小説「朝になるまで」 第四章
第四章 誤配された鏡像
島は、緩やかなすり鉢状の構造をしていたらしい。
三人の男女は、それぞれの海岸線から背後の森へと足を踏み入れ、無意識のうちに標高の低い中央部へと導かれていた。
鬱蒼とした樹木は、進むにつれてその密度を減らし、代わりに背の低いシダ植物や苔が地面を覆うようになる。風の通り道が変わった。潮の香りは遠ざかり、湿った土と、古い紙のような匂いが漂い始める。
空の色は相変わらず曖昧な灰色だったが、頭上の雲は渦を巻くように一点を目指して流れていた。
真鍋 恒一、相沢 一美、古賀 一。
三人は、示し合わせたわけでもなく、島の中央にある開けた空間へと辿り着いた。
そこは、奇妙な広場だった。
円形劇場のようになだらかに窪んだ地形の中心に、何もない空き地がある。草一本生えていない、踏み固められた白い土の地面。
恒一は、森の切れ目からその広場に出たとき、まず自分の目を疑った。
自分以外の人間がいる。
それも、途方に暮れた表情をした男女が二人。
一人は、泥と絵の具で汚れたブラウスを着た女性——相沢 一美。
もう一人は、疲労困憊して肩を落とした長身の男——古賀 一。
そして、それぞれの背後には、あの奇妙な人間が影のように付き従っていた。
三人の視線が交差する。
言葉はなかった。この非現実的な状況下において、挨拶や自己紹介といった日常の儀礼は意味をなさなかった。
彼らは直感的に、互いが「同類」であることを悟った。同じテストを受け、同じく後悔を抱き、この島へ招かれた遭難者たち。
恒一の背後には、荷物が軽くなったはずなのに動こうとしない〈背の曲がった男〉がいる。
一美の隣には、黒く塗りつぶされたキャンバスを抱えて泣き濡れる〈絵を描く女〉がいる。
一の足元には、額を地面に擦り付けて謝罪を繰り返す〈首の曲がった男〉がいる。
三人と、三体。
奇妙な六つの影が、白い広場に落ちていた。
沈黙を破ったのは、一美の連れていた〈絵を描く女〉のすすり泣く声だった。
「……描けない。完成しない」
その声に反応するように、恒一の眉がピクリと動いた。
彼は自分の背後にいる、安住してしまった〈背の曲がった男〉への苛立ちを抱えたまま、広場の中央へと歩み寄った。
一美と一もまた、引力に惹かれるように距離を詰める。
互いの距離が数メートルになったとき、彼らの視線は自然と、自分ではない誰かの連れている「それ」へと吸い寄せられた。
そして、その瞬間に空気が凍りついた。
理解の衝撃が、三人の脳髄を同時に貫いたからだ。
恒一は、一美の隣にいる〈絵を描く女〉を見て、息を呑んだ。
一美は、一の足元にいる〈首の曲がった男〉を見て、唇を震わせた。
一は、恒一の背後にいる〈背の曲がった男〉を見て、目を見開いた。
ズレていたのだ。
最初から、何もかもが。
恒一の視界の中で、世界が急速に焦点を結び直していく。
彼はこれまで、自分の後悔を「諦めた荷物が重すぎて進めなくなったこと」だと定義していた。だからこそ、荷物を整理し、軽くすることで解決しようとした。
だが、目の前の〈絵を描く女〉を見た瞬間、強烈な既視感が彼を襲った。
描きかけで放置されたキャンバス。
才能の枯渇を恐れて、あるいは批評されることへの恐怖から、完成させることを放棄した姿。
それは、若き日の恒一そのものだった。
彼が本当に悔やんでいたのは、過去の重荷ではない。
『続けなかったこと』だ。
中途半端な状態で筆を折り、夢を畳み、可能性を自ら摘み取ったこと。その「未完了」の亡霊こそが、彼の真の後悔だったのだ。
——私が向き合うべきだったのは、あの荷物持ちじゃない。
恒一は戦慄した。彼は自分自身の問題ではないものを、必死に「整理」しようとしていたのだ。
解決が得意だからといって、本質的な欠落が埋まるわけがない。彼に必要なのは整理ではなく、「再開」だったはずなのだから。
同じ戦慄が、一美の胸中にも走っていた。
彼女は、〈首の曲がった男〉から目を離せなかった。
一が連れてきたその男は、地面に頭を擦り付け、ひたすらに「すまない」と繰り返している。
その姿は、あまりにも醜悪で、そして痛々しいほどに馴染み深かった。
一美はこれまで、自分の後悔を「言いたいことを形にできなかったこと」だと思い込んでいた。だからキャンバスに向かい、声を張り上げ、主張しようとした。
けれど、違う。
彼女の喉の奥に常に張り付いている苦味の正体は、意思表示の不足ではない。
『謝りすぎたこと』だ。
自分の意見を殺し、場を収めるために反射的に頭を下げる。私が悪いわけではないのに、関係を維持するために謝罪を軽率にカードとして切る。
そうやって自分自身を安売りし、削り続けてきた日々の集積。
目の前の男は、まさにその成れの果てだ。
常に誰かの機嫌を窺い、地面ばかりを見て、自分の尊厳を泥にまみれさせている。
——あれが、私だ。
一美は吐き気を覚えた。彼女がキャンバスに向かって叫んでいたとき、心の中でずっと違和感があったのは当然だ。彼女の本質的な傷は「作品ができないこと」ではなく、「自分が自分であることを謝罪し続けていること」にあったのだから。
そして、一もまた、真実の重みに圧倒されていた。
彼が見つめる先には、恒一が連れてきた〈背の曲がった男〉がいた。
巨大な麻袋を背負い、その重さに耐えかねている男。袋の中身は「過去の記憶」だ。
一はこれまで、謝罪する男に対して「顔を上げろ」と強要し、許そうとしない自分を責めていた。
だが、その認識は歪んでいた。
彼が本当に苦しんでいるのは、許さないことへの罪悪感ではない。
「忘れられなかったこと」そのものだ。
何十年も前の些細な出来事、裏切り、悲しみを、鮮度を保ったまま保存し続けている異常な記憶力。忘却という救いを受け入れず、すべてのデータを背負い込んで歩こうとする執着。
あの麻袋を背負っている男こそが、一の魂の形だった。
——私は、あんなものを背負っていたのか。
謝罪する男の頭を押さえつけていたのは、一自身の手だった。顔を上げろと懇願していたはずだったのに、あの男の頭に自分の荷物をさらに重ねていた。〈背の曲がった男〉は過去を降ろすことも、捨てることもできず、ただ溜め込んでいる。
あれは、私だ。あの収集癖のある男こそが、私の後悔だ。
三人は、立ち尽くしたまま動けなかった。
彼らは自分の得意な解決方法
恒一なら整理、一美なら同調、一なら固執——を行いやすい相手を、無意識に「自分の後悔だ」と誤認し、選んでしまっていたのだ。
正しい問題意識を持ちながら、間違った対象に解法をぶつけていた。だから、どれだけ救おうとしても徒労に終わる。空回りする。
パズルのピースが、音を立てて嵌っていく。
しかし、嵌ったからといって、絵柄が美しくなるわけではなかった。むしろ、突きつけられた現実は残酷だった。
広場の風が止んだ。
静寂の中で、三人はゆっくりと動き出した。
もはや言葉による確認は不要だった。彼らは磁石の極が反転したかのように、これまで連れ添ってきたパートナーから離れ、自分の「本当の後悔」へと歩み寄っていった。
恒一は、〈絵を描く女〉の前に立った。
彼女はまだ泣いている。「完成しない」と嘆いている。
以前の彼なら、キャンバスを取り上げて効率的な描き方を指導したかもしれない。あるいは、完成しないなら捨ててしまえと諭したかもしれない。
だが、今は違う。
彼は静かに、地面に落ちていた筆を拾い上げた。
穂先は乾き、割れている。
「完成させなくていい」
恒一は呟いた。誰に聞かせるでもなく、自分自身に言い聞かせるように。
「ただ、止めなければいいんだ」
彼は筆を彼女に手渡そうとはしなかった。代わりに、彼女が空虚に握りしめているその小さな手に、自分の手を重ねた。
冷たい手だった。
恒一は、彼女の手を導くようにして、黒く塗りつぶされたキャンバスに触れた。
綺麗な線など引けない。既に台無しになった絵だ。
それでも、彼は手を動かした。
ただ、線を引く。意味のない直線を一本。
かつて彼が恐れて逃げ出した、「終わりのない継続」へのささやかな抵抗。
彼女の泣き声が止まった。恒一の目には、キャンバスの黒さが、未だ可能性を孕んだ闇のように映り始めていた。
一美は、〈首の曲がった男〉の前にしゃがみ込んだ。
男は彼女の気配に気づくと、条件反射のように額を地面にこすりつけ、詫びの言葉を口にしようとした。
「すまな……」
「やめて」
一美の声は鋭かった。かつてないほど、明確な拒絶の響きを持っていた。
彼女は男の肩を掴まなかった。無理やり顔を上げさせようともしなかった。
ただ、男の視線の先に自分の足を置いた。
男が地面を見れば、そこには一美がいる。
「もう謝らなくていい。誰もあなたを責めていない」
それは彼女が、一番言って欲しかった言葉だった。
そして、彼女自身が、自分に対して使うことを許してこなかった言葉でもあった。
男が怯えたように上目遣いで一美を見る。
一美はその視線を真っ直ぐに受け止めた。微笑まない。同意しない。ただ、そこに存在する。
謝罪という防具を捨てて、裸の私でここに立つ。
彼女の胸の内で、長年積み重なった「ごめんなさい」という言葉の層が、パラパラと剥がれ落ちていく音がした。男の背中が、ほんの数ミリだけ伸びた気がした。
一は、〈背の曲がった男〉と対峙していた。
男は広場の端で、整理されたはずの荷物を再び袋に詰め込み直していた。せっかく恒一が分類したのに、彼は不安そうに全てを元に戻そうとしている。
捨てられないのだ。どんなにくだらないガラクタでも、それが自分の過去である限り。
一はその様を、哀れみではなく、共感を持って見下ろした。
分かる、と彼は思った。
捨ててしまえば楽になる。そんなことは百も承知だ。だが、捨てられないからこそ、私は私なのだ。
一は男の隣に歩み寄った。
手を貸して荷造りを手伝うわけではない。かといって、奪い取って捨てるわけでもない。
彼は、男が背負おうとしている袋の、反対側の端を掴んだ。
ずっしりとした重みが腕にかかる。
男が驚いて一を見る。
「……重いだろう」
一は低く言った。
「一人で持つには、少し重すぎる」
忘れることはできない。許すことも、おそらくできない。
ならば、その重さを自覚して歩くしかない。
他人に「顔を上げろ」と強要するのではなく、自分がこの重い袋を背負い、地を這ってでも進む覚悟を決めること。
男の表情から悲壮感が消え、代わりに奇妙な連帯感が生まれた。二人は無言のまま、膨大な過去の重量を分かち合った。
広場の中央で、三つのペアが静かに佇んでいた。
解決したわけではない。
恒一の絵は完成しない。一美の男は直立しない。一の荷物は消えない。
ただ、「ズレ」が修正されただけだ。
正しい鍵穴に、正しい鍵が差し込まれた。回すことはできないかもしれない。扉は開かないかもしれない。だが、少なくとも、彼らは自分の鍵穴を見つけたのだ。
ふと、空が明るくなった気がした。
見上げると、渦巻いていた雲が切れ、薄日が差し込んでいた。
光は、彼らの影を長く伸ばした。
その影は、もはや六つではなかった。
この島での時間は終わる。
後悔は消えない。
あの心理テストが投げかけた「問い」は、結局のところ、彼ら自身そのものだった。
持っていくのではない。
彼らがそこにある限り、後悔もまた、そこにあり続けるのだ。
視界が白く滲み始める。
夢から覚める前兆のような、浮遊感が彼らを包み込んだ。
互いに言葉を交わすことは最後までなかった。
けれど、消えゆく意識の中で、彼らは確かに感じていた。
隣にいる誰かもまた、どうしようもない荷物を抱えて、それぞれの日常へと戻っていくのだという、微かな安堵を。
世界が光に溶けていく。
無人島は、その役割を終えて、彼らの内面の海へと沈んでいった。
投稿日:2026/01/15
筆者:棚島 香帆汰(プロフィール、
映画好き、小説も書いてます)
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