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【滋賀】古代の都・大津宮お花見旅③ 〜近江大津宮遺跡・近江神宮

※2025年4月の内容です。

さて大津のお花見旅、いよいよ古代の都「大津宮遺跡」に向かいます。
このたびのお花見旅のメインです。
こちらも一度行きたかったところだったので、とても楽しみだな~。

大津宮中枢部建物復元模型(縮尺200分の1)

↓↓前回の大津膳所の旅・琵琶湖疏水の船旅はこちら



近江大津宮とは?


まずはいつも通り、大津宮とはどんなところからか見ていきましょう。
桜の名所の三井寺とも関係の深い古代の都のようですので、そこのつながりも見ていきたいところです。

近江大津宮
 663年、日本は百済(くだら)を救援するため朝鮮半島に出兵しました。しかし、白村江の戦いで大敗し、日本は唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍にいつ攻め込まれるかという緊迫した状況を迎えます。こうした東アジア情勢の下、667年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は飛鳥から近江へ遷都し、翌年即位しました。天智天皇による近江大津宮の誕生です。国の中心となった大津宮では、全国的な規模としては初の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」の編成などの政治改革が進められたとされます。その後、671年に天智天皇が崩御すると、翌年には天智の子・大友皇子と天智の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で皇位継承を争う壬申(じんしん)の乱がおこりました。乱後は、再び飛鳥へ遷都され、近江大津宮はわずか5年余の都でした。

近江大津宮|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館 (rekihaku.otsu.shiga.jp)

なるほど~
大化の改新や壬申の乱など、教科書でもおなじみの飛鳥時代の出来事ですね。

…って、どの順番で起きてんだろ??

645年 大化の改新
663年 白村江の戦い

667年 大江大津宮に遷都
668年 天智天皇即位
670年 日本初の全国的な戸籍を作る(庚午年籍・こうごねんじゃく)
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱
    飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に遷都
  (※大友村主(すぐり)家によって、園城寺(三井寺)が建てられる)
686年 大友与多王によって三井寺が建てられる
1974年 大津市錦織にて大津宮の建物跡が発見される
 
※別の伝承によると、漢渡来人で大友皇子を支持していた大友氏が建てたとの話もあり。

う~ん、5年間だけの都かあ…。
大化の改新から見ても、大津が政治の中心地になっていたのは約30年ぐらいのようです。
そりゃ資料や遺跡が少なくて、幻の都にもなりますな。
そう思うと、近江大津宮遺跡が見つかったのはものすごくありがたい話です。
遺跡のある錦織は、三井寺から少し北側の宇佐山と琵琶湖の間、
近江神宮駅~近江神宮までのエリアになります。

現在発掘されているのは主に大津宮の中心部、いわゆる天皇が住む内裏の建物跡が見つかっているようです。
三井寺の近くにある大津歴史博物館には、その内裏の様子が模型として復元されています。

大津宮中枢部建物復元模型(縮尺200分の1):大津市歴史博物館

グレーの部分が現在の様子、茶色の様子が発掘した箇所の様子だそうです。
本当に住宅地のど真ん中に、今でいう皇居がある感じなんですね。
「おれんち!昔、天皇陛下が住んでたんだぜ~!!」って自慢できそうだな。

そのほかにも大津市内には、大津宮があった時代の古代寺院跡がたくさんあるそう。
天智天皇が建てたと伝わる滋賀里の崇福寺の跡からは、国宝の「舎利容器」が発見されました。
マトリョーシカみたいな構造ですね。

国宝 崇福寺舎利容器(復元)

瀬田方面にある大津市一里山の山ノ神遺跡からは、須恵器や建物の屋根に取り付ける鴟尾(しび)を作った窯の跡も見つかっているそう。
食器以外にも、屋根に使う瓦などを作っていた職人さんがたくさんいたということですね。

鴟尾(しび) 山ノ神遺跡出土

天智天皇の死後、壬申の乱が勃発。
のちの天武天皇が吉野を出発してからだいたい1か月ぐらいの期間。
両軍が移動・先頭になった場所は今の関ヶ原から、琵琶湖南側を中心に大阪まであちこちにあります。
関ヶ原や瀬田の唐橋とか、1~2か所で戦ったわけじゃないのね。
古代の徒歩中心の移動距離と思うと…結構範囲広いな。

https://rekimin-sekigahara.jp/main/jinsin_war/

瀬田の唐橋でも川を挟んで両軍が激突したようで、その様子も大津市博物館に模型で再現されています。

古代の瀬田の唐橋模型

古代の瀬田の唐橋は、今の瀬田の唐橋より80メートル下流にあったそうで、そこからこの橋脚の跡が見つかったのだそう。
よく見ると橋脚が六角形なんですね。これは朝鮮半島から伝わった技術で作ったと考えられているようです。
先ほどの須恵器を作っていた窯跡など見ても、海外の技術があちこちに使われている感じがします。白村江の戦いもあったし、友好関係にあった百済から職人さんがたくさん来ていたのかな?

現在の瀬田の唐橋
瀬田の唐橋を見つめる藤原秀郷像

↓↓瀬田の唐橋や石山寺への旅はこちら

この紡錘型の足場、山口県岩国にある錦帯橋の足場にも似ているなあ…。
錦帯橋も中国の西湖の島や橋をヒントにしたそうなので、古代の頃からいろいろ関わりがあったんだろうなあ。

岩国の錦帯橋
錦帯橋の橋脚

↓↓シロヘビの里・岩国の旅はこちら

その後、奈良時代には瀬田川東側に近江国庁が建てられ、
戦国時代の宇佐山には、織田信長によって宇佐山城が建てられます。
都はなくなりましたが、奈良や京都へつながる交通の要所であり続けたんですね。

近江国庁と周辺遺跡について
宇佐山城の俯瞰図


●三井寺とのつながり

さて近隣にある三井寺。
この大津宮や天智天皇に深くかかわっています。

三井寺こと園城寺は、壬申の乱がおこり都が飛鳥に遷都された14年後に創建されます。
大友皇子の息子・大友与多王(よたのおおきみ)が壬申の乱で亡くなった父親の霊を弔うために創建したためとのこと。
与多王は天智天皇のお孫さんにあたる人ですね。
(渡来系の大友氏が壬申の乱と同年に建てたという説もありますが、こちらも大友皇子を支持していた一族とのこと。)

近江大津京ゆかりの古刹
667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。

672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。

勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。

三井寺>三井寺について (shiga-miidera.or.jp)

また、三井寺の「三井」とは、天智・天武・持統天皇の三人の天皇の産湯に使われた湧水があったことから名づけられたそう。
閼伽井屋には今も、こぽこぽお水がわいています。
教科書の時代から1400年たっても同じところでお水がわいているのは不思議ですね。

三井寺の名の起こり
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。

三井寺>三井寺について (shiga-miidera.or.jp)
閼伽井屋の湧水

↓↓三井寺への旅はこちら


●百人一首とのつながり

さて、大津宮や天智天皇は百人一首にも関係しています。
百人一首のトップバッターは、天智天皇のこの歌

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

2番目は持統天皇、その次は柿本人麻呂、山部赤人…と続いていきますが
どうして百人一首の一番目が天智天皇の歌なのでしょうか?

https://hyakunin.stardust31.com/syutten.html

壬申の乱で天智天皇系から天武天皇系に皇位継承権が渡ったわけですが。
その後、志貴皇子から続く天智天皇系の桓武天皇が即位。
その桓武天皇が794年に平安京に遷都します。

百人一首を編纂した藤原定家は、平安京に遷都した桓武天皇の御先祖・天智天皇を平安王朝の祖として、百人一首のトップバッターにしたわけですね。

引用:https://hyakuninisshu.sakura.ne.jp/tenji-tennou.html

平安王朝の太祖・天智天皇
天智天皇は、大化の改新で天皇中心の政治体制を築き、平安京を開いた桓武天皇の直系の祖先であったことから平安時代の人々は天智天皇を平安王朝の太祖として敬いました。このような背景から百人一首の撰者・藤原定家ていかは、天智天皇を百人一首の巻頭に据えたのだと考えられています。

トップバッターは天智天皇! 飛鳥時代の天皇がなぜ百人一首の最初の歌を飾っているかご存じですか?| 時雨の百人一首 (sakura.ne.jp)


余談ですが、この家系図に日本書紀を編纂した舎人皇子もいますね。
この時代の人なんだなあ。
舎人皇子は、鶴丸国永・一期一振の写しがある藤森神社にも祀られている方です。
刀剣乱舞に登場する刀剣は、いろんなところに御縁がありますね。


●近江神宮とのつながり

近江大津宮跡の近くにある近江神宮は、1940年の創建。
天智天皇を御祭神として祀っています。
そのため天智天皇に関わる物事の守り神として信仰されているようです。

・歌かるたの祖神
・時の祖神

まず、かるたの百人一首のトップバッターでもあるため、近江神宮には天智天皇の和歌をはじめたくさんの和歌の石碑が立っています。

そういった平安宮廷での深い崇敬が、鎌倉時代の初めに小倉百人一首が選ばれるにあたって、天智天皇の御製を巻頭に置くことにつながりました。その御製

「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」

は広く国民に親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。近江神宮ではかるた祭―かるた開きの儀―も行われていますが、近年は百人一首競技かるたが漫画やドラマでも取り上げられるなど、ことに正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られるところとなってきました。境内には奉納された板かるたの額も展示されています。

天智天皇ご事績・ご神徳|近江神宮 (oumijingu.org)

現在でも近江神宮は、競技かるたの会場として「名人位・クイーン位決定戦」の試合が毎年繰り広げられているようです。

https://www.karuta.or.jp/meijin-queen/


また、天智天皇は漏刻という水時計を導入し時刻制度を確立した天皇でもあります。

漏刻

なかでも漏刻(水時計)をお造りになり、社会生活の基本である時報を始められたことはよく知られています。6月10日の「時の記念日」は近江朝廷で時報が開始された日を記念して大正9年に制定されたもので、毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されています。境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示しています。また境内に設置された水時計や日時計は、時計業界からの献納によるものです。

 また越の国(新潟県)より大津宮に「燃ゆる水(原油)・燃ゆる土(天然アスファルト)」が献上された日本書紀の記事は、わが国の文献における「石油」の初見であり、ほかにも各種の科学技術を積極的に使用されたことが記録からうかがえます。

天智天皇ご事績・ご神徳|近江神宮 (oumijingu.org)

そのため、近江神宮の境内には「時計館」という博物館があり、貴重な時計を見ることができます。

近江大津宮錦織遺跡


ざっと近江大津宮のことについて知ったところで、実際に遺跡に行ってみましょう!

近江神宮前駅に到着
ここから近江大津錦織(にしごおり)遺跡に行ってみます。

駅にも「かるたの聖地」の看板があります

大津市歴史博物館の模型を見ると、本当に駅のすぐ近く~近江神宮までのエリアに内裏があったかと思うんですが…
普通に住宅地なのでどこに遺跡が残っているんだろう???

調べてみたところ、住宅地の中に9か所あるみたいです。
現在では内裏正殿、回廊、塀、倉、石敷き溝などの遺構が見つかっており、それが9か所に点在しているようです。
第一地点あたりにメインの石碑などが置かれているみたいですね。

実際の写真をまとめると…こんな感じになります


…いや、どこのなんの写真ねん????

特に復元された建物などもなく、いくつかに分かれた遺跡なので写真にまとめるとこんな感じになっちゃうんですよね…

以前、宮城県にある郡山遺跡に行ってきましたが、そちらも住宅地に12個の遺跡が転々としていたので、それと似ている気がします。
9か所全部まわれるかな?

↓↓郡山遺跡はこちら。前半が郡山遺跡の内容になります。


●第1地点

まずは順番に見ていきましょう。
第1地点には、近江大津宮錦織遺跡の説明の看板や、志賀宮址碑。
のちに大津宮のことを詠んだ柿本人麻呂の和歌の石碑があります。
この場所から内裏南門と考えられる柱穴を発見し、それ以降さまざまな遺構が発見されているそうです。

志賀宮址碑

…これ何描いてあるんだろう…消えかかっててちょっとわからなかったので調べてみました。

志賀宮跡碑 碑文

 伝へて云ふ、此れ天智帝志賀大津宮の旧址為り。史を按ずるに、神祖の而後三十八世、天智帝と曰(まう)す。実に能く垂統を創業し、天地を経緯し百度を裁定す。近江朝令二十二巻有り、以て曽孫桓武奠都の基を開く。中宗と称すること確たり。地の形勢湖山を襟帯し、東北の咽喉を扼す。遷都以来幾変すと雖も、皇化其民を被ふ所、皞皞(こうこう)として方今雍熈の世の如し。豪戸列肆し舟車輻輳し、銭穀の権多く此に帰す。而るに其の宮址鞠(まは)りて茂草と為り、廃れて田畝と為り、湮滅して不明たり。真に有志の者に非ざれば、忍恣する所なり。頃者(このごろ)、大津士民宮趾を表せんと謀りて、諸(これ)を故老に詢り、諸を口碑に綴(手へん)る。今の滋賀村錦織里に御所内と称する地有り。一に祇園田と曰(い)ふ。方二町余、面陽に位す。古を聞くに竹林中巨巌竦立し、×(一字不詳)沸する清泉其下に出で、庭除に類するの勢あり。今に至り、往々断礎瓦片土中より出づる者あり。且つ此の一帯の地に勧学堂、皇子山、東大路、西大路等の号、存す。是を以て徴して皇居の趾と為し、是に於て石を樹て、諸(これ)を無窮に伝へ、以て盛徳大業を表はす。民の忘るる能はざる者なり。余特に帝徳の人の深みに入り、流沢の遠く且つ久しきを見る。又斯(これ)を嘉するは、挙げて風教に関はるなり。其の請ひに由りて之が為に記す。(原漢文)

明治歳次乙未冬十一月
滋賀県知事従四位勲四等   大越亨撰
官幣大社日吉神社宮司従六位 伊藤紀書
題字は山階宮晃親王の篆額。
裏に「建碑主幹 大津町長 西村文四郎」とある。

https://tendizaidan.jp/pages/26/

なるほど…明治30年、1897年に建てられた石碑で、「ここに志賀宮(大津宮)があり、荒廃してどこにあるかわからなくなったけど、昔の人の話からここにあると推定されていたところ、遺跡が見つかりましたよ」という内容が書いてあるみたいですね。

さらにお隣にあるこちらの歌碑。
こっちは飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂が壬申の乱により灰燼に帰した大津宮を訪れたときの歌のようですね。
「神武天皇以来、都があった大和を離れ、大津に都を置いた天智天皇の宮殿が、今はもう草に埋もれ露に覆われて見えない」ということを悲しんでいるようです。

柿本人麻呂の和歌の石碑

玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代(みよ)ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(さか)る 鄙(ひな)にはあれど 石(いは)走る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

柿本人麻呂はこの長歌の反歌※のほかにも、大津宮を懐かしむような歌を詠んでいるようです。
当時の人々にとっては、ノスタルジックなイメージの場所になっていたんでしょうね。

※長い歌の後に添えられる短歌。返し歌とも。万葉集によく見られる形式

「ささなみの志賀の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢(あ)はめやも」
訳:志賀の大わだは昔のように水が満ちているけど、昔の人たちに逢えることはあるだろうか
 
「ささなみの志賀(しが)の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ」
訳:ささなみの志賀の辛崎は昔と変わらずにあるのに、昔ここに都があったときにたくさん集まった大宮人の船は待ちきれなくなってしまった(=いつまで待ってもやって来ない)よ

ささなみのの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

さて、この第1地点は何があったんだろう?
どうも、内裏南門と宮の中心をかこう回廊+柵の跡があったようです。

第一地点


内裏南門の跡

ここから見える空地全体に南門の建物があったようです。

回廊から伸びる塀の跡

奥のほうには回廊の一部の柱跡地と壁の跡があります。
この丸太の杭みたいなものが、その回廊から続く壁の柱跡みたいですね。

●第2地点

次は第2地点。ここが内裏正殿の南東部に当たるようです。
なるほど。ここが宮中の中心部で、天皇が住んでたのかもしれないのか~。

内裏正殿の南東端にあたる柱跡
第2地点の現在地
内裏正殿の南東部分に当たります
引用:https://biwakohannnite.blogspot.com/2017/12/blog-post_7.html

等間隔に並ぶ木の杭は、正殿の柱跡だそう。
図を見ると本当に正殿の建物の一角のようです。

…普通にお隣にも道向かいにもお家が建っています。
このあたりの人たちは「昔は俺んちのとこが皇居だったんだぜ~!」って言える場所ですね。

正殿は桁行七間(21・30メートル)、梁行四間(10・40メートル)、
庇のある建物だったようで、北に内裏・南に朝堂院を配していた建物だったようです。
時代的にも大阪の難波宮に近いイメージの建物だったみたいです。

https://naniwanomiya1400.com/history.html
https://www.osakamushis.jp/news/zyousetu/10f.html

こんな感じの建物があったのかもしれませんね。
難波宮跡にも行ってみたいですね。

●第3地点

※第3地点の場所が分からず…
たぶん第4地点と同じような塀の跡があったと思われます。

●第4地点

ここでは内裏正殿を囲む塀の跡が発見されたようです。
ここの柱跡では当時の工事の方法がわかります。
1辺1メートルの方形の穴を掘る→直径30センチの柱を入れる→穴を埋める
土台になる礎石などは使わない、ダイレクトに柱を土に埋める工法だったみたいです。


●第5地点

こちらも特に説明看板がなかったので、多分第5地点かな?というところですが…
ここはおそらく内裏正殿の裏手の塀や、長殿の一部があったかも?と思われます。

第5地点付近?


●第6地点

ここも看板なしなので、多分第6地点?というところなのですが…。
おそらく何かの建物跡が残ってるのでは?という感じです…。

第6地点付近?


●第7地点

第7・第9地点は、第2地点の向かい側にあり、それぞれ内裏正殿の
第7地点は西南部分にあたるようです。

第7地点

●第8地点

ここはまだ発掘調査が行われていないそうですが、
南門のある第2地点の手前にあるため、南門の一部があるのでは?と言われているようです。
大津宮の入り口にあたる部分といえる場所でしょう。

第8地点

●第9地点

第7地点の北側になり、こちらも内裏正殿の一部になります。
内裏正殿の西北部分にあたるかと思われます。

第9地点

これで全部のようです。
看板が立っているところはまだわかりやすいですが…。本当に9か所バラバラと点在しているので、第3地点のように場所がわからず行けなかったところもありました…。
ただ実際来てみると、少なくとも大津宮の位置関係や内裏正殿の建物の大体の大きさがわかって、とても楽しかったです。

5年間しかなかった幻の都ですが、こうして1400年たってもちゃんと建物の形や都市の面影がわかるのは不思議ですね。面白い。

近江神宮


大津宮遺跡のすべての地点を通りぬけた先にあるのが、近江神宮。

歌かるたの祖神を祀っている神社だからか、
その手前の公園にたくさん歌碑がありました。


天智天皇の歌碑
額田王の歌碑
柿本人麻呂の歌碑
藤原(中臣)鎌足の歌碑
平忠度の歌碑
長等神社にもこの歌の歌碑があります
大津市長の漢詩もありますね

参道に入ると、木々に桜が混じっているようで緑とピンクのコントラストが可愛らしいです

境内に入ると…
歌碑がたくさんあるな!!!

引用:https://oumijingu.org/pages/96/
右から5~10の歌碑
2の歌碑
3の歌碑
4の歌碑
1の歌碑
大津・膳所が大好きだった松尾芭蕉の歌ですね

いや多い多い!!
百人一首のほかにも松尾芭蕉の歌碑など、たくさんの歌碑があちこちに並んでいます。

社務所奥の近江勧学館は、競技かるたの会場になっているようです。
毎年ここで熱戦が繰り広げられるのかあ~

また、時の祖神といわれるように、漏刻(水時計)や日時計、中国の碑を使った火時計もありました。
御祭神の天智天皇が時間に関する制度を作ったため、6月10日を「時の記念日」として、「漏刻祭」を執り行っているそうです。
古代の時計がたくさん。時間を計るのにいろんな方法があったんですね。しかし全部大きいな…今の腕時計みたいに小さくコンパクトになったのはとてもありがたいですね。

漏刻(水時計)
日時計

日時計、試してみましたがちゃんと正確に時間が計れました。
すごいな~

ちなみに拝殿の横にある自動車清祓所は、大津事件の裁判を行った大津裁判所の本館車寄の建物を移築したものになります。
いろんなところに重要なものや建物がたくさんあるところだなあ~。

旧大津裁判所本館車寄
引用:https://oumijingu.org/pages/172/

朱色の楼門をくぐって、拝殿へ。
拝殿横にも桜が咲いており、ちょうど満開で絵になる光景でした。
天気も良くてよかったなあ~。
無事大津宮にやってこれたことに感謝しながらお参りをします。


宝物殿では、珍しい時計や絵画などの資料を見てきました。
また、近江神宮に伝わる方相氏の面も展示されていました。
方相氏の面って初めてみたなあ~。

方相氏の語源とは?

方相とは四辺に区画された結界のことで、方位除けや陰陽五行説に由来する。つまり、この方相の災厄を駆逐するための役職が「方相氏」とも言われている。また方相氏の氏とは官名で、中国の殷の時代の職能的氏族の名残だという。

鬼を退治する方相氏に注目!由来は?なぜ4つ目なの?善行が逆に自らを苦しめる、悲劇のヒーローの裏側に迫る|株式会社オマツリジャパン (omatsurijapan.com)

追儺、つまり節分に関わる役人のようです。
ほかの方相氏は目が4つのようですが、近江神宮の方相氏は6つ目なんだそう。不思議だなあ~。
お守りにも三つ目お守りがあるようで、しっかりいろんなものを見つめて運を開いてくれるそうです。

最後に近江神宮の御朱印もいただいてきました。
期間限定の御朱印は桜の御朱印、かわいい。
また、戦国時代に西側にあった宇佐山城の御城印もこちらの宝物館でもらえるようです。
こちらのお城もどんなところか気になりますね。

大津のお花見旅、次は桜の名所・三井寺に行きたいと思います!

↓↓次のお花見旅はこちら


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