【明治文豪、令和を歩く】第19回:円安のメンタル
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

ふうむ……。このアイスコーヒー一杯が、随分な値段をするものだね。さっき店員が『円安の影響で』と言い訳のように言っていたが、どうも腑に落ちん。
荷風君、君は今のこの『円安』という現象をどう見ているかね? 私はね、かつて『それから(※)』という小説の中で、代助という男に言わせたことがあるんだ。『日本ほど借金をこしらえて、貧乏揺すりをしている国はありゃしない』とね。どうも今の日本を見ていると、百年経ってもその貧乏揺すりが止まっていないどころか、いよいよ痙攣(けいれん)が激しくなっているように見えるよ。

先生、それはまた痛烈ですな。しかし、ごもっともです。わたくしが『偏奇館漫録(※)』に書いた頃も、世の中の贅沢や物価の変動には呆れたものですが、今は桁が違います。
円が安いということは、要するに日本の値打ちが下がったということでしょう。海外から来た観光客が、まるで駄菓子屋にでも来たかのように、日本の品物を買い漁っているのを見ると、なんだか自分の家の庭石を二束三文で持ち去られているようで、どうも薄気味悪い心地がいたしますよ。

庭石か、うまいことを言う。だがね、これは単なる経済の問題じゃない。精神の問題だ。
私は昔、日本が無理に西洋と肩を並べようとして『牛と競争をする蛙』のようだと書いた。腹が裂けるまで膨らんで、一等国の仲間入りをしようとした結果がこれだ。
円が安くなったからといって、日本人はさらに働こうとする。インバウンドだ何だと騒いで、外貨を稼ごうと必死になる。だが、そうやってあくせくすればするほど、国民全体が神経衰弱になっていくのが私には見えるようだ。君、そう思わんか?

神経衰弱、ですか。確かに、街を歩く人々の顔には余裕がありませんな。
わたくしはね、先生。もう怒る気力も失せましたよ。昔、渋江抽斎の息子が親の蔵書を持ち出して遊蕩にふけったように、国全体が先人の遺産を切り売りしているようなものでしょう。
『来訪者(※)』という文章で、わたくしは当時の文士の収入の話を書きましたが、今の若い人たちは、あくせく働いても海外の物ひとつ満足に買えない。それなのに、まだ『日本は立派な国だ』という幻想にしがみついている。これはもう、悲劇を通り越して喜劇です。わたくしは、この滑稽な芝居を、テラス席から高みの見物といきたいところですが……こうコーヒーが高くては、それもままなりませんな。

ははは、君は相変わらず斜に構えているな。だが、その『幻想』というのは厄介だ。
明治の時分は、まだ『これから借金を返して立派になるんだ』という気概があったかもしれん。だが今は、借金で首が回らないのに、まだ自分たちが金持ちだと思い込もうとしている。
私が思うに、この円安というのは、日本という国が『身の丈』を突きつけられているということなんじゃないか。無理に膨らませた腹が、しぼんで元の蛙に戻ろうとしている。それを認めるのが怖いから、皆、見ないふりをしている。

身の丈、ですか。結構なことじゃありませんか。わたくしはね、江戸の昔のように、鎖国でもして貧しくとも心豊かに暮らすのも悪くないと思いますよ。
しかし現代人は、スマホだの何だのと、西洋渡来の道具がないと生きていけない。円が安くなって困るのは、結局のところ、自分たちの生活が自分たちの足元に根差していないからです。
先生、あそこをごらんなさい。外国の方が、高そうな着物をレンタルして歩いています。本物の日本人が安物の洋服を着て、外国人が紛い物の和服を着て喜んでいる。この倒錯した風景こそ、円安ニッポンの象徴的な画図(えず)ですな。

……君の観察眼には恐れ入るよ。確かに倒錯だ。
私がロンドンで感じた疎外感とはまた違う、奇妙な空虚さがここにはある。金がないなら無いで、堂々と貧乏暮らしを楽しめばいいものを、現代人は『貧しい』と思われることを極端に恐れているようだ。
かつての平岡常次郎のように、中身がないのに外見ばかり取り繕おうとする。それが余計に、生活を惨めにするんだがね。

全くです。わたくしが愛した三ノ輪や向島の路地裏には、貧しくともドブ板の隙間に咲く花のような風情がありました。
今の円安騒ぎを見ていると、皆、金定規でしか幸福を測れなくなっているようで哀れです。いっそ、このコーヒー代も払えなくなったら、わたくしはまた、蝙蝠傘(こうもりがさ)一本持って、どこぞの古本屋の軒先で雨宿りでもしますよ。その方が、よほど文学的な気分になれるというものです。

やれやれ。君と話していると、貧乏もまた一興という気になってくるから不思議だ。
だがね、荷風君。勘定は私が持とう。君に古本屋の軒先で雨宿りをさせるわけにはいかんからな。それもまた、先輩としての私の『見栄』かもしれんがね。
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