備忘録:18世紀*フレンチ・インディアン戦争とアカディア人の強制移住
アメリカ独立戦争の原因は、「七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)」(1754年 - 1763年)によって莫大な戦費を使ってしまったイギリスが、「しまった。お金無くなったわ。せや、植民地に税金増やしたらいいやんか」とアコギなことを思いついたせいでした。
フレンチ・インディアン戦争(1754年 - 1763年)は、七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。
イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。
そもそも七年戦争は、ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失った土地を奪回しようとしたことが直接の原因で、英仏間の植民地競争が加わり大戦争を繰り広げた「第2次百年戦争」 (1689年 - 1815年)の一環でした。

1571年にスペインはオスマン帝国の海軍を撃破し(レパントの海戦)、1580年にはポルトガルを併合してスペイン帝国(スペイン・ハプスブルク)を築いたフェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)の統治時代、八十年戦争やフランス・スペイン戦争(西仏戦争)に敗れてヨーロッパの覇権を失ったことが背景にあります。
「太陽の沈まぬ国」と称されたスペインはネーデルラント(オランダ)独立や宿敵ブルボン家を擁するフランス、イギリスなどの台頭もあって衰退していきました。現在のスペインは、ブルボン家の子孫が王位に就いています。

北米大陸の最初の植民地
スペインは、1565年から1763年までと1784年から1821年までの2つの期間に亘ってスペイン領フロリダを領有していました。
イギリスは1600年に東インド会社を設立しアジア貿易に乗り出し、北米大陸には1607年バージニア会社によってバージニア植民地が建設されました。
フランスは1604年にフランス東インド会社を設立し、1608年にはケベック市が建設されてカナダ植民(ヌーベル・フランス)の拠点が作られました。
オランダは1602年にオランダ東インド会社を設立して、ジャワ、スマトラ、モルッカを植民地とし香料貿易をさかんに行っていました。
1620年にはオランダ西インド会社も設立し、北米とアフリカ大陸に勢力を拡大しました。
オランダ植民地ニューネーデルランド
オランダ人アドリアン・ブロックは、1590年代には既に貿易商を始めており、北ヨーロッパで積んだ木材をスペインに運んでいました。

1609年にヘンリー・ハドソンがハドソン川流域を探検し、先住民から良質のビーバーの生皮を交易できる可能性があると報告したことを知ったブロックは、1611年から1614年に現在のニュージャージー州からマサチューセッツ州間の海岸や河川流域を探検しました。
スターテン・ヘネラール(オランダ議会)は、新しい国、港および経路を発見した者に、3年以内に4回の航海を行い、帰国後14日以内に詳細報告書を提出すれば排他的特許を与えるという声明を発布しました。
ブロックはその航海の地図を作り、イギリス領バージニアとフランス領カナダの間の地域に「ニューネーデルラント」という地名をあてました。
1614年10月11日、ブロックを含む12人の商人によってニューネーデルランド会社が設立され、北緯40度線と45度線の間で3年間の排他的権益を認められました。
オランダ西インド会社の設立交渉が進んでいたため、ブロックの会社の特許状は更新されませんでしたが、1621年にオランダ西インド会社が設立されるまで、貿易の大部分はニューネーデルランド会社によって行われました。
後身のオランダ西インド会社(毛皮交易)の創設者の多くはユダヤ人だったと言われています。
1624年5月、最初の入植者30家族が到着 。翌1625年にマンハッタン島にアムステルダム砦(後のニューヨーク市の始まり)を作りました。
1655年、ニューアムステルダムにアシュケナジム(東欧系ユダヤ人)とセファルディム(スペイン系ユダヤ人)の定着が公式に認められ、奴隷貿易によるオランダ人(ユダヤ人)財閥が形成されて行きました。
アドリアン・ブロックは現在のロード島に、その赤い大地の色から「ロードアイラント」(オランダ語のロードRoodeの意味は「赤」)と名付けた最初の人物といわれています。近くにあるブロック島は彼にちなんで名づけられています。

ニューヨークの神殿化について以下の記事(有料)に書いていますので、よかったらこちらもご覧ください。
フレンチ・インディアン戦争
フレンチ・インディアン戦争は、イギリスがフランスの北アメリカ植民地ヌーベルフランスを攻撃した事で始まりました。
戦場は主にヌーベルフランスと、バージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われました。


1689年から1697年にかけて行われたウィリアム王戦争では、ヨーロッパで起きていた大同盟戦争ため、両国とも植民地に遠征軍を派遣する余裕が無く、植民地はそれぞれが独自の兵力で戦いました。
今回はイギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも本国からの援助を得て戦闘が行われました。
北部地域のインディアンたちも駆り出されました。
スペインは第三次家族協約(1761年パリ条約)に従いフランス側で参戦しましたが、オランダは中立を保ちました。

1754年5月28日、バージニア民兵隊の指揮官だったジョージ・ワシントン率いるバージニア植民地軍が、ペンシルベニア州ユニオンタウンの近くでヌーベルフランスの民兵を待ち伏せした奇襲攻撃(ジュモンヴィルグレンの紛争)が最初の戦闘と言われています。

戦争の背景
1750年頃、オハイオ渓谷上流域(オハイオ・カントリー)の支配をめぐってイギリスとフランスの紛争が激化していました。
17世紀、オハイオ領土の北の領域はアルゴンキン語族のショーニー族によって支配されていた。1660年頃、ビーバー戦争でイロコイ族がオハイオ領土を支配してショーニー族を追い出し、その後、オハイオ郡には何十年もほとんど定住者のいない状況が続き、主にイロコイ族の猟場として使われていた。
1720年代に多くのインディアン種族がオハイオ領土内に移住してくるようになりました。
デラウェア族は、ペンシルベニアの東部でヨーロッパ人の開拓地が拡がるにつれて追い出されるように移住して来ました。
ビーバー戦争でイロコイ族に土地を奪われたショーニー族も戻り始め、イロコイ族もオンタリオ湖の南でフランスとイギリスが対立する中で追い出され、オハイオ領土に移住してきました。
ヌーベルフランスは、長年築いてきた交易網を利用して、アベナキ同盟の部族を味方につけました。

イギリスはイロコイ連邦を味方に引き入れたほか、カタウバ族とチェロキー族も加わりましたが、イギリス人入植者とチェロキー族の間でアングロ・チェロキー戦争(1758–1761年)が起こりました。
アングロ・チェロキー戦争の背景には、カロライナ植民地で起きたヤマシ―戦争(1715ー1517年)でのチェロキー族の去就に対して、イギリス側が不信感を持っていたことが窺えます。
1711年から1715年のタスカローラ戦争では、チェロキー族はカロライナ植民地側で戦っていました。ヤマシ―戦争では、チェロキー族は最初は先住民族側で戦っていましたが、途中でカロライナ植民地側に寝返り、イギリスの勝利に繋げていました。
(↓ヤマシー戦争について、以下の記事に少し書きました)
アングロ・チェロキー戦争は、バージニア民兵がチェロキー族による馬の盗難疑惑に対する報復攻撃を行なったことで勃発し、報復合戦が1761年まで続きました。
1758年の10月、ペンシルベニア植民地とニュージャージー植民地の総督、イロコイ族を含む13のインディアン部族の代表者との間でイーストン条約が締結されました。
この協定では、オハイオ渓谷の部族は今後フランス側でイギリスと戦わないと規定され、その代わりにイギリスはアレゲニー山脈(アパラチア)の西側に入植地を建設しないと約束しました。
この条約は、1763年に出された勅令の根拠となりました。
(イギリス人入植者は約束を守りませんでしたが)

アベナキ同盟とフランスの同盟関係の強さ
察するに、フランスは先住民とはかなりうまくやっていました。
五大湖地域の部族(オタワ族、オジブウェ族、ポタワトミ族、ウェンダット族(ヒューロン族)は、長年フランス系住民と同盟を結び、交易を行い、共に生活し、結婚もしていました。
毛皮貿易は、政治的利点も重要になった。貿易は異なる文化の間で提携を固め、良い関係を維持する方法だった。
北アメリカに赴く毛皮貿易業者は通常、社会的地位のある若い独身男性であり、結婚を外交的結びつきの手段として使い、先住民族との結婚、姻戚関係はよくある話だった。
インディアンの慣習に従い、フランス人は村長に贈り物(銃、ナイフ、タバコ、衣類など)を欠かさず、村長はそれを部落の人々に分配していました。これにより村長は部落民に尊敬され、先住民たちは西洋人に良い印象を維持していたのです。
(反対にイギリスは贈答を良しとせず削減しました)
フランス軍に参加するために、ミシシッピ川の向こうからやって来たインディアンもいたとか。
イギリス人入植者の数はフランス人の20倍とも言われており、その数の多さも先住民を不安にさせていました。
イギリスの入植地は、北はノバスコシア州(1713年に占領)とニューファンドランド植民地から南のジョージア州まで大西洋岸に沿って広がっていました。
イギリスはまた、ハドソン湾会社(1670年設立)が地元のインディアン部族と毛皮を取引していたルパートズランドの領有も主張しました。

アカディア植民地とル・ルートル神父の戦争
1710年にイギリス軍がフランスのアカディア植民地の首都ポートロイヤルを占領し(ポートロワイヤルの戦い )、アカディアの人々は今までとは異なる立場に置かれました。
イギリスは何度もイギリス国王への忠誠を要求したが、アカディア人はイギリスへの忠誠を拒否し中立を宣言しました。
何百人ものアカディア人がノバスコシアの半島を去り、多くは大規模なフランスの入植地を避けてサンジャン島(現プリンスエドワード島)に向かったと言われています。

ヨーロッパでオーストリア王位継承戦(1740年 - 1748年)が起こり、イギリスは1742年にオーストリア側で参戦。北米の植民地ではキングジョージ戦争(1744-1748年)に発展しました。
ルイブールの戦い (1758年)
1745年6月、英領ニューイングランドの対カナダ遠征軍が、セントローレンス湾の入り口にあったフランスの強固な要塞ルイズバーグ(フランス語読みはルイブール)を6週間の包囲の後に陥落しました。

ルイブールのフランスの駐屯部隊はわずか3,000人でしたが、1758年早春に、やがて来るだろうイギリスの攻撃に備えるため5隻の軍艦が来航し、海兵隊が3500人追加されました。
5月下旬、イギリス艦隊(輸送船150、軍艦40、総勢26000人)がノバスコシアのハリファクスからルイブールに到着し、湾の沖合に停泊しました。
イギリス軍は悪天候のため上陸を見合わせていましたが6月12日に占領を始め、イギリスの激しい砲撃にさらされルイブール要塞は完全に破壊されました。7月26日ついにフランスは降伏。
ルイブールの陥落は、フレンチ・インディアン戦争の中でも大きな意味を持つものでした。セントローレンス川への航路を確保したイギリスは、翌1759年ケベックシティに侵攻し、エイブラハム平原の戦いで勝利しました。

かつてルイブールは、タラ漁で賑わう平和な港町でした。
ヨーロッパの漁師たちが、ヨーロッパに持ち帰るために獲った魚を乾かしに来ていたそうです。
ユトレヒト条約締結(スペイン継承戦争)後、イギリスにアカディアの一部(ノバスコシア半島)とニューファンドランド島の支配権が渡り、フランスはイル・ロワイヤル(現在のケープ・ブレトン島)、イル・サン・ジャン(現在のプリンスエドワード島)およびヌーヴェルフランスの支配は維持しました。
その後、セントローレンス湾の入り口を守るための大規模な海軍基地を建設する場所としてルイブールが選ばれました。
建設は1721年に着工し、10年以上を費やして1740年にようやく完成。町並みは石造りの建物が増え、商業も盛んになりました。
ミクマク族は毛皮交易のために、近隣のアカディア人は農産物の販売のためにこの地へやって来ました。
また、当時北米の英語圏とフランス語圏の住民の間には文化的・政治的な懸念があったにもかかわらず、マルティニーク島(西インド諸島)の船員やボストン市民もこの地を訪れました。
ルイブールは、破壊から8年後にルイスバーグという英語の名前で復活しました。数十年廃墟のままだった要塞は、1960年代から地域の観光開発のために修復されました。

【ル・ルートル神父の戦争】
「ル・ルートル神父の戦争」(1749–1755)は、アングロ・ミクマク戦争としても知られ、フレンチ・インディアン戦争の間に起こりました。
抵抗運動のリーダー、ル・ルートル神父の名をとっています。
イギリスがアカディアにプロテスタントを定住させようとしたため、アカディアの人々とカトリックのミクマク族の反乱が起きました。
ミクマク族とアカディア人は、結婚を通じて同盟関係にありました。
1722年 – 1725年のダマーズ・ウォー(ラル神父戦争)でも、ミクマク族を含むアベナキ同盟とアカディア人は協力して、イギリス植民地軍と戦いました。

ミクマク族は、1610年6月24日(洗礼者聖ヨハネの日)に大酋長メンテトゥがイエズス会の司祭から洗礼を受け、メンテトゥの近親者21人全員に洗礼を受け、クリスチャンになりました。
メンテトゥは、フランスの国王アンリ4世にちなんでアンリという洗礼名を与えられました。
メンテトゥは、1534年にジャック・カルティエが初めて会ったミニマク族のひとりでした。
ジャン・ルイ・ル・ルートル神父は、1738年にフランス本国から宣教師として派遣されましたが、アカディアをフランスに取り戻すための組織を作る目的がありました。
イギリス総督エドワード・コーンウォリスは、ルートル神父を捕らえるために50ポンドの賞金を提示し、ミクマク族の捕獲または頭皮剥ぎに報奨金を提供する布告を発令しました。
危険を感じたルートル神父は、アルカディアの人々をニューブランズウィック州とサンジャン島(プリンスエドワード島)に逃れさせた後、自分もケベック州に逃げフランスに帰国しました。
ルートル神父が乗った船は1755年9月にイギリス軍に拿捕され、彼はフレンチ・インディアン戦争終結までジャージー島の刑務所に8年間拘留されました。その後、帰国し、1772年9月にナントで亡くなりました。
アカディア人の追放(強制移住)

アカディア人の強制移住は、1755年から1764年にかけて起きました。
フレンチ・インディアン戦争で中立を守った人々と武器を取った人々を区別することなく、イギリス総督チャールズ・ローレンスとノバスコシア評議会はすべてのアカディア人を追放するよう命じました。
推定14,100人のアカディア人のうち約11,500人が強制送還され、そのうち5,000人が病気、飢餓、難破で亡くなったそうです。
1758年以前(追放の第一波)は、アカディア人は13植民地に追放され、その後、イギリスかフランスのいずれかに移送されました(追放の第2波)。
ルイブール要塞の陥落後、ロワイヤル島(現在のブレトン岬島)とサンジャン島(プリンスエドワード島)の2つの島の住民も、勝利したイギリス人によって国外追放されました。

植民地化されていないアカディア北部、サンジャン島(プリンスエドワード島)、ロワイヤル島(ブレトン岬島)などのフランス語圏の植民地に逃れた人々もいました。
イギリスとフランスに強制送還された人々のかなりの数が、アメリカに戻ったときにルイジアナ州に移住し、最終的に「ケイジャン人」になりました。


アカディア人の土地は、主にニューイングランドとスコットランドからの英国に忠実な入植者(約8万人)に与えられました。
アメリカ独立戦争後のアメリカ合衆国の政治家たちが、インディアンの強制移住「涙の道」をあっさりと推し進めたことにも通じる気がしました。
この出来事は、現在は「人道に対する罪(民族浄化に相当する)」とみなされていますが、背景には同時期にスコットランドで起きたジャコバイト蜂起(フランスが支援した)が影響したのではないかと歴史家は見ています。
つまり、カトリックのアカディア人が再び反乱を起こす前に排除しようとしたんですね。
17世紀のイギリス人の病的なカトリック恐怖症・・・たとえばポピッシュ陰謀事件(カトリック陰謀事件)は理解しがたい部分があります。
そして植民地へのプロテスタント移民によって、アメリカにそれは受け継がれていきました。
キリスト教徒同士を戦わせたい誰かのシナリオがあるのでしょうね。(わかる人はわかるよね)

フランスの損失とイギリスの獲得
ウィリアム・ヘンリー砦の戦い
フレンチ・インディアン戦争の最初の数年間、イギリスは連敗していました。
1757年8月のウィリアム・ヘンリー砦の戦いは、フランス側の三分の一の兵力で戦ったイギリス軍兵士2500人のうち、死傷者130人、捕囚2300人余と報告されました。
降伏の条件に関してイギリス軍は、フランス軍の警護によりに司令部のあるエドワード砦まで撤退すること、1年半の間戦闘に加わらないことを条件として受け入れました。
しかしイギリス軍の降伏後に、インディアンがケガや病気で動けなくなっていたイギリス兵を虐殺した事件も起き、撤退する途中もインディアンの攻撃に遭い、兵士のほか女性や子供が連れ去られ、そのうちの何人かは殺されて頭皮を剥がれたと言われています。

最終的にインディアンに捕えられたり、モントリオールに送られた多くの捕虜は、交渉による捕虜交換を通じて本国に送還され、民兵は植民地に戻りました。
子どもの頃に、映画の西部劇で(タイトルは忘れました)インディアンが白人の居住地(砦)を襲って、頭の皮をはぐなどの残虐行為の末、集落を焼き払うストーリーを観たことがありますが、そのような虐殺のパターンは確かにあったが、原作者による誇張も多かったそうです。
デュケーヌ砦の戦い
戦争が進行するにつれて、イギリスが優勢に立ちました。
風向きが変わったのは、大ピットと呼ばれるウィリアム・ピットが軍事作戦を仕切ることになったからかもしれません。

ウィリアム・ピットは、1757年から1761年にかけて南部担当国務大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。その後首相も務めたが、首相在任時には大きな業績はなかった。
デュケーヌ砦の戦いでは6,000人の兵とジョージ・ワシントンを含めたバージニア民兵2000人の部隊が加わり、フランスのデュケーヌ砦を攻撃しました。
フランスは最初のイギリスの攻撃こそ撃退しましたが、10倍の人数のイギリス軍相手には砦を守れないことを理解し、夜中に砦に火を放ち撤退しました。
イギリス軍はデュケーヌ砦を再建し、その名前をウィリアム・ピットにちなんでピット砦に改名しました。これが現在のピッツバーグになりました。
元々のデュケーヌという名は、ヌーベルフランスの総督にちなんでいました。

1759年、イギリス軍はすべての戦場で快進撃を続けました。
フランスはイギリス本土進攻に焦点を合わせることを決定しましたが、この目論見は失敗に終わりました。
フランスの北米植民地の終わり
1760年4月、イギリス軍はケベックシティで行われたサントフォワの戦いで負けたにもかかわらず、レスティガッチの海戦でフランスの救援部隊の上陸を阻止することができました。
一方で陸軍は、ケベック、シャンプラン湖、そしてセントローレンス川上流の三方向からモントリオールへと進軍しました。

こうして北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げたのでした。
一方でヨーロッパでの戦闘はまだ続いており、北アメリカのイギリス軍の多くが西インド諸島で続いていた作戦のために配置しなおされたそうです。
フレンチ・インディアン戦争は、1763年2月のパリ条約署名で正式に終了し、ヨーロッパを舞台にした七年戦争もフベルトゥスブルク条約で終結しました。
イギリスはヌーベルフランスの大半、スペイン領フロリダなどを獲得しました。

フォンテーヌブロー条約でスペインが獲得した領土(黄色)
戦争終結後まもなく、イギリスの支配に不満を抱いたインディアン連合との凄絶な戦いが始まりますが、長くなりましたので次回に譲ります。
フレンチ・インディアン戦争の逸話


最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。
