【明治文豪、令和を歩く】第14回:タバコをたばかる
二人の文豪が現代の喫茶店(あるいはカフェー)の片隅で、電子タバコを前に紫煙をくゆらせながら雑談している

おい、荷風君。君はさっきからその妙な棒切れを口にくわえているが、それが近頃流行りの『電子タバコ』というやつかね。僕も一つ試しに吸ってみたが、どうも勝手が違う。火を使わずに煙が出るとは、まるで狐につままれたような話だ。文明の開化もここまできたかという感があるが、どうも味気ない。

漱石先生、これは煙ではありません。蒸気(ベイパー)と申すそうで。……ふゥ(と蒸気を吐き出す)。
僕が思うに、万物には進化の過程というものがあります。江戸の昔、山東京伝が吉原の風俗を観察したように、僕もまた銀座のカフェーで給仕女の姿を眺め、移り変わる世相を書き留めてきましたが、このタバコの変化もまた、現代という時代の『軽薄さ』を象徴しているようで興味深い。火を用いず、灰も出さず、ただ香りのついた水蒸気を吸い込む。まるで実体のない幽霊と戯れているような心地がいたしますよ。

幽霊とは言い得て妙だね。確かに、吸った心地がない。僕は胃弱だから、強いタバコは体に障るが、それでも朝日や敷島をパイプに詰めて、マッチでシュッと火をつける瞬間にこそ、精神の鎮静があるように思うのだよ。
この電子タバコとやらは、あまりに衛生的すぎて、毒気がない。現代人は『健康』という強迫観念に追われて、タバコという嗜好品からすら、その後ろ暗い楽しみを剥ぎ取ってしまったんじゃないか。これでは『猫』どころか、ネズミ一匹酔わせられんよ。

仰る通りです。毒気がなければ、薬にもなりません。
泰西(西洋)の詩人、ミュッセやヴェルレーヌがカフェーで詩想を練ったのも、あの紫煙の澱んだ空気があってこそでしょう。僕がかつて『偏奇館漫録(※)』に記したように、義理と褌(ふんどし)が欠かせぬものであった時代は去り、今や男は猿股を穿き、義理を欠くことを屁とも思わぬ世の中になりました。タバコもまた、煙たがられることを恐れ、周囲に媚びへつらうような、この電子の機械に成り下がったのでしょう。
……しかし先生、この『メンソール』なる冷たい蒸気、かつて僕が樹氷の美しさに心打たれた、あの冬の寒さを思い出させなくもありません。

樹氷か。君は相変わらず風流なことを見つけ出す天才だな。
しかし、僕にはどうもこの機械的な味が馴染めん。なんというか、今の世の中は『手間』を省くことばかりに執心している。火をつける手間、灰を落とす手間、その無駄の中にこそ人生の奥行きがあるというのに。ボタン一つで事足りるとは、人間が機械を使っているのか、機械に人間が吸わされているのか分からんね。
……まあ、それでも君がそうやって美味そうに吸っているのを見ると、少しは悪くないものに見えてくるから不思議だ。現代の『カフェー』で、電子の管をくわえて世相を嘆くのも、また一興というやつかね。

ええ。屋下に屋を架するような議論かもしれませんが、これもまた現代の『申訳』ない楽しみの一つということで。
先生も一本、いかがです? この『ブルーベリー味』というのは、なかなかどうして、駄菓子屋の飴玉のような懐かしさがありますよ。

ブルーベリー? けっ、タバコに果物の汁を混ぜるとは。……まあいい、よこしたまえ。せっかく現代に舞い戻ったのだ、そのハイカラな蒸気とやらで、僕の神経衰弱が治るか試してみるとしよう。
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