小説「朝になるまで」 終章
終章 持たざる者たちの携行品
アラームが鳴る一分前に、真鍋 恒一は目を覚ました。
天井の染みは、昨夜と変わらぬ位置にあった。薄暗い部屋の空気は冷たく、静止している。
彼は身体を起こし、シーツの皺をいつものように手で撫でて伸ばしかけたところで、ふと手を止めた。
皺はそのままにして、彼はベッドから降りた。
夢の記憶は、水に濡れた紙のようにふやけて曖昧だった。だが、掌に残る冷たい感触——誰かの手を上から握りしめ、強引に線を引いた時の、あの微かな抵抗感だけが、実感として焼き付いていた。
出勤までのルーチンは変わらない。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、ニュースを流し見る。
だが、着替えを済ませた後、彼はいつもなら鞄に放り込むタブレット端末の横に、一冊の古いノートを置いた。
それは学生時代、小説を書きかけては放り出し、設定資料だけで埋まったノートだった。本棚の「整理済み・保留」コーナーで埃を被っていた。
恒一は、ページをめくった。
未完成の断片。拙い文章。かつての彼が「才能のなさ」を直視したくなくて封印したもの。
以前の彼なら、見なかったことにしてもう一度棚に戻しただろう。
しかし、彼はボールペンを取り出した。
インクが出るかどうかも分からない。
彼は空白の行にペン先を落とした。
気の利いた再開の言葉も、伏線の回収も思いつかなかった。ただ、前の行に続く、ありふれた接続詞を一つ書いた。
「そして」
それだけだ。
物語は動き出さないかもしれない。また三日で止まるかもしれない。
それでも構わないと彼は思った。
片付けるために書くのではない。終わらせるために書くのでもない。ただ、この中途半端なノートが、今の自分の鞄に入っているという事実。その重さだけを感じていたかった。
彼はノートを鞄に押し込み、玄関のドアを開けた。
都市の朝の騒音が、彼を飲み込んだ。
*
ランチタイムのカフェは、硬質な反響音で満たされていた。
相沢 一美は、パスタをフォークで巻き取りながら、同僚たちの会話に耳を傾けていた。
「やっぱり、部長のあの言い方ないよね」
「そうそう、古いってゆーか、感覚がズレてる」
同意を求める視線が、一美に集まる。
いつもの光景だ。
一美の喉元まで、自動生成された相槌が出かかっていた。『本当にね』『大変だよね』『助け舟を出せなくてごめんね』
その言葉を吐き出せば、この場は円滑に回り、私は「分かってくれる一美ちゃん」として消費される。
彼女はフォークを皿に置いた。
カチャン、という小さな音が、彼女の中で何かのスイッチを入れた。
脳裏に、あの波打ち際の男の姿がよぎる。地面に額を擦り付け、謝罪し続ける男。あれは、私の抜け殻だ。
私はもう、あんなふうにはなれない。
一美はナプキンで口元を拭い、一度だけ深く息を吸った。
「……言い方はきつかったけど」
同僚たちの動きが止まった。
一美が「けど」という逆接を使ったことに、微かな違和感を覚えたようだ。
心臓が早鐘を打つ。怖い。嫌われたくない。場の空気を濁らせたくない。
その恐怖は消えていない。後悔も消えていない。
けれど、彼女は続けた。
「指摘されてる中身は、間違ってない部分もあったと思う。私は、少し勉強になったかな」
一瞬の沈黙。
カフェのBGMだけが大きく聞こえた。
「……まあ、確かにね」
誰かが言い、会話の流れは少しだけ角度を変えて、また流れ始めた。
世界は壊れなかった。
一美は冷めたい水を口に含んだ。
劇的な変化ではない。誰も彼女の勇気に気づいていない。
だが、彼女の中では、地殻変動にも似た響きが残っていた。
謝らなかった。
それは少し不格好で、座りの悪いものだったかもしれない。だが、あの無人島で男の前に立ちはだかった時のように、彼女は自分の足で床を踏みしめていた。
午後の日差しが、彼女の横顔を照らしていた。
体温で少しぬるくなった水を、そっと飲み込んだ。
*
サーバー室の空調は、常に一定の温度を保っている。
古賀 一は、モニターの光に照らされながら、キーボードを叩いていた。
単純作業の合間に、彼はふとポケットの中を探った。
指先に触れたのは、USBメモリだった。
中には、かつて彼を裏切った人間とのやり取りのログ、そして彼自身が抱え込んできた怨嗟の記録が入っている。
彼はこれを消去しようとしていた。あるいは、どこか遠くへ隔離しようとしていた。
だが、今はそれを、ただの物質として弄んでいる。
あの島で、彼は巨大な麻袋を背負う男の重さを知った。
あれは重かった。一人で歩くには酷すぎる重量だった。
しかし、その重さが、彼を地面に繋ぎ止めている錨でもあった。
一はUSBメモリを取り出し、デスクの端に置いた。
捨てることはできない。忘れられないからだ。
許すこともできない。傷は癒えていないからだ。
だから、持っていく。
忘れないまま、許さないまま、この石ころのような記憶をポケットに入れて、日常を生きる。時折、その角が背中に当たって痛むだろう。そのたびに思い出し、顔をしかめるだろう。
それでも、腰を折り曲げて地面を見るよりはマシだ。
彼は視線を上げ、モニターの向こうにある窓を見た。
空は青くも広くもなかった。ビルに切り取られた四角い灰色だ。
けれど、彼はその狭い空を、首を痛めることなく見ることができた。
「……見上げるまでは、まだ出来ないか」
彼は独りごちて、苦笑した。
その重さを確認するように、再びUSBメモリをポケットに放り込み、仕事に戻った。
*
夜が来て、また朝が来る。
三人はそれぞれの場所で、それぞれの生活を続けている。
彼らは二度と会うことはないだろう。無人島の記憶すら、日々の忙しさに紛れて、夢の彼方へと薄れていくかもしれない。
だが、通勤電車の揺れの中で、あるいは眠る前の静寂の中で、ふとスマホの画面にあの問いが表示されることがあるかもしれない。
『無人島に概念を一つ持っていくなら、あなたは何を選びますか?』
画面越しのその問いかけは、もはや彼らを誘惑しない。
彼らは知っているからだ。
概念などという形のないものを、わざわざ選んで持っていく必要はない。
人は誰もが、最初から持っているのだ。
捨てたくても捨てられない、肌にこびりついた後悔や、未練や、痛みという名の荷物を。
それらは島に行かずとも、常にここにある。
誰かの指が、スワイプして広告を消す。
別の誰かは、電源を切って目を閉じる。
もう一人は、画面を見ることなく歩き続ける。
彼らは答えない。
ただ、その重さを抱え直して、今日という続きを生きている。
投稿日:2026/01/16
筆者:棚島 香帆汰(プロフィール、
映画好き、小説も書いてます)
本作は、こちらの記事から着想を得て制作しました。
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