見出し画像

【滋賀】古代の都・大津宮お花見旅①-1 〜大津

お花見に古の都と商人の町・大津にやってきました
まずは大津の宿場町や芭蕉ゆかりの膳所や義仲寺など回ってきました
※面白いところが多すぎたので、大津駅周辺と膳所駅周辺にわけることにしました

天孫神社

まず大津駅に到着!
京都駅から快速で10分、意外と近いんですね
昔は逢坂の関を超えたらすぐの宿場町だったそうなので、そりゃそうか
京都の貴族が石山寺詣に来ていたのもよくわかります

京極ちゃん・にっかりくんと並ぶと
大きさが際立つ道誉のおじさま

今回は琵琶湖周辺が一族発祥の地とのことで、京極家に縁のある子たちに御伴してもらいました

大津の歴史



大津は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三つの「よし」の「三方良し」で有名な近江商人のイメージが強いところですが、
古くは古代の都が置かれ、琵琶湖の水運や東海道、京都の入り口として交通の要所として発展しました
人の行き来が多い分さまざまな文化が融合し独自の文化を形成しているところでもあり、また現在も歴史的文化財・史跡がたくさんあるエリアです

○大津の特徴
交通の要衝
:古代から現代まで、琵琶湖や東海道を通じて京都・大阪と東日本をつなぐ交通の要衝として機能した
文化の融合:仏教文化(延暦寺など)、商業文化(大津宿)、芸術(大津絵)が融合し、独自の地域文化を形成している
歴史遺産の豊富さ:大津京や比叡山延暦寺など、日本史に深く関わる遺跡・文化財が多数存在している

滋賀県全体でも、2017年には下記の3つが「日本遺産」に認定されています

「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」
「1300年つづく日本の終活の旅 ~西国三十三所観音巡礼~」
「京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疎水 ~舟に乗り、歩いて触れる明治のひととき」


●古代~奈良時代

大津は古くは飛鳥時代に近江大津宮があり、古代最大の内乱・壬申の乱の舞台になっています
大津市歴史博物館には、現在の町並みに近江大津宮が復元された模型が展示されています

近江大津宮の模型

近江神宮駅前から、近江神宮までの住宅地が都の中心の内裏になっているんですね
自分ちが遺跡というか、1355年ぐらい前には天皇がいる官公庁があったって思うと不思議な感じだろうな

壬申の乱の決戦地となった「瀬田の唐橋」模型

672年に飛鳥浄御原宮に遷都。都としての役割は終わりますが、引き続き琵琶湖沿いの交通の要衝として重要性を保ち続けます

●平安時代~鎌倉時代

その後、三井寺(672年)・石山寺(747年)・延暦寺(788年)と今も続く主な寺院が創建され、仏教文化も大きな影響を与えていきます

また平安時代には平安京からも近い風光明媚な地として、逢坂の関を超え貴族の石山寺詣などが盛んになりました
そのためあちこちに歌枕がたくさんあります
逢坂の関付近には、百人一首でも有名な歌人・蝉丸に関わる関蝉丸神社があります
江戸時代の俳人・松尾芭蕉も琵琶湖の風景が好きだったようで、膳所の義仲寺にお墓を作ってくれるようお願いしています

●壬申の乱の舞台になった「瀬田の唐橋」と
紫式部も訪れた「石山寺」への旅はこちら
↓↓

関蝉丸神社 下社

鎌倉時代から戦国時代には様々な戦国武将が琵琶湖周辺を治め、平家物語や太平記など、軍記物にも琵琶湖周りの地名がよく登場しています

●室町時代~江戸時代

1571年に織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ち
大津周辺もその戦火に巻き込まれます

日吉大社と延暦寺の参道・井神通り

さらに1582年には本能寺の変が発生
明智光秀が打たれたのち、その娘婿(従兄弟とも言われる)・左馬之助光春が打出浜から湖水を渡って坂本城に引き返したとの伝説があり、打出浜の近くには「明智左馬之助 湖水渡りの碑」があります


1585年に、豊臣秀吉の命で大津城が建設され、京極高次が城主としてはいります


大津城 本丸跡

さらに、1600年には徳川家康の命で、膳所城が作られます
この大津城や膳所城が、その後湖上交通の管理や地域支配の拠点になっていきます

膳所城 模型
膳所城跡公園の門
膳所城本丸跡

江戸時代の大津は東海道の宿場町「大津宿」として発展
また、琵琶湖の水運を利用した米や物資の交易が盛んに。京都に近いこともあり、旅人や商人で賑わいました

大津百町の様子

先に述べた松尾芭蕉など俳諧や浮世絵など、江戸時代の元禄文化や化政文化が大津にも根付き、「大津絵」が民衆の間で人気を博したそうです

大津絵十種

●近代~現代

廃藩置県後の1872年、滋賀県が成立
大津が県庁所在地に指定されました

1890年には京都と大津を結ぶ琵琶湖疏水の開通により、大津は京都との水運・電力供給の拠点として発展。鉄道の開通も都市の近代化を促進

琵琶湖疎水施設は、2025年5月に国宝に指定されたことでニュースにもなりました

琵琶湖疎水
第1疎水第3トンネル出口と旧御所水道ポンプ室

そんな中、1891年に日本を訪れていたロシア皇太子・ニコライが大津で襲撃される事件が発生
日本の近代司法制度の確立に影響を与えた「大津事件」です
教科書にも必ず載っている事件ですね

露国皇太子遭難地の碑

そんな歴史ある大津は、現在は歴史的史跡や琵琶湖の風景を楽しめるミシガンクルーズなどの観光名所・人気スポットがたくさんあります
「成瀬あかりシリーズ」の舞台になるなど、大津は今も文学に縁のあるエリアになっているようです

もちろん大河ドラマの舞台にもなっており、2024年の「光る君へ」では石山寺に大河ドラマができ、海外からも観光客がやってきたようです
来年2026年には同じ滋賀県の長浜市が「豊臣兄弟!」の舞台となるため、これからも琵琶湖まわりはにぎわいそうです



さて、ざっくり大津の歴史を見たところで、早速大津の町を回っていきます
ちょうど桜が見頃の時期で、町のあちこちに桜が咲いていました

引用:びわ湖大津歴史百科アプリ
https://rekishihyakka.jp

天孫神社


まずはJR大津駅から出発。
天孫神社にやってきました

外からもすぐわかる桜満開の境内
きれいだな~!!

こちらの神社は奈良時代に創建され、1190年に佐々木定綱によって社殿が建てられたとのこと
佐々木定綱は京極氏のご先祖様ですね

ほうほう…室町時代には京極高次からの寄付寄進もあったみたいですね…
って、「四宮神社」ってなんだ??

社号の由緒には数々ありますが、一つには近江の国には大変神徳の厚い社がありそれを昔の人々は一宮~四宮と称しました。
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社そして四宮が天孫神社であります。
秋の例祭は五穀豊穣に感謝の意味をこめ氏子中で賑々しく行われます。

http://www.tensonjinja.jp/about/
一宮:建部大社
二宮:日吉大社
三宮:多賀大社

なるほど〜比叡山から大津をまわって彦根あたりまで。元々4つの主要な神社があったんだ
また、毎年10月に開催される天孫神社の例祭・大津祭がありますが、
こちらも古い文献では「四宮祭」「大津四位宮祭」と記載されていたりするみたいです

ってか、大津祭曳山連盟公式キャラクターの「ちま吉」くん、かわいいね
お祭りで配られるちまきの妖精なんだ〜

なぜか境内でちらほら見かけるたぬきさん…なんでやねん?
※理由はこのあとわかります

さて本殿にお参り
ぐるっと回廊があるみたいですね

三井寺の山の麓にある長等神社も本殿を囲むように回廊がありますが…これはなんというかつくりなんだろうな?
東北ではあまりななじみのない建物なので、ちょっと気になります

また大津の町には歌枕や松尾芭蕉に縁のあるところがたくさんあるのですが…

天孫神社前の道路にも、扇型の芭蕉の句碑があります

ひらひらと 挙ぐる扇や 雲の峰
「あなたの演技を見ていると、ひらひらと高く掲げた扇の先があの入道雲の先端の雲の峰まで達しているかのように見えます」主の主馬への挨拶吟。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kumo1.htm

1694年、この近くに住んでいた能役者の本間主馬を訪問した際に読んだ歌とのこと
幻想的な舞を舞う方だったんでしょうか?
琵琶湖の風情ある光景や大津の文化、芭蕉が大津ファンになる気持ちがよくわかります

大津城下町


天孫神社のお参りが済んだら、大津の城下町を回っていきます

大津百町



大津百町の模型
江戸時代の大津を描いた古地図
鶴が羽を広げたような形なので「鶴の里」とも呼ばれたそう
引用:https://otsu-hyakucho-days.jp/about

大津百町(おおつひゃくちょう)とは、大津市の中心市街地で、江戸時代に東海道五十三次の宿場町「大津宿」として栄えたエリアです。
琵琶湖畔に近く、逢坂峠を越えて京都へ向かう交通の要衝でした。「百町」の名は、江戸時代中期に約100の町が存在したことに由来し、人口約1.5万~1.8万人の繁栄を誇りました。
宿場町・港町・三井寺の門前町という3つの顔を持ち、旅籠や本陣、商店街が立ち並び、物資の集散地として賑わいました。現在も町家や歴史的建造物が残り、京町通りや中町通り、浜通りなどの通りには、伝統と新たな町家カフェが共存しています。「大津絵」や「走り井餅」も特産品として有名です

https://otsu-hyakucho-days.jp/about
東海道と北国海道の交差点
高札場「札の辻」が中心に見えます

東海道は大津で北国海道に分岐し、その起点が「札の辻」となります
江戸から東海地方と越前越後の物資や文化が一同に集まるところだったんですね〜
そりゃ文化が発展するわ

高札場のあった「札の辻」現在の様子
馬や人足を提供する人馬会所もこの付近にあったそうです

この付近には、東海道を行き来する商人や旅人の旅籠が軒を連ねていたそう
大名や公家が宿泊する施設「本陣」もこの付近にあったようです

また荷物を積んだ荷車が通りやすいようにと「車石」が敷かれていたそう
車輪のあとがしっかりついていますね…それだけ往来する人や荷車が多かったということでしょう



さて京町通りを通って、大津百町館を目指します
その手前、道路の真ん中に大きな木がありました
これはなんだろう?

華階寺のイチョウ

華階寺がある場所は、寺創建よりはるか以前の平安時代、三上山のムカデ退治で有名な藤原秀郷(ひでさと)(俵藤太)(たわらのとうた)の館があったといわれることから、秀郷にまつわる矢の根地蔵と月見石が残されています。ムカデを射止めた大矢の根(鏃(やじり))で、大きな石に地蔵菩薩の尊像を刻み末永く悪魔退散の守護として奉祀しました。

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/408/

なるほど〜俵藤太こと藤原秀郷の館があったところの木なんですね
瀬田の唐橋のムカデ退治をした際の、矢の鏃でお地蔵さんをほったのか〜

●瀬田の唐橋や秀郷社に行った石山寺周辺の旅はこちら↓↓

天孫神社から近かったから、こちらにも行ってみたらよかったなー

さて、京町通りには老舗のお菓子屋さんや風情ある町家が並んでいます

江戸時代から続く老舗の御饅頭処「餅兵(もちひょう)」


そんな落ち着いた町の十字路で起きたのが、
近代日本史の代事件「大津事件」です

大津事件の碑

ニコライを手当した呉服商・永井家の記録

1891年、ロシア皇太子ニコライが大津訪問中、警備中の巡査・津田三蔵に斬りつけられた「大津事件」の現場に建つ碑。
ちなみに大津事件は行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件として有名で、その裁判が行われた旧大津地方裁判所の門が近江神宮にある。

https://otsu.or.jp/thingstodo/spot84

「坂の上の雲」にも出てきましたが…日露戦争の13年前に、ここで当時のロシアと国際問題になる事件が起きたということか…
本当に何も知らなければ普通に通り過ぎるようなのどかなところです

石碑がある十字路

またこの時、司法の独立を守ったのがいまの愛媛県宇和島市出身の児島惟謙
この判断は世界的に評価され、日本が近代国家として認められることにもなったそう

宇和島城の麓、城山上り立ち門にもその銅像があります
今の司法の独立があるかどうかの大きな判断だったわけですから、本当にすごい功績を作った方ですね

さらに通りをまっすぐ西に進むと…

鶴里堂(かくりどう)

明治から続くお菓子屋さん鶴里堂があります
大津の町が鶴が羽を広げたような形のため、「鶴の里」と呼ばれていたことにちなんだ店名なんですね

比叡杉羊羹とかも美味しそうだけど…
お煎餅の「大津絵おどり」、モノクロじゃなくてカラフルな絵がついてていいなあ
絵のところは色付きのお砂糖なのかな?かわいい

この鶴里堂の通りから、一本お隣の通りには丸屋町商店街があります

では、こちらのアーケードに入っていきます

大津百町館

アーケードの中にあるのが、「大津百町館」
こちらは明治中期に建てられた町家で、当時の大店の奥座敷が見学できます

大津百町は関ヶ原の戦いののち、焼け野原になったところから整備されたため、京町家と違い「うなぎの寝床」ではなく、しっかりした構えの町家が多いとのこと
また琵琶湖に近い立地のため通気性をよくし、旅人が出入りするため荷物置き場スペースが広く取られるなど、装飾性より実用性が重視されているようです
確かにぱっと見京都の街並みに似ているけど、よりコンパクトでシンプルなお家なんですね

大津の町家の模型

ちなみにこちらの大津百町館は、明治33年に今井辰次郎が建て、大正初めには文泉堂という書店になっていたそう

横からみた大津百町館
手前に母屋の和風建築・奥に離れの洋風建築があります

なので、アーケードのところからみると町家という雰囲気ではなく、一見地域のコミュニティセンターな建物に見えます

ミセからドアを開けると、町家らしい入り口がありました

奥の方に12畳の大広間があります
こちらがお客さんをおもてなししたり、旦那衆の交流の場だったようです

大広間

床の間や飾り棚には、大津の特産品が
大津絵や大津算盤の解説があります

大津絵

●大津絵とは
江戸時代初期から近江(滋賀県)の大谷・追分あたりで描き売られていた民画。
仏画として描かれ始め、18世紀前半には約120種類の画題があり、日常を描く風俗画やユーモアあふれる戯画などの要素を取り入れ、独自に発展していきました。 江戸後期には主な画題10種を中心に、東海道を往来する旅人のお土産・護符としても人気に。

https://otsu-guide.jp/feel_picture.php

これかわいいなあ
代表的な鬼の念仏は大津や膳所の町のあちこちで見かけました

大津絵の飾られた膳所の街角
琵琶湖港にあるガンダムマンホールにも大津絵

ゆるい画風でなんかコミカル
この他にも酒呑童子退治で有名な源頼光の絵もありましたが…噛みついてる酒呑童子の首が、ちいたんみたいな顔だなあ…


大津算盤

●大津算盤
大津算盤は、慶長17年(1612)、大津一里塚町(現大谷町の西側)の片岡庄兵衛が、長崎で明(中国)から算盤を手に入れ、改良を加えたことに始まる。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、黒たん、紫たんなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていた。また枠や梁の裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものが多い。算盤製造は明治期に入って廃れていったが、算盤師の看板や製作道具、宝永2年(1705)銘の算盤などが現存している。なお製作道具と宝永銘の算盤は市指定文化財。

https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/204.html

算盤とは商人の町らしい名産品ですね
ちなみに三井寺の境内には「大津そろばんの碑」があります

↑↑算盤と算盤珠モチーフの「大津算盤の碑」

西国十四番札所、三井寺観音堂の横手のなだらかな階段を登ると、琵琶湖が一望出来る高台につき当たる。 普段はあまり訪れる人もないその奥まった所に、そろばんの玉をあしらった「大津そろばん記念碑」が建っている。

http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/115.htm

渡り廊下を通って離れへ
外観は洋風ですが、中から見ると中和風という感じ
中庭も風情のあるお庭だね、京極ちゃん

中庭
離れの部屋では地域の催し物が開催されていました
足踏みミシンがあってのどかな廊下

寺田屋お登勢さん実家「升屋跡」

また大津百町館のご近所には「寺田屋事件」の寺田屋女将・お登勢さんの実家「升屋跡」が

いい感じの建物がありますが、こちらは「商店街ホテル講 大津百町 丸屋」
実際に升屋があったのは、このお向かいになるようですね

お登勢さんは、寺田屋のおかみさんです。
丸屋町にある「升屋」という宿の娘として出生、のちに伏見寺田屋に嫁ぎ、おかみとして切盛りをしていました。人の世話をする事が大好きで薩摩藩からも信頼を受けていました。
龍馬もまたお登勢さんを大変信頼していたのでしょう。留守がちになるため、奥様のお龍さんをお登勢さんに託していました。

https://www.machidukuri-otsu.jp/archives/1078


大津祭曳山展示館


またここ丸屋町商店街が舞台になるお祭りの展示館もこのアーケード街にあります
こちらには湖国三国祭りの一つ「大津祭」について、原寸大の曳山のレプリカなどが展示されています

左から3番目に大津祭の始まりに由来する
西行桜狸山があります

琵琶湖の西南に位置する大津市で、湖国三大祭のひとつ、国指定重要無形民俗文化財の『大津祭』が行われます。京都祇園祭の風情を色濃く継承した祭礼。現在13基ある曳山はいずれも江戸時代に制作されたもので、各曳山にはからくり人形が乗っているのが特徴です。祭礼1週間前に組み立て、本祭の翌日に解体されてしまいます。

http://www.otsu-matsuri.jp/festival/

入ると最初に目に入るのが大きな曳山
ここ曳山展示館の前から出発する曳山「西王母山」です

西王母山のレプリカ

それぞれの曳山は中国の故事や能などが題材になっており、曳山の中には「源氏山」など大津らしい題材もあります


●歴史と由来
大津祭の起源は、江戸時代のはじめにあたる慶長~元和年間(1598~1624)と考えることができよう。 「牽山由来覚書」は、天孫神社の宮元にあたる鍛冶屋町の年寄が書いたものである。祭礼の原初的形態を知るうえで貴重であり、その概略を現代文で記すと「祭礼当日に鍛冶屋町の塩売(塩屋)治兵衛なる者が、狸の面をかぶり踊ったところ、人が集まり賑わったので、2年後に竹からみの屋台を作り、木綿を張り、10年あまり昇ぎ歩いていた。治兵衛、老年になり元利8年(1622)から狸の腹鼓をうつ糸からくりを昇いでいたが、寛永12年から地車を付けて子供衆に曳かせた」というのである。

http://www.otsu-matsuri.jp/festival/history.php

その由来にちなんで、西行桜狸山には狸が屋根の先頭についているそうです
先ほど天孫神社に信楽焼の狸さんがたくさんいたのは、こういうことだったんですね

西行桜狸山の曳山の屋根についている狸さん

この他にも各曳山の飾りやカラクリが展示されています

祇園祭の山鉾と雰囲気似てますね
ちなみに祇園祭の山鉾の一つ「白楽天」と
大津祭の「龍門滝山」「月宮殿山」が、
トロイア陥落図のタペストリーの各部分を裁断して前掛けや見送り幕としてそれぞれ使用しているそうです
意外な共通点
一枚そのまんま使っているわけではなく、それぞれの部分を切り取って使っているんですね

https://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion_map/

大津祭の曳山にはカラクリがついており、本祭の巡行の途中20箇所でそれを披露する「所望(しょうもん)」が行われます

展示館では、西王母山のカラクリの様子を見ることができます

またカラクリを披露した後は、手拭いやちまきを曳山の上から撒くのだそうです
これも大津祭の特徴ですね

ちまきと共に撒かれる手拭い
各曳山のちまき

今年の10月も開催されるようなので、いつかお祭り見に行けるといいなあ


関蝉丸神社


さて、先ほど紹介した札の辻から京都方面が、百人一首や源氏物語などの物語に登場する「逢坂の関」です

紫式部の「源氏物語」の十六帖「関屋」にて、光源氏が空蝉と再会する場面もここになります

行くと来と せき止めがたき 涙をや
絶えぬ清水と 人は見るらむ (空蝉)
現代語訳:行く時も帰る時にも逢坂の関で、せきとめがたく流れるわたしの涙を絶えず流れる関の清水と人は見るでしょう

https://classicstudies.jimdofree.com/源氏物語/16関屋/#2-2

わくらばに 行き逢ふ道を 頼みしも
なほかひなしや 潮ならぬ海 (源氏)
現代語訳:偶然に近江路でお逢いしたことに期待を寄せていましたが それも効ありませんね、やはり潮海ではないから

逢坂の 関やいかなる 関なれば
しげき嘆きの 仲を分くらむ (空蝉)
現代語訳:逢坂の関は、いったいどのような関なのでしょうか こんなに深い嘆きを起こさせ、人の仲を分けるのでしょう

https://classicstudies.jimdofree.com/源氏物語/16関屋/#2-2

この他にも、上栄町駅〜大谷駅の間には、逢坂山関趾碑や歌人の歌碑などたくさん建てられているようです

こちらの手前にあるのが、関蝉丸神社下社

入り口の飛び出し坊やが蝉丸くんになってます

大谷駅の近辺にも、「蝉丸神社」と「関蝉丸神社上社」があるようです
ちょっと違いや関係がいまいちわからなったのですが、今回行った下社は元々あった「関明神」に謡曲「蝉丸」の逸話がプラスされたような感じの神社のようですね

境内には蝉丸の百人一首の句碑や、紀貫之の句碑、小野小町塚などがあります
逢坂の関に関わる歌が描かれていますね

百人一首の蝉丸の句碑

これやこの 行くも帰るも 別れては 
知るも知らぬも 逢坂の関

【訳】これがまあ、東国に行く人も京に帰る人も、別れては、知っている人も知らない人も、逢ふという逢坂の関であるよ。

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki23
拾遺和歌集の紀貫之の歌碑

逢坂の関の しみつに影 見えて
いまやひくらん 望月の駒  貫之

現代語訳:
※望月の駒(こま)は信濃にあった望月牧(もちづきのまき)から毎年八月に朝廷に貢進されていた馬のこと。
※これは駒牽(こまひき)という儀式のため。 集められた馬から天皇が御料馬(ごりょうば=専用馬)を選び、 残った馬を上皇、親王や公卿に分配するというものです。
その馬の姿が逢坂の関の清水に映っているだろうとの意味

https://ogurasansou.jp.net/columns/arakaruta02/2018/07/19/4663/

また「せきの志ミず」と書かれた石碑と祠が
関清水神社とのことですが、もともと湧水があったようです
こちらが先に紹介した源氏物語の空蝉の歌にもあった「関の清水」になるのでしょうか?

また芸能を祀る神社のためか、関蝉丸神社勧進能などが行われていたようです

終了してしまったのは残念ですが、また何か神社に関わる催し物があるといいなあ

大津城跡


では今度は琵琶湖港方面に向かいます
こちらは関ヶ原の戦いまで地域の拠点になっていた大津城があったところです
先ほどの大津祭曳山展示館のところまでお城の堀があったようですね

大津城本丸跡
大津城石垣跡

大津城は、滋賀県大津市にあった戦国時代~江戸初期の平城。1586年に豊臣秀吉の命で築かれ、琵琶湖の水運と京都防衛の要衝だった。関ヶ原の戦いで京極高次が籠城し東軍に貢献。1619年に廃城、資材は彦根城に転用。現在は遺構ほぼなし、浜大津に石碑等がある。

なるほど。豊臣秀吉の命を受けて京極家が大津城城主になっていましたが、引き続き関ヶ原の戦いの際にも京極家がこのお城に籠城していたんですね

ちなみに江戸時代になると廃城となりますが、その後も、天守閣などの建物は彦根城などに移築され今でも建物を見ることができるそうです

元大津城の天守閣だった
彦根城天守閣
彦根城天守閣
裏側

↓↓大津城の天守閣や長浜城の大手門などが移築されている彦根城の旅はこちら

大津城跡のすぐ近くが大津港
びわこ花噴水もここから見えますね
ちょうど港にミシガンクルーズの船が停泊しています
琵琶湖モニュメントと合わせると絵になるなあ



ガンダムマンホール・ポケモンマンホール

さて、膳所の方向に向かっていきますが…
途中にあるのがガンダムマンホールとポケモンマンホール


ガンダムマンホール
ガンダムマンホールはお祭り広場の琵琶湖ホテル前
ポケモンマンホール
ポケモンマンホールはなぎさ公園側にあります
スゴックマンホール
スゴックマンホールはびわ湖ホール前にあります

この他にもポケモンマンホールがもう一種類あったようですが…ちょっと他の3つと離れた近江大橋の西側のところにあったみたいです
一つだけ見忘れちゃって残念

引用:https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/073c2298c3a6675e4165304641762643b219d9e0

打出浜

スゴックマンホールのある打出浜(うちでのはま・うちいでのはま)
古くから港として船の行き来があり、景勝地としても知られています
清少納言の「枕草子」第191段にも「浜は有度浜。長浜。吹上の浜。打出の浜…」と書かれたところです

浜は、有度浜(うどはま)。長浜。吹上の浜。打出の浜。もろよせの浜。
千里の浜、ひろふ思ひやらる。

ちょっと天気が悪いのでいまいちですが、晴れていたらとても景色が良さそう

紫式部も父・藤原為時と越前に下向した際、この浜から船出したそうです

石場の常夜燈

ここから白鬚神社のある高島に向かったそうですが…

「三尾の海に 網引く民の てまもなく
 立居につけて 都恋しも」

現代語訳:
三尾が崎で網を引く漁民が、手を休めるひまもなく、立ったりしゃがんだりして働いているのを見るにつけて、都が恋しい。

https://gururinkansai.com/shirahige-murasakikahi.html

なんだかもうすでにホームシックになっている感じ…国府のある越前市武生でも、都を懐かしむ歌を詠んでいるので、本当に生まれ故郷を離れるのが寂しかったみたいですね
紫式部、越前の武生もとってもいいところよ

●紫式部が若い頃住んだ福井の越前市武生の旅はこちら↓↓

また湖に浮かぶお城のような建物は琵琶湖文化館。滋賀県や琵琶湖ゆかりの収蔵品が多く、地元のことを学ぶ企画展を定期的に行っているそうです
現在、移転のため休館中とのこと。大津城のあったびわ湖浜大津駅〜大津港の間に建築中だそうですが、船のようなデザインの建物になる様子
2027年12月のリニューアルオープンが楽しみです
一番最初の企画展は何をするのかな〜?

琵琶湖文化館
この建物もお城のようでいい感じなので、なるべく残してくれると嬉しいなあ

また、先に紹介した「明智左馬之助 湖水渡りの碑」もここにあります
そのエピソードを元にした琵琶曲「湖水渡」もあるみたいですね

『新撰太閤記』より「明智左馬助の湖水渡り」(歌川豊宣 画)

ここから馬で琵琶湖に入って坂本城まで行ったそうですが…

いや結構距離ない???
深さや正確なルートがわかりませんが、まっすぐお城の本丸にただいま!はさすがに屈強な武士でも無理そう
現在、びわ湖大津館のある柳ヶ崎に着いたと講談などでは言われているようですが…それでも距離ない?

本当にこのルートで帰ったのなら、よく無事に辿り着いたな…昔の武士はすごいなあ

※追記:柳ヶ崎にあるびわ湖大津館は、映画「国宝」のロケ地としても話題になったところです
雰囲気のある建物で、ここも行ってみたいところですね



まだまだ大津の旅は続きますが、
明日も楽しいところに行けるといいなあ

大津港からの夕陽

↓↓次の膳所のお花見旅はこちら

↓↓琵琶湖疎水・近江神宮・三井寺への旅はこちら


いいなと思ったら応援しよう!

るちあ@陸奥国 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!