【明治文豪、令和を歩く】第16回:回転寿司くずし
二人の文豪が現代の寿司屋のカウンターで、茶をすすりながら雑談している

おい荷風君、目が回りそうだ。
さっきから皿が目の前をぐるぐると回っているが、これは一体どういう了見だ。僕がロンドンで見た博覧会の機械じゃあるまいし、食事というものは、こうも慌ただしくベルトコンベアに乗せられて運ばれてくるものなのかね。
昔、寿司といえば屋台で立って食うものだったが、これではまるで工場で部品を組み立てているようだ。僕の胃弱がますます悪化しそうな光景だよ。

先生、そう毛嫌いしたものでもありませんよ。
僕はこの光景に、現代日本の『安普請(やすぶしん)』な精神が極まっているようで、一種の興味を覚えます。
かつて僕は『妾宅(※)』という文章で、海鼠腸(このわた)が汚らしい桶に入っている様に、天然野生の粗暴さと雅致(がち)を見出したものですが……この回転寿司はどうです。
見てください、あの『ハンバーグ』や『コーンマヨネーズ』なるものが、酢飯の上に鎮座している様を。あれはもはや寿司ではない。化学的に製造された色付きの模造品です。しかし、その不調和極まりない極彩色の皿が、プラスチックのレーンを流れていく。この人工的な安っぽさ、まさに僕が銀座のカフェーで見た、石版摺(リトグラフ)の雑誌の表紙のような、薄っぺらで毒々しい現代の美学そのものじゃありませんか。

君はまたそうやって、何でもかんでも『現代の堕落』として楽しもうとする。
ハンバーグだと? まるで西洋の料理を無理やり和服に着替えさせたような奇妙な代物だな。
しかし、僕が気になるのは味よりも『人情』の欠落だ。昔は職人が目の前で握ってくれたものだ。そこには『へい、お待ち』という掛け声と、客との間の呼吸があった。
ここにはそれがない。あるのはあの『タッチパネル』という無機質な板だけだ。人間が機械に注文し、機械が運び、機械が勘定をする。まるで人間の方が、巨大な消化器官という機械の一部品になったような心持ちがするよ。

人間が機械の一部品……言い得て妙です。
しかし先生、職人の脂ぎった手を見ずに済むというのは、ある意味では衛生的で『文明的』なのかもしれませんよ。
僕はかつて、今の世の中には面白いことがなくなったと嘆き、隠居のように振る舞いましたが、この回転寿司の『安直さ』は、現代人がいかに手間や情緒を嫌い、ただ胃袋を満たすことだけに急いているかを雄弁に語っています。
見てごらんなさい、あの向こうの家族連れを。皿を積み上げることに競争のような熱意を燃やしている。あれは食欲というよりは、消費の快楽です。
……おや、先生。その流れてきた黄色い皿、『プリン』と書いてありますが、寿司屋で洋菓子とは、これいかに。

プリン? ……ふん、甘いものは嫌いじゃないが、酢飯のあとにプリンとは、どうも調子が狂うな。
だが、君の言う通りかもしれん。僕の小説に出てくる『高等遊民』たちも、現代に生きていれば、案外こういう場所で、回る皿を虚ろな目で眺めながら、人生の無意味さを語り合ったのかもしれんよ。
どれ、一つその『サーモン』とやらを取ってみるか。江戸前の仕事とは程遠い、脂ばかりの魚らしいが……。

ええ、どうぞ。
僕もその『炙りチーズサーモン』なる、ゲテモノ趣味の極みのような一皿を試してみましょう。
本来、芸術は国家と相容れず、食物は衛生と背反するところに真の味があるものですが……この清潔で、明るくて、安っぽいプラスチックの皿の上にも、現代特有の『哀愁』という味が乗っているかもしれませんからね。
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