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【明治文豪、令和を歩く】第13回:ぶらりブラジル戦

現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

                                                                                                                  永井荷風

……表がやけに騒がしいと思ったら、どうやら日本が伯剌西爾(ブラジル)に勝ったそうじゃあありませんか。
驚きましたね。あのサッカーという競技におけるブラジルといえば、我々の世界で言うところのフランス文学、あるいは江戸の戯作者における山東京伝のような、絶対的な「本場」の権威でしょう。
それを極東の島国が打ち負かしたというのは、まさに痛快事だ。僕が『新帰朝者日記(※)』で書いたように、僕は権威や親に対する「反抗」こそが人生の幸福を破壊もし、また進歩の源泉にもなると信じてきましたが、今夜のこの勝利は、まさに世界に対する見事な反抗劇と言えるでしょう。

(※)初出1909[明治42年]中央公論
夏目漱石                                                                                                                       

君はそうやって、すぐに「反抗」という浪漫的な言葉で飾りたがる。
しかし、僕に言わせれば、これは驚天動地だよ。かつて僕は「現代日本の開化(※)」という講演で、西洋の開化は内発的だが、日本のそれは外発的で、無理に西洋に追いつこうとすれば神経衰弱になると説いた。
サッカーもまた西洋渡来の文明だ。体格も歴史も違う日本人が、あの王者相手に互角以上に渡り合い、あまつさえ勝利をもぎ取るとは……。現代の日本人は、僕が心配したような神経衰弱を通り越して、何か別の強靭な精神構造を獲得したのかもしれんね。

(※)初出1913[大正2年]実業之日本社

フフフ、強靭な精神、ですか。
僕はむしろ、彼らが着ているあの青いユニフォームに興味がありますよ。
僕は昔、『洋服論(※)』で嘆いたことがあります。日本人は洋服を着ると、どうも車掌か学生の制服のように見えてしまい、個性が死んでしまうとね。
今夜の街を見てごらんなさい。若者たちが皆、判で押したように同じ青い服を着て、同じ顔をして騒いでいる。あれは一種の軍隊か、あるいは巨大な幼稚園の遊戯のようです。
しかし、ブラジルという巨象を倒すには、個を捨てて集団という名の「制服」に身を包む必要があったのかもしれませんなあ。

(※)1981[昭和56年]岩波書店

君の観察眼は相変わらず意地が悪いな。
だが、その「集団」の力というのは認めざるを得ない。僕の『こころ(※)』の先生は、他人の心を理解できずに孤立して死んだが、彼らイレブンとやらは、言葉を交わさずとも意志を通じ合わせているようだ。
ただ、僕が懸念するのは、勝った後のこの騒ぎだ。
渋谷という交差点では、群衆が折り重なるようにして絶叫していると聞く。あれは喜びの表現なのか、それとも日頃の鬱憤を晴らすための暴動なのか。
勝利という美酒に酔って、自分を見失っているだけなら、それは文明人の姿とは言い難い。

(※)初出1914[大正3年]朝日新聞

おや、先生。僕はあの渋谷の狂乱、案外嫌いじゃあないですよ。
『新帰朝者日記』の頃の僕は、電車の乗客が無秩序に押し合う様を見て、日本人の共同生活の無能さを嘆きましたが、今夜のあれは、無秩序の中に一種の「祭礼」のような熱気がある。
それに、普段は澄ました顔をして、スマートフォンばかり覗き込んでいる現代人が、今日ばかりは牙を剥き出しにして吠えている。
僕が戦後の浅草で見た、裸体を見せる興行にも似た「剥き出しの生」を感じます。上品とは言えませんが、死んだように生きているよりは、よほど人間らしいじゃあありませんか。

「剥き出しの生」か。君にかかれば、フーリガンも裸踊りも芸術の一部というわけだ。
まあいい。確かに、ブラジルを撃破したという事実は、彼らにとっての一種の自信、あるいは救いになるのだろう。
かつて日露戦争の勝利に日本中が沸いた時、僕はその浮かれように危うさを感じたものだが、スポーツの勝ち負けなら、誰も血を流さずに済むだけマシかもしれん。
……しかし、サポーターとか言ったか。あの熱狂的な連中は、負けた時は手のひらを返したように選手を罵倒すると聞く。現代人の愛国心というのは、随分と移ろいやすい天気のようなものだな。

ええ。だからこそ面白いのです。
『日和下駄』を履いて天気任せに散歩するように、彼らの感情もまた、勝った負けたの結果一つでコロコロと変わる。
今夜は英雄、明日は国賊。その軽薄さこそが、現代という浮世の正体なのでしょう。
さあ、これ以上ここにいると、興奮した若者たちが雪崩れ込んでくるかもしれません。我々のような陰気な亡霊は、彼らの祝祭の邪魔にならぬよう、静かに裏口から消えるとしましょうか。

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