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小説「朝になるまで」 第一章

第一章 整理された停滞 (真鍋 恒一まなべ こういち


 その問いかけは、深夜二時のブルーライトの中に浮かんでいた。
 指先一つでスクロールできる安っぽい心理テストだ。
 SNSのタイムラインに流れてきたそれは、毒々しい色彩のバナー広告に挟まれ、ひっそりと、しかし奇妙な引力を持ってそこにあった。

『無人島に概念を一つ持っていくなら、あなたは何を選びますか?』

 道具ではない。食料でも、パートナーでもない。
「概念」という言葉の使い方が少しずれている気がしたが、その違和感こそがフックなのだろう。

 私はベッドに寝転がったまま、天井の染みを見上げるように視線を動かした。
 選択肢は用意されていなかった。自由入力欄が、カーソルの明滅とともに口を開けている。
 酔狂な遊びだ。普段なら無視して指を滑らせるところだが、今の私は、あるいは今の私の夜は、こういう感傷的な問いを許容する程度には静まり返っていた。

 仕事は順調だ。大きなトラブルもなく、昇進も遅れてはいない。週末には映画を観たり、話題の小説を読んだりする余裕もある。

 だが、部屋の隅にある書棚には、背表紙が綺麗なままの参考書や、最初の数ページしか書き込まれていないノートが並んでいる。クローゼットの奥には、数回しか使わなかったスポーツウェアや、絵の具のセットが眠っている。

 私は、自分が何者でもないことを知っている。

 何かになろうとして、そのたびに手前で足を止めた人間の成れの果てだ。
 だから、迷いはなかった。
 私はフリック入力で、その言葉を打ち込んだ。

「夢」

 送信ボタンを押す。
 画面が白く発光し、ロード中のサークルがぐるぐると回り始めた。
 結果が出るのを待つまでの数秒間、私は妙に冷静だった。
 そうだ、私はこれを自覚している。才能がなかったわけではない、と今でも心のどこかで思っている。ただ、あの時、あの瞬間、泥臭くしがみつくことを選ばなかっただけだ。
 その選択が合理的だったと自分に言い聞かせ、綺麗な撤退戦を演じ続けてきた。
 未完了のまま放置された無数の「もしも」が、おりのように私の底に沈殿している。
 だからもし、無人島という孤独な空白に行けるのなら、持っていくのはこれしかない。

 この澱を広げて、乾かして、綺麗に片付けることができれば、私はまた「それ」に向かって歩き出せるはずなのだ。
 画面のサークルが回転を止め、結果が表示されようとした瞬間——私の意識は、プツリと断線した。


     *


 波の音が鼓膜を叩いていた。
 目を開けると、そこは砂浜だった。
 空は曇りガラスのように白く濁り、太陽の位置は曖昧だった。暑くもなく、寒くもない。ただ、凪いだ海が寄せては返す音だけが、世界にリズムを刻んでいる。

 私は身体を起こし、てのひらについた砂を払った。スーツのズボンにワイシャツという、寝る前とは違う出勤時の服装になっていることに気づいたが、不思議と動揺はなかった。

 夢にしては輪郭が鮮明すぎるし、現実にしては色が足りない。
 私は自分の「概念」を自分の中に持ち込んだのだろう。

「さて」
 私は立ち上がり、ズボンのしわを伸ばした。
 見渡す限りの砂浜。背後には鬱蒼うっそうとした森が広がっているが、生命の気配は希薄だ。鳥の声もしない。虫の羽音も。

 私は目的を知っている。と思う。

 持ってきたものと向き合うために、私はここに来たのだ。
 波打ち際を歩き始める。砂に足を取られる感覚が、妙にリアルで重い。


 どれくらい歩いただろうか。風景が変わらないまま時間だけが過ぎていくような感覚に陥りかけた時、前方に人影が見えた。

 その人は、ひどく背中が曲がっていた。
 年齢は不詳だ。老人に見えるような気もするし、疲弊しきった若者のようにも見える。

 彼は、自身の体躯ほどもある巨大な麻袋を背負っていた。袋はゴツゴツと歪な形をしていて、布の表面に中身の鋭角が浮き出しているようだった。
 彼は数歩進んでは立ち止まり、荒い息を吐き、また一歩を踏み出す。その歩みは遅々として進まない。

 私は確信した。
 あれが、私の「概念」だ。
 夢を見続けられなかった理由。重すぎて、背負いきれなくて、途中で投げ出したあの時の重圧と諦めが、あのような形をして具現化しているのだ。

 私は彼に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
 目は落ち窪み、瞳は焦点が定まらないように揺れている。

「……重い」
 彼は、かすれた声で言った。
「重くて、これ以上は進めないんだ」

「ええ、分かります」
 私は彼の隣に並び、その巨大な麻袋に手を添えた。ずっしりとした質量がてのひらに伝わる。
「下ろしましょう。一度整理すれば、また歩けるようになるはずです」
 私の言葉に、彼はすがるような視線を向けた。私たちは協力して、その袋を砂の上におろした。
 ドサリ、と鈍い音が響き、彼はようやく直立に近い姿勢に戻ることができた。

「ありがとう……ずっと、これを背負っていたんだ。昔のことが、頭から離れなくて」
 彼は袋の口を解き始めた。

 中から出てきたのは、ガラクタのような物体だった。古い日記帳、錆びた玩具、契約書のようなもの、色の褪せた写真、誰かへの手紙。
 それらは物理的な形を持っていたが、すべて「過去の記憶」であることを私は直感した。

「見てくれ、これは十年前の雨の日のことだ」
 彼は一枚の写真を指差して語り始めた。
「あの日、もっと強く言っていれば違ったかもしれない。その重さが、ここにある」

 次に彼は錆びた玩具を手に取った。
「これも、諦められずにずっと持っている」

 彼の語るエピソードは、私の記憶とは細部が異なっていた。
 だが、それは問題ではない。シンボルが変形しているだけのことだ。本質的な意味において、これらは私が「夢を追えなくなった」原因とその現在なのだ。

 過去に囚われ、不要な感傷を引きずり、その重さに耐えかねて足を止める。それが私のいつものパターンだった。

「整理しましょう」
 混沌としたものをあるべき場所に収める作業には、精神安定剤のような効果がある。

「これはもう解決済みの案件ですね。こっちは、今さら考えても仕方がないカテゴリーだ」
 私は砂の上に線を引いて区画を作り、彼の荷物を仕分け始めた。
 彼は不安そうに私の手元を見ていたが、次第にその表情が緩んでいった。
「ああ、そうか。それはもう、終わったことだったのか」
「そうです。あなたが背負う必要のないものです」

 作業は順調に進んだ。
 袋の中身は半分以下になった。物理的な質量が減ったわけではないが、意味的な重量は劇的に軽くなったはずだ。

 私は額の汗を拭い、達成感のようなものを感じていた。
 これが、私のやりたかったことだ。
 過去を清算し、身軽になること。そうすれば、私はいつだって「続き」を始められる。

「どうですか?」
 私が尋ねると、彼は深く息を吸い込み、晴れやかな顔をした。
「軽いよ。本当に、軽くなった気がする」
 彼は立ち上がり、背筋を伸ばした。先ほどまでの、地面に這いつくばるような悲壮感は消えている。
「ありがとう」
 彼は笑った。
 私もつられて笑った。
 これで解決したのだ。私の内面にある障害は取り除かれた。

 私は彼が再び歩き出すのを待った。身軽になった彼が、颯爽さっそうと未来へ向かって走り出す姿を想像していた。それが、私の「再開」の合図になるはずだと。

 しかし。
 彼は動かなかった。
 軽くなった荷物の横に腰を下ろし、穏やかな顔で海を眺め始めたのだ。
「……行かないんですか?」
 私の問いに、彼は不思議そうな顔で振り返った。
「どこへ?」
「どこへって、先へ。荷物が軽くなったんでしょう? なら、続けられるはずでしょう?」
 彼は首を傾げた。
「ああ、そうか。でも、もういいんだ。ここに座っているだけで、こんなに楽なんだから」
 彼は幸せそうに目を細めた。
 私は立ち尽くした。

 何かがおかしい。
 荷物を減らせば、また走れると思っていた。障害物さえなくなれば、足は前に進むものだと信じていた。
 だが、私の目の前にいる「自分自身」は、ただ停滞の質が変わっただけだった。苦しい停滞から、快適な停滞へ。
 それは確かに「解決」ではあったが、私が望んだ「前進」ではなかった。

「違う……」
 口の中で呟く。
 いや、違わないはずだ。私は整理した。合理的に処理した。間違った手順は踏んでいない。
 それなのに、なぜ私の胸には、変わらぬ空虚さが居座っているのだろう。
 海風が吹き抜け、仕分けられた過去の残骸ざんがいがカサカサと音を立てた。

 私は整理された荷物の山と、安住あんじゅうしてしまった彼を見下ろしながら、指先が微かに震えるのを感じていた。
 何かが足りない。あるいは、私は何か根本的な見落としをしているのかもしれない。
 だが、それが何なのかは分からなかった。ただ、波の音だけが、答えのない問いのように繰り返されていた。





第二章  第三章  第四章  終章



投稿日:2026/01/12

筆者:棚島 香帆汰(プロフィール
映画好き小説も書いてます



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