プロレス物語論〜虚構と現実の狭間の物語第十三講 ぼくらはなぜ「プロレス」に魅せられるのか〜「『SANADAドキュメンタリー』フェイク-FAKE」(2026.6.9)を観た後で思うこと。
プロレスの中心にあるもの
本講のタイトルにある動画は「新日本プロレス」公式YouTubeチャンネルの動画である。
その内容は2026年の前半から数ヶ月欠場していたSANADA選手の欠場中の行動を追ったドキュメンタリーである。他の動画と比べて再生数がはるかに伸びていることからも、この動画がいかにプロレスファンの心掴んだ内容なのかがうかがえる。今、新日本で最もフィーチャーされているレスラーの一人、ウルフ・アロンの試合のダイジェストより再生数が伸びているのである。
なぜ本講の最後のテキストにこの動画の感想を記したのか。
それは「物語論」と銘打った本講で伝えたい「プロレスの魅力」が全て詰まっていたからだ。
そして同時に「物語論」としてプロレスを解き明かしながら、やはり「プロレス」とはそこで生きる生身レスラーがいてこそ成り立つものである、という当たり前のリスペクトとして書き記しておきたいと思ったからである。
SANADAというレスラー
動画の内容に触れる前に、欠場前のSANADA選手について少し触れておく。
数年前に所属していたロスインゴというユニットを脱退し、それまでタッグチームとして活躍していたが、シングルプレイヤーへと転向する。そのままIWGP世界ヘビー級のチャンピオンにまで一気に上り詰める。
しかし、チャンピオンに初戴冠後、SANADA選手は徐々におかしくなっていく。
防衛記録を重ねていくまでは良かったのだが、チャンピオンから転落後、わずか二年の間で三回も所属ユニット変えている。所属したユニット全てで裏切り行為をして、である。
これはプロレスファンから見ても異様な行動であった。正統派のファイトスタイルでチャンピオンにまでなったレスラーがわずか二年という短期間で、キャラクターはまだしもファイトスタイルまで変更する理由が観ている側にはさっぱりわからなかったのである。
そしてその後、一切の理由を語らずに「俺はこのリングを去る」と告げて、長期欠場となったのである。
プロレスラーの宿命
そして動画の内容はその所属ユニットの短期間での変遷の理由を語る。より正確にはなぜ所属ユニットを異動したかではなく、その時のSANADA選手の身に起きていたことだ。
SANADA選手はチャンピオンに初戴冠した試合中、レスラー生命に関わる怪我をしていたのだ。
詳しくは動画を観てもらいたいので割愛するが、ヒール転向時に不評であった奇抜な衣装をわざわざ身につけていたのも、乱心にさえ見えたファイトスタイルの変更も、全てその怪我を隠すためであったのだ。
右腕が使えなくなるほどの大怪我であり、明らかに左腕より右腕の方が細い。それを隠すために奇抜なコスチュームで目線を逸らし、正統派のレスリングができないから凶器に頼るヒールのファイトスタイルに変更せざるを得かったのだ。
故三沢光晴が当時チャンピオンであった丸藤選手のベストバウトに試合内容としてはあまり評価が高くない試合をピックアップしたのはそれが理由であった。三沢氏は「怪我をしている状態で試合をきちんと成立させた」ことが評価の理由であると語っていた。
プロレスラーは大抵どこかしら故障を抱えながら試合をしている。逆に言えば、身体が動くうちは怪我をしていても試合をしなければならないということでもある。休めばいい、と軽々しく口にするのは内情を知らない外野の無責任な発言でしかない。
レスラーに休業補償というものはない。保険にも入れない。結局は自分の身体と収入は自分で守るしかないのが実情だ。もちろんある程度は所属している団体がフォローしてくれるであろうが、単年の契約では次年度の再契約への影響は免れない。だから身体が動くうちはレスラーは怪我を隠して試合を行う。
プロレスラーの仕事とは「試合に勝つこと」ではなく、「試合を行うこと」なのである。
プロレスの美学
もちろんこの動画がドキュメンタリーとして極めて優れた内容であることは言うまでもない。
だが、この「怪我を押して試合をする」「ヒールが実はちゃんとした人」「不穏に見える行動にもきちんと意味がある」「人知れずキツいリハビリに励む」というのは、まさに本講のタイトルにもある「虚構と現実の間の物語」なのである。
「物語」として見た時、怪我を押してまで目的を遂げようとする姿には敬意を抱くし、悪役が実はいい人だった、というのはある種のギャップ萌えである。人知れず努力をする姿はただただ美しい。そして不穏に見える行動にきちんと意味があったと理解すれば、それまでの行動すべてが「伏線」となる。
そういうまるで「物語のような展開」を「現実の生身の人間」が行っているのが「プロレス」なのである。
そして人は「そうであってほしい」「そうなってほしい」と願えるような人間に魅了されるのである。
最後に
散々自分で「物語論」としてプロレス語っておいてなんだが、私が語ったことなど「プロレス」のほんの一部分に過ぎない。それがなくても楽しめるし、あれば誰かと語りたくなる。そういうものが「プロレス」である。
この「プロレス物語論」がそういう古き良き、誰かと語りたくなるような、「紙のプロレス」のようなものになれれば幸いである。
レスラーの数だけプロレスは存在し、楽しみ方も人それぞれだ。レスラーへのリスペクトを忘れなければ、プロレスの定義もまた自由であろう。
それもまた「プロレス」なのである。
