茂暗殺の容疑で検挙・逮捕される「膳所十一烈士事件」が起こります

●近代〜
明治維新で大津県ができたのち、1870年には膳所城が廃城に
この時に城門など城の建物が膳所神社などに移築されました
また幕末〜明治の動乱や旧格廃絶の通達によって、膳所藩の藩政史料の多くが焼却処分されてしまったようで、ほとんど残っていないそうです
かろうじて残っている史料が、大津市歴史博物館にて見ることができます

現在、膳所は大津市の一部として、住宅地や商業地として発展しています
JRや京阪電鉄の2路線が通っており、交通の便も良い地域です
膳所城跡は公園になっており、市民の憩いの場に
また江戸時代からの名産品・膳所焼
こちらは「膳所焼美術館」のほか町中には窯元もいくつかあり、今でもその作品を楽しむことができます



さて、膳所駅からスタートしていきます
駅前には、義仲寺に眠る木曽義仲について読んだ松尾芭蕉の歌碑がありますね

木曽の情 雪や生えぬく 春の草  芭蕉

さらに100mほど琵琶湖側にいくと、ときめき商店街の手前にこちらの石柱が

読めねえ…

「右・義仲寺みち はせを翁の墳 是より二丁」と刻まれています。東海道筋にある義仲寺と俳人松尾芭蕉の墓所を示す道標です。

https://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0407000000&skey=43

なるほど「ばせう翁の墳 是より二丁」と書かれているようです
…読めねえ
二丁=約200mなので、ちょうど松尾芭蕉のお墓のある義仲寺までの距離を表す道標みたいですね

義仲寺


さて、その義仲寺に到着しました

義仲寺の本堂 朝日堂
本尊は聖観世音菩薩
義仲公・息子の義高公の木像を納めています

こちらには、平家物語でも活躍した源氏の武士・木曽義仲と「おくのほそ道」で知られる俳人・松尾芭蕉のお墓があります

義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。

 江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。

https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/410/


境内の見取り図
芭蕉やその門人、その他関連する人たちの句碑が
20個もあります

ここは粟津の戦いで離脱した巴御前が、木曽義仲の菩提を弔ったお寺とされ、木曽義仲のお墓の隣に巴御前の供養塚もあります

木曽義仲公の墓
巴塚
芭蕉翁の墓

ちなみに木曽義仲の乳兄弟・今井兼平のお墓は粟津駅と石山駅の間にあります
大体この辺りが最期の場所だったのでしょうか?
平家物語をみると、当時の粟津の光景は松の林や田んぼなどのイメージですが、今はすっかりたくさんの人が暮らす街中ですね
歴史や古典のあの場面に出てくる場所だと思うと、なんだか不思議な感覚です


御朱印も「朝日将軍」「巴御前」「正風宗師」の三種類
松尾芭蕉には「正風宗師(しょうふうそうし)」という名前もあったんですね。初めて知ったわ〜

左上:巴御前 右上:木曽義仲(朝日将軍)
下:松尾芭蕉(正風宗師)

句碑もたくさん
その中でも、7番の句碑は芭蕉の真筆をもとに彫ってあるそうです

⑦芭蕉の真筆の歌碑

行く春を 近江の人と 惜しみける  

15、芭蕉が亡くなる4日前に詠んだ句の歌碑

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

ちょっと句碑では筆跡がわかりにくいところですが…史料館に真筆の短冊が展示されていました
こんな筆跡だったんですね〜

とはいえ…読めねえ…

この他にも愛用の椿の杖など、芭蕉に関わる史料が展示されています

境内の奥には芭蕉像を祀った「翁堂」があります
毎年7月には「奉扇会」、11月には「時雨会」が行われているとのこと

義仲寺・翁堂に安置される木造松尾芭蕉像は、仏具の一つである「如意」を手に持ちます。これを「白扇」に取り替える行事が奉扇会です。江戸時代の明和6年(1769)、無名庵の再興者である僧・蝶夢が創始しました。

https://rekishihyakka.jp/culturalheritages/o-f008/

翁堂の中をみると芭蕉像がありますね…
まだ4月なので如意をもっています

またこちらの天井には伊藤若冲による15個の草花の絵が描かれているようです
もともとは京都の石峰寺観音堂の天井絵だったみたいですね

板絵極彩色花卉図(かきず)十五面

翁堂から眺める境内
こじんまりとしていますが、落ち着いたお寺です
確かに人生の最後にはここでのんびりしたくなるのもわかるなあ

ゆる〜いフォルムの魚板
日々使用しているのかな?お腹の部分が凹んでいます

ときめき坂商店街

さてちょっと戻って
せっかくなので、先ほどの石柱のあった「ときめき坂商店街」を通ってみます

こちらは「成瀬あかりシリーズ」の舞台にもなっており、主人公・成瀬あかりの看板があります

膳所駅側から通りに入ると、すぐ成瀬がお出迎え

成瀬の看板

昔ながらのお店が並んでおります
なだらかな坂が「におの浜」のなぎさ通りのところまで続いています

ところで「におの浜」って、何から来てるんだろう?

「におの浜」は、大津市に位置する地名で、「鳰(にお)の浜」が由来です。これは、かつてこの地域に多くのカイツブリが生息していたことから、カイツブリを「鳰」と呼ぶことに由来します。

へえ〜カイツブリがたくさんいることから来ているのか〜
なんだか優しい響きでまったりしてていいですね


膳所城北総門跡

さて、義仲寺やときめき坂商店街の付近にあるのが
「膳所城北総門跡」
この辺りまでお城だったということですね

この他にも、町のあちこちに門の跡や城の建物の一部を示す石碑があります
…もうちょっとどこに何があるか、調べてから来たほうがよかったな

膳所神社〜膳所城跡公園の途中には、中大手門の跡があります
ここがお城の入り口だったんだねー

膳所神社


膳所城少し手前にあるのが、膳所神社
天智天皇の時代に食事を提供する「御厨」と定められたことから、天武天皇の時代に食物の神様を勧進し祀ったとのこと
こちらも境内の桜が満開できれいです

この鳥居の奥に見える表門が、膳所城の門を移築したものと言われています
膳所神社は、北門・南門も膳所城から移築したそうで、お城の貴重な建物が多く残っている場所といえます

本殿
拝殿

社伝によりますと、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。
江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。
なお、正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので、重要文化財に指定されています。北門や南門も膳所城の門ですが、南門は近年建て替えられました。

https://otsu.or.jp/sengoku/zeze.html

この他にも、膳所城の建物が移築された神社がいくつかあります
今度は一つ一つまわってみたいな

また膳所城跡公園の手前にあるお城のような建物
何かと思ったら公民館なんですね
いいな…子供の頃地域の公民館がこんなだったら行くの楽しみになるわ

お城のような膳所公民館

膳所城跡


膳所城の本丸跡に到着
現在は公園となっております

大手門

こちらの大手門は正確に復元したものではないようですが、立派な門です
当時のお城の入り口はこんな感じだったのかな?

公園内は満開の桜がたくさん
曇り空の上、ちょっと日が翳っていたのであまり良い写真がないのですが…
ちょうど見頃でお花見に来た人々で賑わっていました

膳所城本丸跡

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、早速翌年、膳所城を築かせました。この城は天下分け目の合戦後、最初に作られた城で、築城には8人の奉行が当たりました。縄張りは有名な藤堂高虎が担当しました。

築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。

https://otsu.or.jp/sengoku/zeze.html
膳所城の模型

大津市歴史博物館には、膳所城の模型が展示されています
本丸が琵琶湖に浮かんでいるようなお城だったんですね

満開の桜並木がとっても綺麗
まだ散り始めではなかったのですが、これが桜吹雪の時期になったら幻想的な光景だろうなー

また公園のあちこちに建物の礎石や石垣が見られます
天守閣のあった場所からは近江大橋が見えます
曇り空なので今日は遠くまで見通せませんが、晴れてる日に天守閣の最上階からみたら眺めがよかっただろうな〜

天守閣跡
天守閣跡からみる近江大橋

またこちらにも、芭蕉の句碑があります
義仲寺の無名庵に最後に滞在していた時に詠んだ歌だそうです
亡くなる約3ヶ月ぐらい前のことですね

湖や 暑さを惜しむ 雲の峰  芭蕉

日が暮れてきて夜桜の風情になってきました
綺麗だなあ

まだまだ大津のお花見旅は続くから、
明日も一緒に桜見にいこうね、京極ちゃん

↓↓次のお花見・琵琶湖疎水の船旅はこちら

↓↓そのほか近江神宮・三井寺へのたびはこちら


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