小説「朝になるまで」 第三章
第三章 石碑の重力 (古賀 一)
記憶とは、堆積する泥のようなものだと思っていた。
サーバーの冷却ファンが低い唸りを上げている。私は職場のサーバルームで、バックアップログの監視をしていた。画面を流れる文字列は、誰かの営みの記録であり、一度書き込まれれば二度と消えない証拠だ。
私には、誰かを許すという機能が欠落している。
子供の頃に誰かから投げつけられた罵倒、すれ違いざまの舌打ち、親友だった男の裏切りの手口。それらは鮮度を失わず、私の脳内ストレージの最上位階層に常駐している。
人は言う。「水に流せ」と。
だが、流す水などどこにもない。私の内面は、流れのない淀んだ沼だ。沈んだものは永遠にそこにある。
休憩中、スマートフォンを取り出すと、画面に既視感のある問いが表示された。
『無人島に概念を一つ持っていくなら、あなたは何を選びますか?』
以前もこの問いに出会ったことがある。流行っているのだろうか? あるいは、私の検索履歴がこの手の心理テストを呼び寄せたのか。
私は冷めた目でその文字列を追った。
概念。無人島。
私の答えは決まっている。
私は入力欄をタップした。迷いはなかった。これさえあれば、あるいはこれさえ隔離できれば、私は私自身を許せるかもしれないという微かな期待。
指先が動く。
文字列が確定する。
送信ボタンを押す。
結果が表示される前に、私は画面を伏せた。見る必要はない。私が何を入力したか、私自身が一番よく知っている。
冷却ファンの音が遠のき、世界が急激に暗転した。
*
潮の匂いが鼻孔をついた。
目を開けると、鉛色の海が広がっていた。
私は濡れた砂の上に立っていた。足元には私の革靴があり、波がそのつま先を濡らしている。
状況を理解するのに、数秒もかからなかった。
不思議と動揺はない。私の記憶の中にある風景と、妙に合致していたからだ。色彩の薄い空、凪いだ海、そしてどこか閉塞感のある空気。私の心。
私は歩き出した。
砂を踏む感触が、脳裏に直接響く。
目的があるわけではない。ただ、ここに立ち尽くしていることが苦痛だった。動かなければ、思考が過去へ過去へと沈んでいく。それを振り払うように足を運んだ。
しばらく歩くと、砂浜の先に人影が見えた。
奇妙な姿勢だった。
直立しているが、首だけが極端に折れ曲がっている。地面に落ちている何かを凝視しているのか、あるいは、二度と顔を上げまいとしているのか。
私は警戒しながら近づいた。
男だった。年齢は私と同じくらいに見える。
彼は微動だにせず、ただひたすらに頭を垂れていた。
その首筋からは、骨が浮き出ていた。限界まで引き伸ばされた皮膚と、重力に耐える筋肉が、悲鳴を上げているように見えた。
私は、彼の苦しみを知覚した。
忘れられない記憶の重さが、彼の頭蓋の中に詰まっているのだ。
膨大な過去のデータ。誰かの悪意、自分の失敗、取り返しのつかない言葉。それらが鉛のように凝縮され、彼の頭を地面へと引きずり下ろしている。
私は彼の前に立った。
「……おい」
声をかける。私の声は、ひどく乾燥していた。
彼は反応しない。ただ、地面を見つめ続けている。その唇が、微かに動いているのが見えた。
何かを呟いている。呪詛だろうか。それとも、過去の反芻だろうか。
私は彼の肩に手を置いた。
「上げろ。顔を上げるんだ」
私は彼に命令した。いや、自分自身に言い聞かせた。
いつまでも下を向いているな。過去ばかり見ているな。その重たい頭を持ち上げなければ、視界には砂と自分の足元しか映らない。
私は手に力を込めた。
彼の身体は石像のように硬直していた。
「う……」
彼が呻く。
私は、彼の頭が物理的に重いのだと錯覚した。まるで鉄の塊が首の上に乗っているようだ。
「手伝ってやる」
私は彼の額に手を当て、無理やり上を向かせようとした。
記憶を一人で抱え込む必要はない。私が共有する。あるいは、私が捨ててやる。そうすれば、彼は——私は、空を見上げることができるはずだ。
ググッ、と音がしそうなほどの抵抗があった。
彼は顔を上げようとしない。それどころか、私が力を込めれば込めるほど、彼は頑なに顎を引き、地面へと頭を押し付けようとした。
「なぜだ」
私は苛立った。
「楽になりたくないのか。その記憶を手放せば、お前は自由になれるんだぞ」
その時、彼の呟きが、風に乗って私の耳に届いた。
「……すまない」
私は手を止めた。
「……私が悪かった。本当に、申し訳ない」
彼は、謝っていた。
誰に?
私にだ。あるいは、彼が傷つけてしまった誰かに。あるいは、私を傷つけた誰かに対してさえも。
その瞬間、私の内側で何かが軋んだ。
私は彼を「記憶の重さで首が曲がった自分」だと思った。
だが、彼は「謝罪し続ける自分」なのか?
いや、違う。
私は彼をよく見た。彼の顔は見えない。だが、その頭頂部から滲み出る雰囲気は、かつて私に頭を下げた、あの男に似ていた。
許してくれ、と泣いた男。
私は彼を許さなかった。
「許す」ということは「忘れる」ということだ。忘れてしまえば、彼の罪は消える。私が受けた痛みもなかったことになる。
それは、私自身への裏切りだと思った。だから私は、記憶という檻に彼を閉じ込め、永遠に責め続けることを選んだ。
目の前の男は、その成れの果てだ。
私が忘れないせいで。私が許さないせいで。
彼は永遠に頭を上げることができない。
「やめろ」
私は叫んだ。
「謝るな。もういい。そんな言葉は聞きたくない」
謝罪されるたびに、記憶が鮮明になる。
男が頭を下げるたびに、その重さが私の胸にのしかかる。
私は彼の両肩を掴み、揺さぶった。
「顔を上げろと言っているんだ! 忘れろ! 何もかも忘れてしまえばいい!」
私は必死だった。
彼を救いたいのではない。彼が頭を下げ続ける姿を見ているのが、耐えられないのだ。それは私が「忘れられない人間」であるという事実を、残酷なまでに突きつけてくるからだ。
しかし、彼は止まらない。
「すまない……許してくれ……私が、私が……」
壊れたレコードのように。バグを起こしたプログラムのように。
彼は言葉を吐き出し、その言葉の重みでさらに深く頭を垂れる。
私が肩を掴む手にも、重力が伝染してくる。
重い。
どうしようもなく重い。
私は彼を支えきれず、膝をついた。
彼もまた、砂の上に崩れ落ちた。それでもなお、額を地面に擦り付け、土下座のような姿勢で謝罪を続けている。
「……これが、私の望んだことか」
私は乾いた笑いを漏らした。
私はあの男を許さないことで、彼を罰しているつもりだった。
だが、この光景はどうだ。
地を這い、泥を啜りながら、永遠に許しを請い続ける男。そして、それを冷徹に見下ろすこともできず、隣で一緒に重さに潰されている私。
私の「許さない」という執着が、彼をここに縫い止めている。
そして彼がいる限り、私もここから動けない。
私は空を見上げた。
曇天は何も語らない。
取り除こうとした重さは、私の手の中でさらに密度を増していた。
私は彼を引き起こそうと、再び腕を伸ばした。
「立てよ……頼むから」
声が震えた。
それは懇願だった。
彼に許しを与えたいのではない。ただ、この重苦しい石碑のような男を、私の視界から消し去りたいだけだった。
だが、私の指が彼に触れるたび、彼は「すまない」と繰り返す。
その言葉が新たな鎖となって、私たちを縛り付ける。
頭が重いのではない。
私が乗せているのだ。彼の首の上に、許さないという重石を。
それでも、私は手を離せなかった。
離してしまえば、彼を、そして過去を、本当に失ってしまう気がしたからだ。
痛みこそが、私が私である証明であるかのように。
波の音が、絶え間ない謝罪の声と混じり合い、私の鼓膜を埋め尽くしていった。
投稿日:2026/01/14
筆者:棚島 香帆汰(プロフィール、
映画好き、小説も書いてます)
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