プロレス物語論〜虚構と現実の狭間の物語第七講 ビッグマッチの後には必ず「次回予告」がある。
アメリカにおけるプロレスの「物語」
これは元々アメリカのプロレスで用いられている手法で、近年では日本のプロレスでも行われることが多くなった手法だ。年間何百試合も行うプロレスでは、一つの興行の終わりに次回のシリーズに向けて広告なり宣伝をするのは集客する上でも重要な要素だ。
次の巡業先の地域、あるいは銘打たれたシリーズ興行(新日本で言うなら「G1クライマックス」や「1・4東京ドーム」、全日本なら「チャンピオンカーニバル」など)の宣伝、選手のピックアップ(チャンピオンに挑戦する次期挑戦者は誰になるか、とか)をしなければならない。
巨額の宣伝費を投入するようなビッグマッチばかりではすぐに赤字になってしまうし、かといって開催中の興行が盛り上がらなければ以降の集客にも影響が出てくる。だから今現在開催しているシリーズ中に次の興行のために行われる宣伝はタイミングが難しくなる。
そこで考え出されたのが物語的な「引き」をその興行の最終試合の後に導入する手法である。
もちろん生でプロレスを観戦するのにそんな予備知識はそれほど重要ではない。自分が足を運べる会場や、開催されてる地域ごとに「プロレスが来るんだ。見に行こう」ぐらいの軽いノリで観に行くのがある意味、一番正しい(興収的な意味でも)。あくまで「プロレスから物語論を学ぶ」という本講義の主旨に基づいての知識である。
ランキング戦のないプロレス
個人のプロスポーツであれば「ランキング」が常につきまとう。個人の優劣をつけるランキングが存在しないスポーツでも、年間を通してとか、メインスポンサーが違う一大会の中で優勝者を決めるのが普通の競技だ。
だがプロレスはチャンピオンシップと銘打たれたものでなければ、単純な勝ち負けで選手同士の優劣は必ずしも変化しない。試合形式そのものの問題ではあるが(当人同士で決着がつかないタッグマッチや6メンなど)、一試合の勝敗でランキングのように順位は変動しない。もちろん興行的に「優勝者」を決めるシリーズもあるが、前シリーズの「優勝者」が負けた場合、その後の次期挑戦者がその優勝者より成績が悪いことも多々ある。
だからプロレスにおいて「ランキング一位の挑戦者」の指名試合のようなものは存在しない。
勝った方が次はこの選手と、というマッチメイクはあまりなされない。それは結局、その試合の勝敗よりも次の試合が注目されてしまうからである。次のシリーズのために今のシリーズを踏み台にするのであれば、その興行を開催する意義が薄くなってしまう。その意味で近年の新日本の「1・4」「1・5」興行というのは非常に効率が悪い。わかりやすく言えば、次に戦う相手が決まっていては試合に対する興味が分散しやすく、応援しがいがなくなるのである。
例外的に試合形式を「3WAY(三つ巴戦)」に変更する時だけ、3人めの選手も挑戦を表明する(それが「4WAY」なら4人めまで)。格闘技のように選手をランキング付けしないのもそれ故で(ランキングを作ると、ランク外の選手を挑戦させられない)、どんな試合形式で行われるかもプロレスにおいては重要な「引き」の一つだからである。
例えばアメリカのプロレスの場合は「反則裁定ではベルトは移動しない」というルールがあったりするので、チャンピオン側が反則で逃げた場合のリターンマッチは「ノーDQマッチ(反則裁定なし)」になったりする。わかりやすく「次のシリーズで決着戦」という展開への布石が打たれるのである。
そういう現実的な興行の盛り上がりと、次のシリーズへの注目度というバランスで考え出されたのが「大団円にしない」なのである。
例を挙げると、
「反則裁定で挑戦者が勝っていたはずの試合が無効になる」
「乱入者が試合後のチャンピオンを急襲する」
「チャンピオンベルトを紛失する」
「試合後、チャンピオンが病院に搬送される」
など、次のシリーズの展開やフィーチャーされるレスラーを暗示させる内容になっている。アメリカでは怪我や故障で欠場させたい選手がいるかどうかによっても次のシリーズの展開が変わったりもする。
いわば今のエピソードに「没入させた状態」で、次のエピソードに「引き継ぐ」ための手法なのである。あるいはドラマやアニメの「予告」の概念に近い。エンディング後のCパートという言い方もできる。
もちろんフィションを構成する要素の中で、後の展開のための「伏線」が必要ないとは言わない。
ただ、この「大団円にしない」という展開にしただけで、観客は思いの外、惹きつけられる。
物語の次章への「引き」として考えた時、「(敵役と戦っている)最中の伏線」より「(敵役を倒した)後の不穏」の方が印象に残りやすい。「まだ倒していない強敵」より「倒した後に出てくる雑魚」の方が印象が強くなるのである。
「エンディング」を迎えない物語
では具体的に、ビッグマッチ後に「大団円にしない」とはどういうことなのか。
具体的なレスラー像を参考に「大団円にしない」に至る過程を考えてみる。
細かい展開やレスラー個人の個性はあるものの、プロレスにおけるレスラーの行動原理はとどのつまり「チャンピオンになる」ことに集約される。
それは先述したようにランキングによって挑戦者の「格」が決まるわけではないので、次期挑戦者としてふさわしい「実績」や「因縁」が求められる。
リーグ戦やトーナメントの制覇といった「実績」
試合への乱入やノンタイトル戦でのチャンピオンからの勝利といった「因縁」
主にこの2パターンが、前シリーズから引き継がれる次期挑戦者の「資格」になる。
前者は挑戦権を獲得、後者はチャンピオンからの指名であることが多い。
これが基本ベースにあって、その上で過去の因縁や抗争、対戦成績、ベビーかヒールかみたいなものが関係してくる。それらを踏まえた上で「チャンピオン」と「挑戦者」のどちらを今後の中心選手とするかで、「大団円にしない」状態の意味合いが変わってくる。
チャンピオンが勝つと「次回の防衛戦」「次期挑戦者の表明/乱入」「他団体への進出」が次の展開として用意され、ヒエラルキーの頂点を中心に物語が展開される。
挑戦者が勝つと「リマッチ」「世代交代」「前チャンピオンの欠場」など、チャンピオンが中心というよりはチャンピオンをとり巻く環境を中心に物語が展開される。
ジュニアヘビー級からヘビー級への転向や、ベビーフェイスからヒールへのターン(あるいはその逆)、敵対派閥への寝返りなども試合後のタイミングで行われることが多い。
勝った方が変化することは少なく、負けた方はファイトスタイルを含め、心的な葛藤を経て、なにがしか変化をする場合が多い。その意味では、プロレスは「チャンピオンが中心の物語」なのだが、「挑戦者」としての道のりの方が主人公然としている。
言ってしまえば、チャンピオンと挑戦者、どちらを会社としてプッシュするかという問題ではあるのだが、物語論として紐解くなら、「大団円にしない」とは「一つの物語の終わり」ではなく「一人のキャラクターの始まり」なのである。物語における着地点ではなく、一人のキャラクターの次の行動への布石と捉えることができる。
プロレスにおける最大の「引き」とは「チャンピオン(挑戦者)は今後どうなるのか」を想像させる展開である。繰り広げられた王座戦までの抗争を有耶無耶にするための結末が「引き」になるわけではないのである。
今なら何となく理解が及ぶが、一昔前に新日本で繰り広げられた「乱入・乱闘で無効試合になる」展開は、実はこの手法を採用しているのである(この流れが多すぎたのはまた別の問題であるが)。
連載作品のようなプロレス
登場したキャラクターを主役にしたいのか脇役にしたいのか、成功させたいのか挫折させたいのか、勝たせたいのか負けさせたいのか、それによってどういう「引き」にしたらいいかは自ずと変わってくる。
同じ「ビッグマウス」で「不遜」なキャラクターの選手であっても、チャンピオンになればダークヒーロー的なポジションになり、負ければ謙虚な性格になってベビーターンしたり、小悪党のようなコミカルなヒールになったりする。
物語論的に考えれば、キャラクターとは「何をするキャラクターなのか」が重要ではなく、「何をさせたいキャラクターなのか」が重要なのである。キャラクターをどう動かしたいかが「引き」の後の展開を大きく変化させる。
だから「引き」の後、長期欠場や海外武者修行後の凱旋帰国でプロレスラーは「化ける」のである。
そのプロレスラーをどう売り出していきたいのか、その最大の「見せ場」が「ビッグマッチ後の大団円にしない」タイミングなのである。ある意味、プロレスラーにとってチャンピオンになるより衝撃的な展開が用意されているのがここなのである。
プロレスのビッグマッチの後に「大団円にしない」という手法は、これからそのキャラクターを「どう動かしていくのか」という、ある意味、オーガナイザーとしての資質も問われているのである。
