小説「朝になるまで」 第二章
第二章 輪郭のない絶叫 (相沢 一美)
カフェラテの泡が、カップの縁で小さく潰れていく。
「だからさ、一美はどう思う?」
向かいに座る同僚の男が、同意を求める目つきで私を見ていた。テーブルの上には、彼が提案しようとしている企画書のドラフトが広げられている。
「そうね……」
私は一拍、呼吸を置いた。
喉元まで出かかった言葉がある。
『そのターゲット設定だと、予算と噛み合わないんじゃないかな』
けれど、その言葉が音になる前に、私の脳内が高速で処理を実行する。彼のプライド、今の場の空気、否定したあとに続くであろう面倒な議論のコスト。
「どうかな?」男が焦れたように聞いてくる。
その声を聴いて瞬時に算出された最適解が、私の唇を動かした。
「ううん、ごめんなさい……いいんじゃないかな。斬新で、面白いと思う」
男の表情が緩む。
「だろ? やっぱり一美なら分かってくれると思ったよ」
私は曖昧に微笑み、温くなったラテを口に含んだ。甘ったるい液体が、飲み込んだ本音と一緒に食道へ落ちていく。
いつもこうだ。私は角を立てない。波風を立てない。誰かの機嫌を損ねるくらいなら、自分の形を変えて隙間に収まることを選ぶ。それは処世術というより、もはや条件反射に近かった。
その夜、湯船に浸かりながらスマホを眺めていると、タイムラインに見慣れない広告が流れてきた。
『無人島に概念を一つ持っていくなら、あなたは何を選びますか?』
心理テストだろうか。普段ならスルーする類のものだが、今の私は、自分以外の何かに決定権を委ねたい気分だった。
指先が画面をタップする。
入力フォームが現れた。選択肢はない。自由記述だ。
私は濡れた指を拭い、少しだけ考えた。いや、考えるふりをしただけだ。答えはずっと前から、胸の奥で硬いしこりになって存在していた。
私は迷わず、ある種の願望を込めて、それを入力した。
送信ボタンを押す。
誰にも言えない、けれど私を構成するすべてと言ってもいい成分——の対局。それを吐き出したことで、少しだけ息がしやすくなった気がした。
画面が読み込み中のサークルを表示する。
その回転を見つめているうちに、浴室の湯気が濃くなり、視界が白く滲んでいった。意識が溶けるように遠のいていく。
*
目が覚めると、私は砂の上にいた。
足元には波が寄せている。見上げれば、曇天の空。
私は砂の付いた衣服——いつの間にかオフィスカジュアルのブラウスとスカートになっていた——を気にするでもなく、立ち上がった。髪も濡れていなかった。
驚きはなかった。
ここは、私の場所だ。
誰に気兼ねする必要もない、あのテストの答えが、私をここへ連れてきたのだ。
「静かね……」
呟いた自分の声が、吸い込まれるように消える。
誰の同意も要らない。誰の顔色も窺わなくていい。
私はスカートの砂を雑に払い、歩き出した。
目的地の心当たりはないけれど、足は勝手に動いた。砂浜はどこまでも続いている。
しばらく歩くと、波打ち際に人影が見えた。
膝を抱えて座り込んでいる。
近づくにつれ、その姿が鮮明になる。女性のようだった。髪は乱れ、服には絵の具のような染みが無数についている。
彼女は何かを抱えていた。
大きなキャンバスだ。
私は彼女の背後に立ち、そのキャンバスを覗き込んだ。
そこには、何も描かれていなかった。いや、正確には「描こうとした痕跡」だけが無数に重なっていた。線は途切れ、色は混ざり合い、形を成す前に塗りつぶされている。
彼女は筆を握りしめ、震える手でキャンバスに向かっていたが、どうしてもその筆先を乗せることができないようだった。
「……描けないの?」
私が声をかけると、彼女は弾かれたように振り返った。
その瞳には、切迫した色が浮かんでいた。
「出せないの……」
彼女は掠れた声で言った。
「頭の中にはあるの。すごく鮮明な、綺麗な形が。でも、外に出そうとすると崩れてしまう。色が濁る。形が歪む。だから、いつまでも終わらない」
私は胸を衝かれた。
ああ、これは私だ。
私は確信した。彼女が抱えているその無様なキャンバスこそが、私の「叫び」の正体なのだと。
ずっと、形にできなかった思いがある。
言いたかった言葉、示したかった態度、貫きたかった意志。それらを私は常に飲み込み、あやふやな微笑みで塗りつぶしてきた。自分を誤魔化し、楽に謝って……。
だから、彼女は描けないのだ。私が出さなかったから。
「ごめんなさい、手伝うわ」
私は自然とそう言っていた。
彼女の隣に座り込む。
「私には分かる気がする。あなたが何を描きたいのか」
それは傲慢な思い込みかもしれない。けれど、彼女の苦しみは私の苦しみだ。
彼女は縋るように私を見て、筆を差し出した。
「お願い。ここにあるの。ここにつかえているものを、出して」
彼女は自分の胸元を押さえた。
私は筆を受け取った。
キャンバスの白さが、私を威圧する。
私は深呼吸をした。
思い出せ。あの時、言いたかったこと。あの会議で、あの食事会で、あの別れ話の時に、喉の奥で殺してしまった言葉たちを。その墓前で手を合わせるように。
私は筆を走らせた。
赤い絵の具。強くぶつける。
青い絵の具。そっと置くように。
私はキャンバスに線を引いた。
「そう! それよ!」
彼女が叫ぶ。
「もっと強く! もっとはっきりと!」
私は彼女の声に煽られるように、筆を動かし続けた。
完成させなければならない。この混沌とした感情の塊に、明確な輪郭を与えなければならない。それができれば私は救われる。
言えなかったことが「作品」として結実すれば、私のこれまでの忍耐も、無駄ではなかったと証明できるはずだ。
私は夢中で色を重ねた。
キャンバスの上で、色が踊る。
だが、手を動かせば動かすほど、何かが違うという感覚が指先から這い上がってくる。
色が混ざりすぎて、黒ずんでいく。
線が増えすぎて、形が崩壊していく。
「違う……こんなに汚い色じゃないはず」
私が呟くと、彼女も焦燥感を露わにした。
「もっと綺麗なの! もっと正しくて、誰もが納得するような、素晴らしいもののはずなの!」
彼女は私の手から筆を奪い取り、上から白を塗りたくった。
「やり直しよ。こんなのじゃ認められない」
彼女の目には涙が溜まっていた。
「完成させなきゃ。完璧な形にしなきゃ……」
その言葉が、私の胸を痛めつけた。
そうだ。完璧でなければならない。
私が意見を言わなかったのは、それが「正解」だと確信できなかったからだ。誰かを傷つけず、誰からも否定されない——そんな完璧な言葉なんて見つからなかったからだ。
だから、沈黙を選んだ。
でも、今ここで沈黙してはいけない。ここでは形にしなければならない。
「ごめんなさい。でも、もう一度やりましょう」
私は彼女の肩を抱いた。
「次はうまくいくわ。私がついてる」
私たちは再びキャンバスに向かった。
時間を忘れて、ただひたすらに「何か」を描こうとした。
空の雲行きが変わっても、私たちは止まらなかった。
私は叫ぶように筆を叩きつけた。彼女は祈るように絵の具を混ぜた。
けれど、出来上がるのは常に、得体の知れない泥のような色彩の塊だけだった。
どれだけ必死に手を動かしても、どれだけ声を張り上げても、それは美しい絵にはならなかった。ただのノイズ。ただの汚れ。
私は次第に、息が上がってきた。
「どうして……」
筆を落とす。
目の前には、黒く塗りつぶされたキャンバスがあるだけだ。
彼女はそれを抱きしめ、うずくまっている。
「まだだめなの。まだ、足りないの」
彼女は泣いていた。
「私が弱かったから。もっとちゃんとしなきゃ、完成しない」
私は彼女の背中をさすりながら、奇妙な虚脱感に襲われていた。
おかしい。私はこんなにも強く願っているのに。こんなにも「出したい」と思っているのに。
どうして形にならないのだろう。
私は自分の胸に手を当てた。
そこにあるしこりは、少しも小さくなっていなかった。むしろ、無理やり引き出そうとしたことで、以前よりも硬く、痛々しく凝り固まっているように感じられた。
私は彼女を見る。
未完成の作品を抱えて泣く彼女。
それは「言えなかった私」の成れの果てだ。
でも、何かが決定的に食い違っている気がした。
私は彼女に「描かせる」ことで解決しようとした。完成品を作れれば、それで精算できると思った。
けれど、本当に欲しかったのは「完成品」なのだろうか。
私はふと、昨日のカフェでのことを思い出した。
あの時、同僚の企画書に対して、本当に言いたかった言葉は何だったのか。
高尚な改善案でも、完璧な対案でもなかった気がする。
ただ、『私はそう思わない』と。たったそれだけの、震えるような一言だったのではないか。
目の前の彼女は、まだキャンバスの余白を探している。
「次はここ。ここに描けば、きっと」
その姿は痛々しく、そしてどこまでも空回りしていた。
私は彼女を止めるべきなのかもしれない。あるいは、もっと違う方法で彼女を慰めるべきなのかもしれない。
しかし、私にはその「違う方法」が分からなかった。
私たちには「完成させること」しか、救いの道が見えていなかったからだ。
「そうね。次はきっとうまくいく」
私は自分の本心に蓋をして、また彼女に同意した。
喉の奥で、苦いものがこみ上げてくる。
私はまた、合わせてしまった。
この場所でさえ、私は「正解」を探して、目の前の彼女の機嫌を損ねないように振る舞っている。
キャンバスの黒い染みが、私を嘲笑っているように見えた。
風が強くなり、波の音が荒くなる。
私たちは砂の上で、永遠に完成しない絵を描き続ける二人の幽霊のようだった。
投稿日:2026/01/13
筆者:棚島 香帆汰(プロフィール、
映画好き、小説も書いてます)
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