【連載小説】君の消えた日-二度の後悔と王朝の光-117話 魂の境界5-淵に臨みて網を結ぶ-
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登校を再開した眞白の護衛に永遠が徹している頃、柊は東雲医院の病室で深い溜息を吐いていた。
「結局、一睡もできなかったわ……」
オーバーベッドテーブルに無造作に置かれた、文芸部の冊子。その存在感が、白々とした朝の光の中でいっそう増しているように見えた。開いた窓からは、近くの小学校へ登校する子供たちの無邪気な声が微かに届く。外界はいつも通りに動き始めているのに、この病室の時間だけが、昨夜からずっと淀んだまま止まっている。
昨夜、永遠が去った後、何度も手を伸ばしかけては指先を止めた。暗闇の中でこの表紙を捲ってしまったら、二度と戻れない場所へ引きずり込まれてしまうような、得体の知れない予感があったからだ。
(日が昇った今なら……)
柊は意を決して、重い腕を伸ばして冊子を手に取った。膝の上では、クロが小さな鼻提灯を膨らませながらぐっすりと寝入っている。その温もりを唯一の標にするように、柊は静かに活字に目を落とした。
――――――――――――――――――
【 消しゴムの独白 】
私は、自分という存在を消しゴムのように消すことができる。
誰かの意識から私の声を、体温を、眼差しを消し去るのは、指先一つで事足りる。
けれど、消せるのは人の記憶の中だけだ。そこにあった「物」には、私の痕跡がしがみついたまま残ってしまう。
持ち主のいなくなったマグカップ、宛先不明のプレゼント、誰が撮ったか分からない笑顔の写真。
人は自分の記憶を盲信し、目の前にある「物」を否定する。「こんなの、知らない」と。
その言葉を投げかけられるたび、私という存在が世界から削り取られていく音がした。
事が終われば、友も、仲間も、私の手で消してきた。
結果を出せば出すほど、兄からも親戚からも「便利な道具」としての称賛だけが積み上がる。そこに「私」という人間は不在だった。
そんな時、彼女に会った。
私と同い年で同じ血を引きながら、何も持たない従姉妹。誰かの期待を背負うこともなく、ただの「人間」として愛されている彼女。
両親に抱きしめられ、兄に守られ、壊れ物のように大切にされる彼女。
私は、彼女が憎かった。
役に立つ私ではなく、無力な彼女が愛される理由が分からなかった。
だから、壊してしまおうと思った。
彼女がその手の中に持っている、透明で温かな光を、全て。
運命とは不思議なもので、私が手を下す前に数々の不幸が舞い込み、彼女は多くを失った。私と同じ孤独の海に沈んだと思っていた。真っ暗で虚無な闇に堕ちたと。
なのに。
闇の中に沈んでもなお、彼女は希望を捨てなかった。その瞳には、私がどうしても手に入れられなかった、自分自身を信じる強さが宿っていた。彼女は決して1人じゃなかった。
……私は、本当は。
彼女に壊れて欲しかった訳じゃない。
私も、あんな風に誰かに見つけてほしかった。
――――――――――――――――――
柊はそっと冊子を閉じると、震える指先を隠すように、膝の上でそれを強く握りしめた。
長く、重い吐息が、静かな病室に吸い込まれていく。
「これじゃ、まるで……」
『無力な彼女が愛される理由が分からなかった』
『私も、あんな風に誰かに見つけてほしかった』
活字として刻まれたその言葉が、熱を帯びて脳裏に焼き付いている。
自分を愛してくれた両親、守ってくれた兄、そして周囲の温かな光。自分にとって当たり前だった幸せが、彼女にとっては自分を焼き尽くすほどの憎悪の火種であり、同時に、喉から手が出るほど欲しかった救いだったのだ。
自分が「光」の中にいたせいで、彼女はより深い「闇」に追いやられていたのかもしれない。
柊の瞳に、言いようのない痛みが宿る。
(私を壊そうとしていたのは、憎かったからだけじゃない。……助けてほしかったの?椛……本当のあなたは、一体どこにいるの?)
かつて向けられた冷徹な殺気の裏側で、声を殺して泣いていたはずのひとりの少女の悲痛な叫びに耳を澄ませるように、柊はいつまでも動かない自らの足元を、ただじっと見つめていた。
*
「眞白、次教室移動だから行くぞ」
午後も永遠の警戒は続いた。特に教室移動のある科目は、廊下の僅気配や視線、声や音など、あらゆる情報に神経を尖らせた。
「分かったよ……」
眞白は並んで歩くのを諦めて、永遠の少し前をひたすら歩き続けた。常に背後から突き刺さるような鋭い視線を感じながら。
――キーンコーンカーンコーン……。
ホームルーム終了のチャイムが校舎に溶け、一斉に椅子を引く音が教室を満たす。その喧騒の中で、眞白は憑き物が落ちたように深く肩の力を抜き、肺の空気をすべて吐き出すような深いため息をついて机に突っ伏した。
「ようやく終わった……」
「なんか一之瀬、疲れてるね。お疲れ」
後ろの席から身を乗り出すようにして顔を覗かせたのは、クラスメイトの井上だ。彼は苦笑混じりに、力なく項垂れる眞白の肩を軽く叩く。
「井上、ありがとう」
眞白が顔を上げて応えると、井上の視線がふいに対象を変えた。二人のさらに後ろ――教室の後方で壁に背を預け、微動だにせず周囲を射抜くような鋭い眼光を放っている影へ。
「あ、番犬がこっちに来るよ」
「番犬……?」
眞白が首を傾げた瞬間、迷いのない、それでいて足音を殺した鋭い気配が二人の間に割って入った。影の主である永遠は、眉間に深い皺を刻み、不快感を隠そうともせずに井上を睨みつける。
「おい、何だよ。番犬って」
井上の背後から、永遠が不満げな声を絞り出した。
「橘が心配し過ぎだからさ、なんだか微笑ましくて。じゃ、一之瀬、また塾でね」
「眞白、行くぞ」
「分かってるって……」
昇降口を出て校門へ向かうと、そこには気だるげに門柱に寄りかかる間宮 鴇の姿があった。
鴇は眞白たちの姿を認めると、楽しそうに手を振った。
「遅かったね、炎駒」
「……別に遊んでたわけじゃねぇよ」
鴇の気だるげな口調に永遠が低く返す。鴇は興味深げに、周囲の空気を探るような仕草を見せた。
「それにしても……この結界。智大さんが体育祭の時に張っていたものと同じだよね? 人の出入りにも耐えられてかつ広域な結界術なんて、普通の神官なら形成に丸1日かかる。君は何時間で張ったの?」
「……2時間くらいだな」
「結界術に優れてる智大さんだって10時間くらいかかる代物のはずだ……。本当に君の才覚は底なしだね」
「おちょくってるのか?」
「君の才能を褒めているんだよ……そうだ、これ君が欲しがっていたものだよ」
鴇はカバンから、ずっしりと厚みのある封筒を差し出した。
(鷲尾家の伝承、そして有坂家の角端の記録……前世を暴く、二つの文献の写しか)
「例の資料か……。悪いな」
「これを見て、君が『橘 永遠』のままでいられるか見ものだね」
永遠は一瞥しつつ鴇から書類を受け取るとリュックにしまい込んだ。
「さて、引き継ぎ完了ってことで、炎駒は帰っていいよ」
「いや……見送るよ。眞白は間宮とは初対面だよな?」
「そうだけど……」
「君が塾に行っている間、周辺を警護していたのはボクなんだけどね」
「えっ……? 嘘、全然気づかなかった……」
驚いて目を丸くする眞白を見て、鴇は満足げに口の端を吊り上げた。
「護衛対象に気づかれるようじゃ、三流だからね」
鴇はそのまま、芝居がかった仕草で恭しく一礼した。
「改めて、初めまして。一之瀬さん。ボクは間宮 鴇。呪われた神官だよ」
「呪われた神官……?」
「ボクは君が何を齎してくれるのか、とても興味があるよ。救済か破滅か……どちらでも面白そうだ」
その不穏な自己紹介と、底知れない瞳の奥の光に眞白が身構えると、永遠の低い声が飛んできた。
「おい間宮、あんまり怖がらせんなよ」
鴇はくっくと喉を鳴らして笑った。
「キミたちがこちらへ来る様子を見てたけど、炎駒の佇まいはすっかり従者の『それ』だね」
「勝手に言ってろよ」
忌々しげに吐き捨てる永遠を一瞥し、鴇は再び眞白へと視線を戻す。
「炎駒、君がこれから何を選び取るか――精々、ボクを楽しませてよ」
鴇の瞳の奥には、彼にしか見えていない何かが映っているようだった。
【次話】118話 魂の境界6-淵に臨みて網を結ぶ-
2026年5月30日(土) 21:00頃更新
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