【アメリカの「オレンジ計画」って知っていますか?】アメリカ日本征服のための「オレンジ計画」~アメリカは太平洋戦争開戦を待ち望んでいた!テレビで報道されない「オレンジ計画」「ハルノート」「排日移民法」~

【アメリカの「オレンジ計画」って知っていますか?】アメリカ日本征服のための「オレンジ計画」~アメリカは太平洋戦争開戦を待ち望んでいた!テレビで報道されない「オレンジ計画」「ハルノート」「排日移民法」~





■サンフランシスコ日系移民排斥が太平洋戦争の原因だ

~~~

われわれは、サンフランシスコが日系移民への差別発祥の地であり、それが、太平洋戦争の重要な原因のひとつだったことを思い出し指摘すべきである。

以下は、拙著『日本人の知らない日米関係の正体 本当は七勝三敗の日米交渉史』(SB新書)の関係部分を要約したものなので、是非、読んで理論武装して欲しい。

「日露戦争で日本が勝って調子に乗りすぎたのでアメリカが警戒し始めた」というようなことがよくいわれますが、単純すぎます。

それもひとつの要因ですが、大正になって、中国での辛亥革命とアジア諸民族の覚醒、第一次世界大戦、アメリカの国力充実と日本移民排斥、日本での政党内閣の確立と薩長閥の衰退などいろんな動きが複合的に影響し合って、日米蜜月というわけにはいかなくなったというのが正しいと思います。

まず、日本の国民感情がアメリカから離れたきっかけになったのは、日本人排斥問題でした。

その前史とも言えるのが、中国人排斥でした。

アメリカは幕末のころ、大陸横断鉄道を建設していましたが、それを支えたのは中国人労働者でした。

しかし、勤勉である一方で劣悪な生活条件を受け入れる中国人労働者は、白人労働者から強い反発を受けました。

そして、1882年に第21代チェスター・A・アーサー大統領(在職1881?85年)が中国人排斥法に署名し、中国人の移住が禁止されたのです。

日本人移民は独立国だったハワイでは明治初年から盛んでした。

そのハワイがアメリカに併合され移ってきたのと、中国人が排斥されたことで、カリフォルニアなどで日本人が増えました。

日本人は中国人ほどではありませんが、やはり、白人労働者から目の敵にされました。

排斥への具体的な動きは、日露戦争直後の1906年に、サンフランシスコ市が日本人学童を公立学校から追い出し、中国人などのための東洋人学校に移したことでした。

この措置をセオドア・ルーズベルト大統領は怒り、翌年に撤回させましたが、そのかわりハワイ経由での米本土移民は禁止されました。

日本としては、こうした制限はプライドを傷つけられるものでありましたが、朝鮮や台湾、満州などへの進出に伴う移住もあり、実害はそれほどなかったので、1908年に林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で「日米紳士協定」が締結され、日本側が移住を自主規制することになりました。

しかし、1913年カリフォルニア州では外国人土地法が成立して、日本人を狙い撃ちに土地所有が禁止され、さらに、会社やアメリカ生まれで米国籍をもつ二世を抜け道にしての保有も規制されていきました。

そして、さらに、1924年には日本で「排日移民法」といわれる法律ができ、南欧やユダヤ人も含む東欧からの移民が制限されるとともに、日本からの移民が全面的に禁止されてしまったのです。

政府の反対を押し切っての議会の暴走でした。

このように、日本人移民の制限は、地方自治体や議会の外交的配慮を欠いた暴走によるものでしたが、日米関係ではこうしたことはよくあることです。

また、その過程で、国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直が相談して議会に提出した、「両国関係に対し重大なる結果を誘致」という言葉が議会から恫喝(覆面の威嚇)であるというプロパガンダを引き起こすという事件もありました。

こうした移民の制限が、日本人の対米感情を急速に悪化させたことは間違いなく、「カリフォルニア移民拒否は日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時にこれを抑へることは容易な業ではなかった」(『昭和天皇独白録』より発言を現代語訳)とのちに昭和天皇が語るほどのインパクトがあったのです。

つまり、日本にとって実害はあまりなかったのですが、対米感情を非常に悪化させ、政治家やジャーナリズムが親米であることを難しくした一連の事件でした。

~~~
サンフランシスコ日系移民排斥が太平洋戦争の原因だ





■排日移民法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

~~~

排日移民法(はいにちいみんほう)は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。

この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。

独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。

特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。

~~~
排日移民法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




■日本人移民排斥運動

世界史の窓 <細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス>

~~~

日露戦争後、アメリカにおける日本人移民に対する排斥機運が強まり、しばしば問題が起きた。

日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議で国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れることを主張したが、入れられなかった。

1924年にはアメリカでの日本からの移民は全面的に禁止された。

アメリカは1899年に国務長官ヘイが門戸開放宣言を出し、それが中国大陸に対する国策の基本となっていた。

そして義和団事変での出兵を機に、中国、特に東北部(満州)への侵出を謀るようになった。

満州をめぐって日本とロシアが対立し日露戦争になると、T=ローズヴェルト大統領はそのいずれかが決定的な勝利を占めて、アメリカが追い出されてしまうことを恐れて、両国の仲介に乗り出した。

・日露戦争後の日米関係悪化

満州問題をめぐる対立 日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。

日本はこのようなアメリカの動きに対し、急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。

アメリカは両国による満州分割に反発し、満州の鉄道をすべて国際管理に置くことなどを提案した。

海軍増強問題 1904年のパナマ運河開通、ハワイでの軍港の整備など、太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって、日本の海軍力は大きな脅威であった。

両国は日露戦争後、積極的な建艦競争にのりだし、互いに相手を仮想敵国視するようになった。

両国でさかんに「もし日米、戦わば」という未来戦が人気を博した。

日本人移民問題 もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日本人移民問題であった。

明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増した。

白人(主にアイルランド系)労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日本人移民を排斥するようになった。

それにはドイツのヴィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もあった。

・日本人移民排斥

1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に通学すべしという市条例が制定された。

これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。

ようやくローズヴェルト大統領の市当局への説得により収束した。

1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。

その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。

このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.40>

・パリ講和会議での人種差別撤廃条項問題

1913年のカリフォルニアにおける排日土地法制定など、日本人移民に対する排除、差別の動きがますます強まっていた。

第一次世界大戦が勃発すると、日本は中国大陸や太平洋のドイツ権益を奪おうとして、日英同盟を利用して参戦、連合国の一員となった。

それによって戦後の1919年1月から始まったパリ講和会議に主要五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)の一つとして参加することになった。

この時、日本の現実的な要求は山東省で獲得したドイツ権益の継承を軸に中国に対して認めさせた二十一カ条の要求を列強にも認めさせることであったが、もう一つ、国内世論で盛り上がっていたアメリカでの日本人移民排斥反対の声をうけ、ウィルソンアメリカ大統領が提案した国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れよ、という要求を提出した。

この提案は中国代表も賛成するなど、一定の支持があったが、肝心のアメリカは国内の黒人差別問題を刺激することを恐れ、またイギリスは連邦内の自治国オーストラリアが白豪主義をとっていることなどから日本案に反対した。

日本も朝鮮や台湾での差別的な植民地支配をしていることもあって、その提案は世界的な輿論となることはなく、最終的には日本代表は、山東問題で日本の要求が通ることと引き換えに、自ら提案を引き下げた。

・移民法の成立

さらに第一次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。

~~~
日本人移民排斥運動
世界史の窓 <細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス>





■人種的差別撤廃提案

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

~~~

「人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。
この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。
国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。」

「議長ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、計11名の委員が賛成、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
しかしウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言した。」

~~~
人種的差別撤廃提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





■人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本だった~本当のことがわかる昭和史~

渡部昇一 上智大学名誉教授

~~~

人種差別といえば、第一次世界大戦後のパリ講和会議で新しく国際連盟をつくるための委員会において、日本が「人種的差別撤廃提案」をしたことは知る人も多いだろう。

日本は、「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という内容を規約に盛り込もうとしたのである。

国際会議において、人種差別の撤廃を訴えたのは日本が初めてであった。

このことは、ぜひ強調しておくべきことである。

しかも日本は無理な主張をしてはいない。

アメリカの国内事情なども斟酌して、期限など設けずに「なるべく速やかに」と書いているのである。

現在から見れば崇高な意義のあることを、真っ正面から、しかし控えめに打ち出したのだ。

この提案に賛意を寄せる心ある人々も多かった。

だが、この案には反対が出されて、流されることになる。

当時、植民地を抱えていた主要国からすれば、人種差別撤廃など、とても呑めない話であった。

人種差別の国・アメリカでは上院で「人種差別撤廃提案が採択されたならば、アメリカは国際連盟に参加しない」という決議まで行なわれていた。

当時の国際社会では、「日本は白人を中心とする世界秩序を混乱させるために、あえてこんな提案をしているのではないか」という疑心暗鬼さえ持たれたのである。

それでも日本は食い下がった。

国際連盟委員会の最終会合で日本は、連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という文言を入れる修正案を提案したのである。

この場でも反対意見が出されたが、日本は「これは理念を謳っているもので内政干渉ではない。これに反対するのは他国を平等と見ていない証左だ」と主張して採択を求めた。

その結果、賛成したのは日本、フランス、イタリア、ギリシャ、セルビア、クロアチア、チェコスロバキア、ポルトガル、中華民国。

反対はアメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランド、ルーマニアであった。

条文に規定がない内容を前文に入れるのはおかしいという理由での反対もあったが、それでも賛成票が反対票を上回ったのであった。

だが、議長だったアメリカのウィルソン大統領が、こう述べる。

「全会一致でないので、本修正案は否決された」

日本は「多数決での決定もあったではないか」とさらに食い下がるが、ウィルソンは「このような重要な問題は全会一致、あるいは反対票なしの決定だった」と一蹴したのである。

日本は、提案の趣旨と賛否数を議事録に残すことを要求して引き下がるしかなかった。

これは、新しい理念を打ち出すべき国際連盟が、「これからも人種差別は世界の基準だ」と判定したも同然の決定であった。

日本国内では「そんな国際連盟なら参加する必要はない」という猛反対の声が澎湃と湧き上がった。

『昭和天皇独白録』(文藝春秋)にも、大東亜戦争の遠因として、冒頭に次の文言がある。

〈この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア州)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、之を抑へることは容易な業ではない〉

世界全体に「差別は悪」ということが共通認識(実態がどうかは別として)として広がった現代を生きる日本人の中には、もしかすると「それで戦争になってしまうくらいなら、別にそこまで熱くならなくてもよかったのではないか」などと思う人もいるかもしれない。

だが、これは人間としての誇り、人間の尊厳に関わる問題である。

実際に差別に直面していた当時の日本人は、世界を覆う人種差別に、耐え難い憤りを感じていたのである。

~~~
人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本だった~本当のことがわかる昭和史~
渡部昇一 上智大学名誉教授





■人種差別から読み解く大東亜戦争

発売日: 2015年08月
著者/編集: 岩田温
出版社: 彩図社

・楽天ブックス

○内容紹介(「BOOK」データベースより)

1919年パリ講和会議ー日本が提出した「人種差別撤廃案」はアメリカやイギリスの反対で否決された。
あの戦争に至るまでの流れを「人種差別」の観点から明らかにする。

○目次(「BOOK」データベースより)

第1章 大東亜戦争と人種差別/第2章 世界侵略を正当化した人種差別思想/第3章 アフリカ、インカ、アメリカの悲劇/第4章 奴隷貿易と無縁ではなかった日本/第5章 「植民地にされる」とはどういうことか/第6章 日本が求めた欧米列強と対等の地位/第7章 人種差別撤廃の理想を世界に問うた日本/第8章 日本人が知らない大東亜戦争の大義

○著者情報(「BOOK」データベースより)

岩田温(イワタアツシ)
昭和58年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院修了。現在、拓殖大学客員研究員。専攻は政治哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
・楽天ブックス『人種差別から読み解く大東亜戦争』





■日本軍が変えた「白人優位」 『人種戦争』

産経新聞 2015/8/1

~~~

『人種戦争-レイス・ウォー 太平洋戦争 もう一つの真実』

太平洋戦争は人種差別をめぐる戦いだった、と本書の著者、ヒューストン大学の黒人歴史学者ジェラルド・ホーン教授は言う。

第二次世界大戦に日本が参戦するまで、世界は白人優位の絶対的な秩序のもとで成り立っていた。

「純血の白人」以外は人にあらず、とまで言われるような、有色人が虐げられる劣悪な状況である。これを、日本軍が変えた。

そもそも日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議で、世界で最初に人種差別撤廃提案をした国である。

しかし、英米などの反対により、かなわなかった経緯がある。

日本はこうした白人至上主義をくつがえすことを試み、この戦争を、太平洋における白人支配に対する防衛として位置づけた。

そしてヨーロッパの人種差別と植民地政策を逆手にとり、植民地化されていた地域の有色人たちとの間に同盟関係を築いていったのである。

本書には、香港をはじめアメリカ、東南アジア、インド、オーストラリアなど、著者が世界各地で取材した、たくさんの有色人の声が収録されている。

1941年12月、日本軍が香港に侵攻した際、反日感情の強い中国人がこれを支援したという記述も興味深い。

このように日本では知りえなかった真実がここに描かれている。

白人至上主義が依然として根強く残っている現代にも、警鐘を鳴らす異色の問題作である。ぜひご一読いただきたい。

~~~
日本軍が変えた「白人優位」 『人種戦争』
産経新聞 2015/8/1





■ハル・ノート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

~~~

ハル・ノート(英語: Hull note)、正式名称:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(がっしゅうこくおよびにほんこくかんきょうていのきそがいりゃく、英語: Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)は[1]、対英米戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[2][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である

~~~
ハル・ノート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





■ハル・ノート

日本大百科全書(ニッポニカ)

~~~

太平洋戦争直前の日米交渉末期、アメリカ国務長官ハルC. Hullにより日本側に手交されたアメリカ側対案。

1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎(きちさぶろう)大使による打開案に対する回答として26日(日本時間27日)提示された。

内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶(じゅうけい)を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。

日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折(ざせつ)を理由に対米英蘭(らん)開戦を決定した。

[荒井信一]

~~~
ハル・ノート
日本大百科全書(ニッポニカ)





■ハル・ノート

世界大百科事典

~~~

日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。

1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,11月26日にC.ハル国務長官が提示した。

おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認,日独伊三国同盟の否認などであった。

東条英機内閣と軍部は,ハル・ノートを対日最後通牒とみなし,12月1日の御前会議で12月8日の太平洋戦争開戦を最終的に決定した。

執筆者:木坂 順一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

~~~
ハル・ノート
世界大百科事典





■戦争回避の希望の光を吹き飛ばしたハル・ノートの衝撃

~~~

・ハル・ノートの衝撃

11月26日に行われた野村・来栖-ハル会談において、ハルは日本側の最終打開案である乙案を拒否するとのアメリカの正式な回答を伝え、基礎協定案のみを日本側に手渡しました。

日本ではこの基礎協定案を「ハル・ノート」と呼んでいます。

● 開戦まであと12日 = 1941年11月26日

「ハル・ノート」は世界のさまざまな外交史のなかでも、際立って悪評高い外交文書として位置づけられています。

「ハル・ノート」がどれだけ過酷な要求であったかについては、東京裁判にて全判事のなかで唯一無罪判決を主張したパール判事の次の言葉が有名です。

「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう」

モナコ公国とルクセンブルク大公国は、単に弱小国のひとつとしてあげられているに過ぎません。

そのような弱小国であってもハル・ノートを突きつけられれば、戦う道を選ぶよりなかったと述べています。

この例えは実はパール判事が考えたわけではなく、アメリカの歴史家アルバート・ノックの『回想録』にある言葉を引用したものです。

ニュアンスの違いはあれ、「ハル・ノート」が外交の常識からは考えられないほど過酷な内容であったことは、多くの研究者によって指摘されています。

アメリカが日本を戦争に追い込むために「ハル・ノート」を手渡したとする論も、日米双方で取り沙汰されています。

「ハル・ノート」によって日米交渉の妥結は絶望的となり、日本は11月5日の御前会議にて決議された国策に基づき、対米開戦を決行するに至りました。

これまでの日米交渉の経過を見れば明らかなように、たとえ「ハル・ノート」が提示されていなかったとしても、日本が対米開戦に踏み切る流れであったことはたしかです。

しかし、「ハル・ノート」がなければ東郷外相をはじめとする避戦派の抵抗する余地が、まだ残されていたことも否定できません。

「ハル・ノート」は日米開戦への最後の一押しとなりました。

戦争を回避する綾が残されていたのは、「ハル・ノート」が手渡される前までのことです。

ここでは「ハル・ノート」の内容を確認しながら、日本に広がった衝撃の度合いについて追いかけてみます。

その1. ハル・ノートとは

ハル・ノートの手交は、閣議を通すことも米議会の承認を得ることもなければ、陸海軍の長官に知らされることも関係各国との協議もなく、唐突に為されました。

ハル・ノートは交渉の経過を簡単にまとめた口頭の文書と「合衆国及日本国間協定の基礎概略」から構成されています。

通常、ハル・ノートといえば後半の「合衆国及日本国間協定の基礎概略」を指します。

その冒頭には「厳秘 一時的かつ拘束力なし」と記され、第一項に「政策に関する相互宣言案」としてハル四原則が並べられていました。

ハル四原則は以下の通りです。

一、一切の国家の領土保全と主権の不可侵
二、他国の内政への不関与
三、通商の機会均等
四、紛争の防止および平和的解決等のための国際協力および国際調停の遵拠

このハル四原則を日米両国が積極的に支持し、実際に適用することを宣言すると記されています。

なお、「厳秘 一時的かつ拘束力なし」と断り書きが為されているのは、この提案がアメリカ政府の正式な提案ではないことを明らかにするためです。

「ノート」という言葉からもわかるように、実は「ハル・ノート」はハル国務長官の覚書に等しく、アメリカ政府の正式な提案ではない、とされています。

しかし、当時の状況からして「ハル・ノート」をアメリカ政府の回答と日本が受け取ったことは当然と言えるでしょう。

国際的にも、そのように解釈されています。

次に第二項として、ハル四原則に沿って両国政府がとるべき具体的な措置として十項目が羅列されています。

なお「ハル・ノート」の呼称は日本では一般的ですが、アメリカではそのような呼び方をしていません。アメリカでは「テンポインツ(TenPoints)」と呼ばれています。

ーーー

第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10.本協定内容の両国による推進

ハル・ノートより引用

ーーー

ハル・ノートの文面だけを追いかけてみても、その内容が日本にとってどれだけ過酷であったのか、よくわからないかもしれません。

日米交渉に携わっていた日本側関係者のことごとくを絶望に淵に突き落としたのは、第三項と四項及び第九項の内容です。

第三項では中国と仏印からの日本の軍と警察の撤退を、一切の例外なく求めています。

さらに第四項では重慶の蒋介石政権以外の中国政府が否認されています。

この何が問題なのかと言えば、これまでの日米交渉で積み重ねられてきた合意がすべてリセットされていることです。

「合意」という言葉には語弊があるかもしれませんが、少なくとも日本側は日米交渉を通してアメリカの要望に適うように、回を重ねるごとにできるだけの譲歩を見せてきました。

中国からの撤兵にしても、当初は日中戦争で亡くなった英霊のためにも撤兵はできないと主張していたものを、北支・蒙疆・海南島に25年間兵力を駐留させるが、それ以外は全面撤兵すると譲歩しています。

仏印からの撤兵にも条件付きではあるものの、応じると伝えています。

日米交渉を通して日本は譲るべきところは譲り、アメリカの理解を少しずつ得ているものと受け取っていました。

実際、6月21日付米国案では「共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする」との文言が入っています。

そのことはアメリカが原則論のみにとらわれるのではなく、日本の立場に理解を示していたことを意味しています。

ところがアメリカは突然手のひらを返したかのように、日本側の要望をすべて無視した上で中国と仏印からの全面撤兵を、一切の例外なく求めてきたのです。

第四項に関しては、日本の支持する汪兆銘政府にしても満州国にしても、これまでアメリカが承認してこなかったことは事実です。

しかし、これまでの日米交渉においてアメリカは、あえて未承認であることを明文化していませんでした。そこには日本に対する配慮があったと考えられます。

ところがハル・ノートにおいて唐突に、蒋介石政権以外は認めないと明文化し、日本の承諾を迫ってきました。

第九項で三国同盟の実質的な廃棄を求めていることも、これまでの日米交渉で重ねてきた日本側の要望を一切考慮していないことがわかります。

国家間の交渉であれ、ビジネス上の交渉であれ、はじめは自分に有利になる条件を掲げるものの、交渉の過程を通して相手の事情を互いに汲み取り、譲るべきところは譲り合い、双方が納得できる条件で合意に至るのが普通です。

しかし、ハル・ノートはこうした「交渉」の常道を完全に逸脱していました。

附属のオーラルステートメントによると、ハル・ノートは「太平洋全地域に渡る広汎ながら簡単なる解決の一案」であるとし、「6月21日付け米国案と9月25日付け日本案の懸隔を調整」と説明されています。

しかれど、その内容は「米国案と日本案の懸隔を調整」の文言とは程遠いものでした。

日本の要望をすべて却下しているにもかかわらず、アメリカの要望ばかりが、より過激さを増しているからです。

つまり、ハル・ノートが問題なのは、これまで日本側が譲歩を重ねてきた日米交渉の経過を無視して、アメリカが一方的に突然、条件をつり上げていることにあります。

これでは今まで何のために日米交渉を続けてきたのかわかりません。

ハル・ノートは日本に残されていた戦争回避の希望の光を、ものの見事に吹き飛ばしたのです。

(中略)

- 一夜にして消えた「満州」についての記述 -

ハル・ノートの原案となったのは11月17日に提出されたモーゲンソー案です。

モーゲンソー財務長官の下でこの案を実際に作成したのは、財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトです。

ホワイトが作成したモーゲンソー案をもとに修正が加えられ、22日に「日米協定の基礎提案の概要」が作られています。

そこにはアメリカ側のとるべき措置として8項目、日本側のとるべき措置として6項目が掲げられていました。

その日本側のとるべき措置のなかには「日本軍の支那(満州を除く)からのすべての陸海空軍及び警察を撤収すること」との条項があります。

「支那」の説明として括弧付きで「満州を除く」の句が、あえて挿入されていることは、注目に値します。

つまり、22日案では中国からの撤退に満州は明らかに含まれていなかったのです。

その後、24日には22日案がさらに修正され、日米両国がとるべき措置として11項目にまとめられました。

その第3項には日本軍の撤兵について、やはり「満州を除く」と明記されています。

さらに第6項には、満州問題についてアメリカ政府が日中両政府にサジェストすることが記されていました。

翌25日、24日案にあった11項目から1項目が削除され、最終的に10項目にまとめられています。

その削られた項目とは、第6項の「満州問題についてのアメリカのサジェスト」でした。

さらに、第3項の「支那」の説明として挿入されていた「満州を除く」の句が削除されています。

こうしてハル・ノートが確定し、日本に手渡されたのです。

このことが明らかとなったのは戦後になってからです。

当時の日本は、前日まで「満州を除く」との言葉がハル・ノートに挿入されていた事実を知りません。

満州についての記述を削ることによってアメリカが何を狙ったのかは謎です。

はっきりしていることは、アメリカがなんらかの狙いを持ち、意図的に満州についての記述をすべて削ったことです。

そのことをアメリカの満州に対する宥和的な態度が改まったと解釈することもできれば、満州についてはふれないことで日本側のミスリードを誘ったと推測することもできます。

いずれにせよ、なんらかの力が働き、24日から25日までのわずか数時間の間に、ハル・ノートから満州についての記述がそっくり消されたのです。

どのような過程を経て満州についての記述が消されることになったのか、今日までまだわかっていません。

満州についての記述の削除にしても、暫定協定案が破棄されたことにしても、唐突感は否めません。まるですべての事象が、日本を開戦へ導くように仕込まれたかのようです。

日米ともに、そのように考える研究者も多く、だからこそルーズベルト陰謀論やホワイトを中心とするコミンテルン陰謀説が、絶えることなく幾度も蒸し返されているのです。

戦後、アメリカはハル・ノートには満州についての記述はないとして、満州については日本側の誤解があったと主張しています。

しかし、前日まで「満州は除く」とあった文言を、アメリカがあえて外して日本側に渡したことも事実です。

そのことによってアメリカが何を意図したのか推測の域を出ませんが、さまざまな解釈が成り立ちます。

そこにアメリカの悪意をくみ取ることも、十分に可能です。

結局のところ、ハル・ノートにて九カ国条約に基づく原則論を押し付けられている以上、九カ国条約違反として否認していた満州国をアメリカが認める余地はないと日本側が受け止めたことは当然であったといえそうです。

日本側がハル・ノートによって満州国の放棄を求められていると解釈したことは、当時の状況やこれまでの経過からして、やむを得ないことでした。

そのことは、満州についてのアメリカのサジェストや「満州は除く」の文言を削除するにあたり、アメリカ側としても十分に予想できることだったと考えられます。

それを承知でアメリカがあえて満州についての記述を削ったという事実を、忘れるべきではないでしょう。

ハル・ノートを受け取った日本は、大きな衝撃に見舞われました。

~~~
戦争回避の希望の光を吹き飛ばしたハル・ノートの衝撃






■「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し

産経新聞 渡辺浩 2017/1/8

~~~

わが国はやむなく、1941(昭和16)年12月8日(現地時間7日)、ハワイの米海軍基地を攻撃(真珠湾攻撃)。

米国、英国など連合国を相手に戦争に突入しました。

平和を願ってぎりぎりまで努力を続けた昭和天皇は、開戦の詔書に「豈(あに)朕(ちん)カ志ナラムヤ」(このような事態は私の本意ではない)と書き加えるようご下命になりました。

12日の閣議で戦争の名称を、進行中の支那事変も含めて大東亜戦争と決めました

・「日本に1発目を撃たせろ」

米大統領フランクリン・ルーズベルトは1940年10月8日の段階で、海軍大将ジェームズ・リチャードソンに対し「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、そしてわれわれは戦争に突入することになる」と語っていました。

陸軍長官ヘンリー・スチムソンの日記によると、ハル・ノートがわが国に通告される前日の1941年11月25日、関係閣僚と軍幹部による戦争閣議でルーズベルトは「米国はたぶん次の月曜日(12月1日)に攻撃を受ける可能性がある」と発言。

「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾を撃たせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきか」が話し合われました。

わが国の命運を左右する謀議を行ったその夜、ルーズベルトは浮かれていました。

ホワイトハウスにノルウェーのマッタ皇太子妃を招き、夕食を共にしました。

マッタ妃はナチス・ドイツの侵攻から逃れて米国に滞在し、英国にいたオーラブ皇太子とは離れて暮らしていたのです。

当時40歳で美貌のマッタ妃に59歳のルーズベルトは恋愛感情を抱いていました。

ルーズベルトの妻エレノアはこの日、ニューヨークに出掛けて留守。

ホワイトハウスの記録によると、マッタ妃は午後7時半から翌日午前0時15分までホワイトハウスにいました。

27日、国務長官コーデル・ハルはスチムソンに対して「私はそれ(日本との交渉)から手を引いた。今やそれは君とノックス(海軍長官)の手中にある」と述べました。

外交交渉は打ち切ったので後は軍の出番だというわけです。

・筒抜けだった日本外務省の暗号

わが国が真珠湾を攻撃するのではないかという噂は早くから米国に伝わっていました。

攻撃11カ月前の1941年1月27日、駐日ペルー公使のリカルド・シュライバーは在日米国大使館に「日本軍は真珠湾を攻撃する準備をしている」という情報を伝え、直ちに駐日米大使ジョセフ・グルーから国務長官ハルに打電されました。

これはグルーの日記にもハルの回顧録にもはっきり記されています。

米国はわが国の外務省が使っていた暗号機の模造に成功し、解読に必要な句読点コードはニューヨークの日本総領事館に深夜侵入して盗撮していました。

外交電文は筒抜けだったのです。暗号は「パープル」(紫)と呼ばれ、解読文は「マジック」という名前が付けられていました。

例えば、外務省は在外公館に対して暗号で、日米関係が危機になれば「東の風、雨」、日ソ関係が危機になれば「北の風、曇り」、日英関係が危機になれば「西の風、晴れ」という偽の天気予報をNHKの海外向け短波放送に紛れ込ませるので、放送を聞いたら暗号関係の書類を破棄せよ-と打電していました。

米国はこれを解読し、真珠湾攻撃3日前の12月4日に「東の風、雨」が放送されたことを確認しています。

わが国外務省は12月1日に在英大使館などに暗号機の破壊を命じ、2日には在米大使館にも1台を残して暗号機を破壊するよう命ずる外交電文を発信しましたが、これも米国は解読していました。

わが国が交渉による解決を断念し、開戦を決意したと、米国は分かっていたのです。

また、ホノルルの日本総領事館員、吉川猛夫が諜報活動を行っていたことを知りながら泳がせて行動を監視し、真珠湾の米艦船の停泊位置などを報告する電文が増えていたことを把握していました。

わが国が真珠湾の様子に重大な関心を抱いていたことを、米国は知っていました

オーストラリアはわが国海軍機動部隊がハワイに向かっていることを偵察機が確認し、米政府に報告していました。

米国の参戦を待つ英国も機動部隊の動きを知っていたとされています。

前回紹介したマッカラム覚書を発掘した元米海軍軍人のロバート・スティネットは膨大な史料を基に、米国がわが国海軍の作戦暗号を一部解読していたと論じています。

海軍機動部隊が無線封止の命令を破って不用意に発信する微弱な電波を太平洋の監視網で方位測定し、択捉島・単冠(ひとかっぷ)湾に集結してから真珠湾に向かう動きをつかんでいたというのです。

戦史研究家の原勝洋氏も、真珠湾攻撃前に米国が海軍の暗号を解読していたとする米海軍の報告書を発見しています。

米国がわが国海軍の作戦指示をどの程度解読できていたのかはさらに検証が必要ですが、ルーズベルトが自国が攻撃されることを事前に知っていたことは間違いありません。

・「戦争はあした始まるよ」

当時、ハワイの米太平洋艦隊には「エンタープライズ」「レキシントン」「サラトガ」の3隻の空母が配備されていましたが、サラトガは西海岸のサンディエゴで整備中でした。

ハル・ノート通告と同じ11月26日、米海軍首脳部は太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して、海兵隊の戦闘機などを運ぶためエンタープライズをウェーク島に、レキシントンをミッドウェー島に派遣するよう指示しました。

キンメルは疑問に思いましたが従い、エンタープライズは28日に3隻の巡洋艦と9隻の駆逐艦を連れて、レキシントンは12月5日に3隻の巡洋艦と5隻の駆逐艦を連れて出港しました。

真珠湾には戦艦アリゾナなど旧型艦ばかりが残ったのです。

真珠湾攻撃に備えて空母などを避難させた可能性があります。

交渉を打ち切るというわが国の最後通告は在米大使館員たちの怠慢によって真珠湾攻撃の55分後に米側に手渡されました(宣戦布告遅延問題)。

もちろん大使館員たちのやったことは万死に値します。

しかし、そもそも米国は東京から在米大使館に送られた最後通告の電文を直ちに解読し、いち早く知っていたのです。

在米大使館の残り1台の暗号機の破壊を命じる電文も読んでいました。

真珠湾攻撃前日の6日、海軍幹部から渡された解読文を読み終えたルーズベルトはこう言いました。

「This means war」(これは戦争を意味する)。

ルーズベルトの長女の夫だったジョン・ベティジャーによると、この日、ルーズベルト家は全員が集まってディナーをとりました。

ルーズベルトは中座し、やがて戻ってきて、こう言いました。「戦争はあした始まるよ」

米軍首脳は、最後通告がワシントン時間の7日午後1時、ハワイ時間の午前7時半に手渡される予定で、直後に攻撃が始まる恐れがあると知りながら、この情報をすぐにハワイに知らせようとしませんでした。

軍の通信網ではなくあえて商用電報で送り、陸軍ハワイ司令官ウォルター・ショートと海軍太平洋艦隊司令長官キンメルがそれを受け取ったのは攻撃を受けた何時間も後でした。

米国は味方を欺き、見殺しにしたのです。

国務長官ハルは、遅れた最後通告を手渡しにきた駐米大使の野村吉三郎らに対して、初めて見たように驚いてみせ、「私はこれほどの虚偽と歪曲に満ちた恥知らずの文書を見たことがない」と芝居を演じました。

陸軍長官スチムソンはその日の日記に「日本が直接ハワイを攻撃したことによって、全問題は解決された」「第一報にはじめて接したとき、私の最初の印象は、未決定状態が終わって救われたという気持ちであり、また危機は到来したが、これで米国国民は全て団結するという感じであった」と書いています。

ルーズベルトのもくろみ通り、わが国を追い詰めて先制攻撃させ、参戦の口実にしたのです。

真珠湾攻撃による米国側の死者は2338人。ルーズベルトは攻撃を事前に知っていたとはいえ、被害がここまで大きくなるとは思っていなかったとみられます。

ハワイの陸海軍トップであるショートとキンメルは被害を防げなかった責任を問われて、軍法会議も開かれずに解任されました。

しかし真珠湾攻撃の責任者は米大統領ルーズベルトその人なのです。

わが国にハル・ノートを突き付けたことを、ルーズベルトは自国民に公表しませんでした。

開戦権限がある議会にさえ知らせませんでした。

戦争に直結する強硬な通告だと知れると、海外での戦争に反対する米国世論が反発するからです。

事情を知らない米国民は「和平交渉中の卑怯なだまし討ち」とわが国を非難しました。

そもそもハワイは米国が武力で奪った土地ですが、「リメンバー・アラモ」「リメンバー・ザ・メイン」と同じ手口で「リメンバー・パールハーバー」を叫んで戦意を盛り上げたのです。

~~~
「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し
産経新聞 渡辺浩 2017/1/8






■オレンジ計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

~~~

オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、英: War Plan Orange)とは、戦間期の1920年代から1930年代において立案された、将来起こり得る日本との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。

カラーコード戦争計画のひとつであり、交戦可能性のある当時の五大国を色分けし計画されたものである。

計画はポーツマス条約成立後の1906年の非公式調査から始まり、当時は様々な想定がなされていた[1]。

最終的な案は1911年にレイモンド・P・ロジャーズ(英語版)によって考案された[2]。

1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)において採用された[3][4]。

・概要

カラーコード戦争計画は連合国対枢軸国を仮定したレインボー・プランに先行した計画であり、その中でオレンジ計画はアメリカ合衆国が対日戦を行う場合に基づいて研究され続けていた。

1898年(明治31年)の米西戦争によりフィリピン、グアムを獲得したアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、日本があった。

日本は、1894年(明治27年)の日清戦争により朝鮮半島を含め大陸へと進出し始めていた。

わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊を訪問(黒船来航)させ開国させた日本が、富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、米西戦争を終えたアメリカにとって潜在的な、しかし警戒すべき問題となっていた。

この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。

1905年(明治38年)に日露戦争が終結すると中国問題が日米間で重要問題と化し、両国間の緊張が高まる。

アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。
これらカラーコード戦争計画は、後のレインボー・プランとは異なり基本的に一国対一国の戦争を想定しており、外交関係や集団安全保障に関して考慮されていなかったのだが、オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミュレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。

日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。

~~~
オレンジ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






■日本征服のための「オレンジ計画」という事実

~~~

・プロパガンダ(情報戦)の成果

アメリカは、今でも「日本が真珠湾攻撃を仕掛けたから戦争になった」「悪しき侵略国家、日本に果敢に立ち向かい勝利した」「原爆が戦争を終わらせた」というプロパガンダ(情報戦)をし、世界中でそう信じている人が多いです。

日本に対しても、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が徹底してこのプロパガンダを行ない、その後も続けているので、その「成果」が出ています。

しかしながら、アメリカは「オレンジ計画(オレンジ作戦、War Plan Orange)」に基づいて、日本を戦争に追い詰め、敗戦に導いたことが分かっています。

真珠湾攻撃の無線は傍受されていたし、むしろ、日本が攻撃するように仕掛けていました。

また、日本からの停戦交渉を無視して、必要がないのに原爆を2度落としています。

3度目の原爆を東京に落とす間際に、日本が無条件降伏しました。

日本は、アメリカによる日本征服のための「オレンジ計画」にまんまと引っ掛かり、今に至っているのです。

・不思議なことに気づく

私が「オンレジ計画」を知ったのは最近です。

きっかけは、昨年、「人権」に関して、フランクリン・ルーズベルトを調べていたとき、不思議なことに気づいたことです。

それは、ルーズベルトは、未来から来た人かと思うぐらいに、物事が起きる前に、起きた後のことを知っていたのです。

しかし、それは未来のことを知っていたわけではなく、計画通りに進めていたのだと分かりました。

第二次世界大戦(1939年勃発)が始まる25年前の1914年、大統領になる前から日本との戦争の計画を立てていたのでした。

「太平洋戦争が勃発する(勃発しそう)→ 作戦を考える」ではなく、「作戦を考える(1914年)→ 太平洋戦争に導く(1941年)」=「オレンジ計画」だったのです。

「オレンジ計画」に関しては、1986年にNHKで放映され、本(「ドキュメント昭和5 オレンジ作戦」NHK”ドキュメンタリー昭和”取材班、角川書店、1986年刊)も出ています。

この時でさえ、膨大な資料が出ていたのが、1994年に、アメリカの、50年経つと秘密書類を公開する仕組みで、さらに多くの情報が公開されています。

「日本征服を狙ったアメリカの『オレンジ計画』と大正天皇」(鈴木荘一著、経営科学出版、2023年)は、2012年刊の復刻版です。

・オレンジ計画の流れ

オレンジ計画(1897年~)に至るまでと、計画の流れは下記です。

アメリカは、1846年頃から「日本を軍事的影響下に置きたい」と考えていました。

1852年からペリー(艦隊)を訪日させ、翌53年には沖縄の拠点化も進めています。

また、1854年に、江戸幕府を恫喝して、日米和親条約を結ばせました。

(この後、アメリカは南北戦争になり、いったん対外進出は中止します)

1897年に「対日戦争のための計画(オレンジ計画)」をスタートさせています。

1898年、アメリカは、ハワイを併合しました。日本がこれに対して戦いを挑んでくると踏んでいましたが、そうしなかったので、次の機会を待つことにしました。

1905年、日露戦争で日本が勝ったため、1906年、日本を徹底的に抹殺するべく真剣に戦略を練ることにしました。そして1914年にパナマ運河を開通させるなどして、着々と戦争に備えていきます。

1914年、海軍次官だったフランクリン・ルーズベルトが、計画をバージョンアップします。

日本は、アメリカの目論見とは異なり、太平洋諸島に軍事的な関心を抱いていなかったので、日本人を挑発し、追い詰めて、大陸へと向かわせる計画を練ることにしました。

日英同盟を破棄させることが重要な目標となり、英米アングロサクソン同盟を強化し、日本人移民をアメリカから排除するため、黄色人種=黄禍作戦を行なっています。

1923年にオレンジ計画はほぼ完成しました。

計画は、アメリカ海軍が日本周辺の諸島を占領し、日本海軍を孤立、壊滅させ、沖縄も占領するというものです。

さらに、日本本土に焼夷弾と毒ガス弾を投下して焼き尽くし(毒ガス弾は、原子爆弾となりました)、無条件降伏へと追い込むというものでした。

後はタイミングを待って仕掛けるだけです。

1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領になったため、1936年に計画を改訂し、1939年に、日米通商条約を破棄し、いよいよ日本に戦争を仕掛けることにしました。

石油禁輸により日本を追い詰め、日米首脳会談も拒否し、太平洋艦隊をハワイの真珠湾に移動させ、日本を挑発することにしました。

この計画に反対するアメリカの上層部は解任、降格されています。

結果、太平洋戦争(1941-1945年)は、アメリカの計画通りに始まり、進み、終わっています。

降伏した日本に、日本占領連合軍最高司令官としてやってきたマッカーサーは、戦艦ミズーリに、ペリーの黒船の星条旗を博物館から持って来させて飾り、降伏文書への調印が行なわれました。

「第二の開国」の演出ということですが、アメリカはペリーの前(1846年)からの100年来の日本征服の野望を叶えたわけです。

日本にアメリカ軍の基地が置かれ、日米地位協定などで、今もアメリカは日本に大きな影響を与えています。

―――

NHKの本によれば、日本でもアメリカを仮想敵国とした戦争計画を立てているのですが、「オレンジ計画(オレンジ作戦)」のほうが、膨大で緻密で総合的、かつ攻撃的で、強い意志が感じられ、上手(うわて)だということです。

これに対して、日本は、陸軍と海軍と国家がバラバラに計画を立てているうえ、ペーパープラン(実現性に乏しい計画)も多かったようです。

~~~
日本征服のための「オレンジ計画」という事実







■日本の針路もゆがめた「排日移民法」の衝撃 内向き米国の向かう先は
朝日新聞 2025年8月18日





■日米開戦の遠因になったアメリカの移民排斥 排外主義は衰退への道
朝日新聞 2025年8月31日




■日本を滅ぼすための指針?1897年に完成していた「オレンジ計画」





■【太平洋戦争の発火点】アメリカと「排日移民法」「オレンジ計画」





■アメリカのオレンジ計画と大正天皇





■日本人はなぜ自虐的になったのか―占領とWGIP―
「日本人に罪悪感を植え付け、原爆投下等、アメリカによる戦争犯罪への反発をなくすこと。彼らはメディアを支配し、法や制度を思うままに変え、時に天皇までも利用」
著者:有馬 哲夫
出版社:新潮社
発売日:2020年07月17日

https://a.r10.to/hyHZON






■中学校社会 歴史/ヨーロッパ諸国によるアジア侵略(中学校社会 歴史)
WIKIBOOKS(ウィキブックス)





■なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略





■欧米列強はこうして植民地を支配した





■欧米植民地の残虐さ
日本のアジア「侵略」を批判しまくっている欧米諸国。
その日本が「侵略」する前のアジア諸国はどういう状況だったのか。





■東南アジアの植民地化 世界史の教科書を最初から最後まで





■欧米列強による苛烈なアジア植民地支配: ⑤列強の侵略にあえぐアジア





■欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか
列強に侵略にあえぐアジア





■東南アジアの旧宗主国

英国・・・ミャンマー(英領ビルマ、インド帝国)、マレーシア・シンガポール・ブルネイ(英領マラヤ)
フランス・・・ベトナム・カンボジア・ラオス(仏領インドシナ、仏印)
オランダ・・・インドネシア(蘭領東インド)
米国・・・フィリピン
ポルトガル・・・東ティモール






■植民地時代の旧宗主国と現在の公用語(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ)





■東南アジアの植民地時代|旧宗主国一覧と現代に残る影響




■南東南アジアの植民地化|列強進出と支配の展開





■アジアの植民地獲得競争





■20世紀初頭から見る東南アジア各国





【大東亜戦争前、アジアは欧米諸国白人に植民地支配されていた】
■東南アジアの植民地化【列強によるアジア侵略】





■人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本だった
「反対はアメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランド、ルーマニアであった」
議長だったアメリカのウィルソン大統領が、こう述べる「全会一致でないので、本修正案は否決された」
渡部昇一 上智大学名誉教授





■人種的差別撤廃提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対





■私たちがまだまだ知らない「東京裁判」
週刊現代





■教科書に載らない歴史上の人物 ラダ・ビノード・パール





■パール判事の日本無罪論





■『パール判事の日本無罪論 』





■『東京裁判 全訳 パール判決書』





■『パル判決書』の真実 いまこそ東京裁判史観を断つ





■日本人の7人に1人が「原爆投下は仕方ない」と答えてしまう根本原因
PRESIDENT





■『日本人はなぜ自虐的になったのか―占領とWGIP―』






■米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書
産経新聞





■『WGIP日本人を狂わせた洗脳工作-今なお はびこるGHQの罠』

https://a.r10.to/hgdtzi




■『姿なき占領 アメリカの「対日洗脳工作」が完了する日』




■『GHQの日本洗脳 70年続いた「支配システム」の呪縛から日本を解放せよ!』





■『アメリカに使い捨てられる日本』






■『だまされ続ける日本人』





■『占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間』

https://a.r10.to/huFbep






■WGIPと「歴史戦」

https://a.r10.to/hUKqpS





■「GHQの日本人洗脳計画」の真実





■「日本を解体する」戦争プロパガンダ






■『日本洗脳計画 戦後70年開封GHQ』





■日本人はなぜ自虐的になったのか―占領とWGIP―

https://a.r10.to/hyHZON





■日本人を狂わせた洗脳工作 
いまなお続く占領軍の心理作戦

https://a.r10.to/hgcnaU





■実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」





■『南京大虐殺』物語は、米国のプロパガンダ。原爆・大空襲を正当化する為









■白人支配からの解放――「大東亜共栄圏」という理念





■【大東亜戦争に対する世界の評価~欧米支配からの解放をもたらした日本の功績~】





■戦争で日本が果たした役割とは?数百年続いた植民地支配をなぜ崩壊できたのか?





■戦争目的~植民地支配からアジアを解放する為





■大東亜戦争は「侵略戦争」だったのか 「米軍に惨敗」「アジアを植民地支配」の〝定説〟を検証 歴史を正し、誇りを未来に伝える義務
zakzak 2023.12/5




■日本とアジアの大東亜戦争
侵略の世界史を変えた大東亜戦争の真実
吉本 貞昭 著 2013.09.26 発行 ハート出版
15世紀から500年も続いた、西欧列強による植民地支配。この、白人による植民地支配に
従わない国が、極東にひとつだけあった。それが、わたしたちの祖国、日本である──。




■大東亜戦争は日本が勝った 英国人ジャーナリストヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」
・世界に冠たる日本の歴史
・侵略され侵略するイギリスの歴史
・白人キリスト教徒による太平洋侵略
・アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
著者:ヘンリー・スコット・ストークス, 藤田裕行
発売日:2017年04月

https://a.r10.to/hMIn0j




■悪いのは侵略した白人、東亜民族解放した日本は誇りを
産経新聞




■日本は白人支配からアジアを解放した
産経新聞




■「大東亜戦争」と呼ぼう
産経新聞




■【ヘンリー・ストークス】人類史に輝く日本の偉業【WiLL増刊号#373】2020/12/26
WiLL増刊号




■片手に十字架、片手に鉄砲 侵略と虐殺繰り返した西欧白人国家
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)





■先住民追い出し太平洋に出た米国 「明白な運命」と略奪正当化
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)




■日露戦争機に対日戦を想定した米国 日本人移民排斥の動き激化
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)




■満州を狙い嫌がらせした米国 支那事変拡大の影にコミンテルン
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)




■日本を追い込んだルーズベルト 背景に人種偏見とソ連のスパイ
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)




■「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)




■最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺
産経新聞 2016/12/4『日米戦争どっちが悪い』(渡辺浩:東京大学名誉教授、法政大学名誉教授)


いいなと思ったら応援しよう!