プロレス物語論〜虚構と現実の狭間の物語第四講 チャンピオンは「ヒロイン」である。
プロレスと「恋愛模様」
今回の章タイトルをより正確に表現するなら「舞台装置としてのヒロイン」となる。
本来であれば物語のヒロインとはただの記号で、別にヒロインというポジションだからそのキャラクターに魅力や共感を感じるわけではない。当たり前だが恋愛模様に個人の心の機微が内在しない物語など存在しない。
だが、ことプロレス的な物語論においては「ヒロイン」の解釈が少し異なる。
本来、ヒロインが行うべき、あるいはヒロインに向けられるベクトルは、レスラー個人ではなく、その時の「チャンピオン」に向けられるからだ。
この場合の「ヒロイン」とは男か女かという些末な問題ではない。
プロレスにおいてチャンピオンに挑戦するということ、負け続けているレスラーに向かっていく姿勢は、「フィクションの恋愛」における「振り向かせたい異性」に対するアプローチのそれとよく似ている。
時に挑発したり、褒め殺してみたり、興味のないふりをしたり、しつこくつきまとったり、求められてるのにそっけない態度をとったり、気持ちは傾いているのに条件をつけてみたりと、若干ストーカー気質な行動も含まれるが、まさしく「恋愛もの」における「ヒロイン」を追いかける「主人公」の行動、あるいは「主人公」に対する「ヒロイン」の態度そのものである(あくまで「フィクションの」恋愛模様である)。
プロレスのチャンピオン
プロレスにおける「チャンピオン」とは、ある種の「絶対君主」の表象である。
現実の人格や善悪のキャラクターとしての性格は関係なく、プロレスにおいて「頂点」に君臨していることが尊敬されることよりも重要になってくる。もちろん防衛記録であるとかメインイベントの集客人数であるとか、現実的な更新目標となるポイントは存在するが、それはまた別の話である。
プロレスにおいてチャンピオンの素行が悪くてもそれを注意する者はいないし(例外的に「挑戦者」のみがチャンピオンを否定できる)、逆に誰からも相手にされないチャンピオンもいない。こういうチャンピオンであるべき、と説かれることもない。
チャンピオンという「立場」が存在することが重要なのである。
もう一つ特徴的なのは「チャンピオン」に向けられるベクトルの数々は、チャンピオンから陥落した瞬間、剥奪される、という点だ。負けた前チャンピオンがフィーチャーされる展開はあまりいない(リマッチが行われる場合は別だが)。過去の因縁や確執でもない限り、チャンピオンから陥落したレスラーを執拗に追いかけるレスラーは少ない。
例えて言うなら一つの恋愛に決着がついた瞬間、次代のヒロインに交代していくのである。
その意味でプロレスにおけるチャンピオンとは「舞台装置としてのヒロイン」である、と形容することができるのである。
ヒールのチャンピオンは悪役令嬢?
ヒールのチャンピオンの場合はその「ヒロイン像」が特にわかりやすい。まさに最近流行りの(あくまでこれを書いている時点での)「悪役令嬢」そのものになる。
傍若無人の限りを尽くし、不遜な態度、罵倒、暴言、乱入、反則でのノーコンテスト(アメリカでは「反則裁定で王座は動かない」というルールがあるため、ヒールのチャンピオンはこのパターンでの勝利が多い)、逆に愛想を尽かされて「裏切られて」負けたり、ヒールユニットからの「追放」という展開が待っていたりする。
チャンピオンであればどんなに横暴でも許されたが、陥落した瞬間、掌を返され、ユニットから追い出されたりする。その後、単独で活動すれば「ダークヒーロー」的なベビーフェイスになったり、対立していたユニットや過去に袂を分かった仲間に助けられたりもする。
ほとんど「処刑(追放)される悪役令嬢」の物語の展開と同じなのである。
まあ「悪役令嬢」というよりは「倒されるだけで終わらない悪役」に共通するストーリーラインともいえるのだが、ヒールのチャンピオンはより「チャンピオンでいること」が重要視される。逆にいえば、ヒールのチャンピオンは「主人公的な物語としてのチャンピオン」になることよりも、「チャンピオンから転落した後」に大きく物語が動くキャラクターという点でも「ヒロイン的」なのである。
新人レスラー=フィクションの新入生
デビューしたての新人レスラーには当然、チャンピオンへの挑戦権など回ってこない。それは入学したての新入生に高嶺の花たる三年の生徒会長が振り向いてくれない「物語」と同じだ。
それが何かで活躍したり実績を残したりとふとしたきっかけで目に止まり、声をかけられる。そして今まで歯牙にもかけない存在であった者が一個人として認識されるようになる。その後、自分と相手との「差」を具体的に実感したり、それでも尚、追いかけようとしたり、玉砕しても再度アタックしようとする…わざと印象を曖昧にするような書き方をしているが、チャンピオンに挑戦しようとする者と、学園もので高嶺の花にアタックする新入生の行動に大差がないことがわかるだろう。
プロレスにおいて「ヒロイン」とは「キャラクター」そのものを指すのではなく、立ち位置や状況で変化するものなのである。ハーレムものの物語では逆の立場になったりすることもあるが、基本は「追いかけるもの」が「主人公」で、「追いかけられるもの」が「ヒロイン」となるのだ。
強いチャンピオン像
チャンピオンの本質がレスラーにとっての「ヒロイン」であるため、「強いチャンピオン」は防衛記録を重ねる期待度より、「いつ、誰に負けるのか」を次第に期待されるようになる。
いわば難攻不落でガードが堅いヒロインを主人公がどうやって振り向かせるのか、という展開である。
この場合、チャンピオンに挑戦するレスラー全てが「主人公」になるため、長く防衛しているチャンピオンほど挑戦者が応援されやすくなる。
この場合はベビーやヒールといった図式ではなく、「チャンピオンとその他大勢」という対立構造になるため、チャンピオンが悪役になる場合が多い。
勇者が明らかに魔王より強かったら物語としては興醒めだろう。例外はあるにせよ、「追いかけられるもの」は常に強くなくてはいけない。
チャンピオンは最終的に「倒されること」を期待されるため、必然的に「強いチャンピオン」か「ヒールのチャンピオン」が物語論的には理想である。両者ともより「倒されること」へのカタルシスが大きくなるからだ。
だからといって毎回毎回、反則やノーコンテストで防衛を重ねるチャンピオンでは観ている方も飽きてしまう。やり過ぎは何ごとも毒になりやすい。ヒールチャンピオンの防衛を「偉大なマンネリ」とはよく言ったもので、そもそも「マンネリ」が許されるのは、その後に「倒されること」への期待値が高まるから成り立つ展開なのである。
その意味では「強いチャンピオン」は「追いかけられるもの」として王道の展開であり、挑戦者たる「主人公」と相対するにふさわしい「理想のヒロイン」なのである。
