プロレス物語論〜虚構と現実の狭間の物語第二講「キャラクター」はマスクマンが教えてくれる。
プロレスにおける「キャラクター」
メキシコの「ルチャ・リブレ」というプロレスから「キャラクターとは何なのか」を学ぶことができる。
だがその前に、プロレスにおける「キャラクター」とは何なのか、それを少し掘り下げていく必要があるだろう。
フィクションにおける「キャラクター」と、プロレスのおける「キャラクター」に単語の使い方として大きな差はない。端的に言ってしまえば、プロレスにおける「キャラクター」とはレスラー個人の「特徴」や「個性」を指し示す。明確にフィクションと違う部分があるとすれば、それはプロレス特有の「不文律」や「暗黙の了解」に属する部分に由来する、という点であろう。
明確に違う部分、と表現したが、むしろ「格闘技」と「プロレス」の違いと表現した方がいいかもしれない。プロレスの「キャラクター」は実はフィクションの「キャラクター」の方に親和性がある。
当り前だが「格闘技」の場合、「キャラクター」はあくまで選手の付属品でしかない。実際のファイトスタイルにまでその「キャラクター」が及ぶことは少ない。ヤンキーだからビッグマウスだから謙虚だからストイックだからといった「キャラクター」でファイトスタイルが変わるわけではない。
K─1や総合格闘技で活躍したミルコ・クロコップの代名詞である「左ハイキック」のような例はあるが、あくまで「勝利」を追求していった結果、そのファイトスタイルになったに過ぎない。
本来、試合内容とキャラクターはイコールにはならないのが普通なのだ。常にKОを狙いにいく、どんな形でも「勝利」を優先する、ぐらいの違いでしかない。
だがプロレスはレスラー個人の「キャラクター」がファイトスタイルにも影響してくる。
プロレスは「魅せる」格闘技
プロレスで一番わかりやすい「キャラクター」といえば、「ベビーフェイス」と「ヒール」である。
ファイトスタイルそのものも明確に違うことが多く、ベビーであれば凶器や反則攻撃はもちろん使わないし、見た目が良くないからとストンピング(踏みつけ)ですら敬遠される場合がある。
ヒールであればコーナーポストからの「飛び技」を使うレスラーは少ない。「華やか」な技をヒールは使わないのだ。相手レスラーの「苦悶の表情」が見えるような関節技や、力強さをアピールするような投げ技、派手さよりも「痛み」が伝わるような技が多い。より「苦痛を与えている」ような、意図的にヘイトを集めるような技を使用する場合が多い。
もう一つ、プロレスにおける「キャラクター」の最大の特徴は「同じ技を使わない」ことにある。
どのレスラーにも共通する技はあるし、厳密に線引きがあるわけではないのだが、これは「その選手しか使わないムーヴ(技に入るまでのモーション)の打撃・投げ技・関節技」に該当する「技」である。
同じ技を使わないからこそ、プロレス実況における「オキテ破り」という言葉が用いられるのである。
当り前のことだが、本来、勝負に徹するなら「相手の技は使わない」などという行為には意味がない。ハイキックを使われたから腕ひしぎ逆十字を使われたからといって、それを「俺の技だ」と主張する格闘家はいない。
だが、ベビーとヒールの対立軸を強調するプロレスにおいては選手によって使う技が違う方が応援しやすいし、わかりやすい。
何より平均8試合といわれる一日の興行では、見慣れている観客でもなければ途中で疲れて飽きてしまう。使う技が選手によって違う方が観ている方は飽きづらいという現実的な問題でもある。
「ルチャ・リブレ」のキャラクター
前置きが長くなってしまったが、この「プロレスにおけるキャラクター」にはもう一つ重要な要素が存在する。
それは、キャラクターの「変遷」や「歴史」である。
その近代プロレスの「キャラクターの元祖」とでも言うべきものが、メキシコのプロレス「ルチャ・リブレ」である。
世界中で文化や思想にまで「プロレス」というものが根ざしている国は恐らくメキシコだけであろう。
メキシコ人にとって「ルチャ・リブレ」とは国技ですらない。自分たちの国そのものの象徴なのだ。
ルチャ・リブレという形式のプロレスが産まれたのは、メキシコがスペインの植民地であった時代にまで遡る。当時のメキシコは植民地化していたため、自国の伝統や文化を伝えることすら禁止されていた。そのため人々は摘発から逃れるためにマスクを被って正体を隠し、自国の文化や風俗を伝承し、自分たちの「歴史」を守ろうとした。
だから「ルチャ・リブレ」では、正義(ルチャ)の側のレスラーがマスクを被り(摘発から逃れるために素顔を隠すメキシコ人)、悪役(ルード)のレスラーが素顔(植民地支配をしていたスペイン人)である必要があった。
ルチャというプロレスの「対立構造」そのものがメキシコの「歴史」なのである。
このため、メキシコのプロレスではマスクを付けていることにキャラ付け以上の付加価値がついている。
「マスカラコントラマスカラ(敗者マスク剥ぎマッチ)」や「マスカラコントラカベジェラ(敗者マスク剥ぎor髪切り)」が一つの試合形式として成立するのもそれ故だ。『スーパーマン』や『スパイダーマン』で正体がバレた時は一大事である、と表現すればわかりやすいだろうか。
とあるドキュメンタリー番組で、家族の前ですらマスクを脱がない覆面レスラーとして活動するお母さんの映像を観たことがある。ルチャにとってマスクは正義の象徴であり、メキシコ人の誇りでもある。それをどういう理由かは忘れてしまったが、マスクを脱がなければならない状況になって、そのことを家族に話している時、子供たちがこぞって泣き出すという場面が放送された。語弊がある言い方になってしまうが、たかだか「プロレスの一キャラクター」としてのマスクマンである。
しかし、メキシコの人たちにとっては違う。
「ルチャのマスク」とは人々の正義の象徴であり、自分たちが自分たちの国を勝ちとった「歴史」そのものなのである。
感情移入できる「キャラクター」
メキシコのルチャのように「キャラクター」がその国の歴史に根ざしていたりするケースはさすがに稀だが、キャラクターそのものの魅力もそうだが、その「キャラクター」のバックボーンを知っているか否かで印象が大きく変わってくる。逆に言えば、バックボーンを表現したり設定したりすることでより観客を没入させることができるのだ。
それは現実の選手の「歴史」であったり、試合中のファイトスタイルの「変遷」であったり、様々な角度からアプローチすることできる。
・負け続けていた選手がようやくチャンピオンベルトを腰に巻いた瞬間。
・長期欠場していた選手が復帰した試合。
・ヒールからベビーフェイスになったことで封印していた技を使って勝利。
・肉体が衰えてしまって全盛期の動きができないレスラーがもう一花咲かせようと奮起する姿。
その選手の「歴史」や「変遷」を知っていることで試合の勝ち負けとはまた別の「感動」が生まれる。
物語的な言い方になってしまうが、ある種、勝ち負け以上に観ている側が自分が望むような「展開」を期待してしまうのである。
プロレスは「試合の外側」を知ることでより楽しみ方が増えるスポーツだ。
それは「キャラクター」の「歴史」を理解したり考えたりすることとイコールであったりもする。
短編と長編のフィクションでは表現できる内容が違うように、選手一人一人の「キャラクター」に注目して観戦できるのも、年間百何十試合も行うプロレスならではの楽しみ方なのである。
