【明治文豪、令和を歩く】第9回:マーラータンは甘辛しゃん
現代の東京、とある賑やかな麻辣湯(マーラータン)の専門店にて。
スパイスの刺激的な香りが充満する店内で、夏目漱石と永井荷風がテーブルを挟んで向かい合っている。

いやはや、それにしても凄い熱気ですね、先生。この「麻辣湯」なるもの、近頃の東京の婦女子の間で流行していると聞きましたが、店内のこの喧騒、まるで震災後の仮設小屋か、あるいは祭礼の日の浅草のようです。僕がかつて見た巴里(パリ)のカフェーの優雅さとは似ても似つかぬ、何とも無秩序で、極彩色の光景じゃあありませんか。

君は相変わらず、何を見ても巴里だの江戸だのと比較したがるね。僕はね、この店に入った瞬間から、胃の腑が縮み上がる思いだよ。見てくれたまえ、あのショーケースに並んだ具材の山を。自分で好きなものを選べというシステムらしいが、これは文明の進歩に見えて、実は人間に過度な決断を強いる拷問のようなものだ。現代人は自由を求めすぎて、結局は夕飯の具材一つ選ぶのにも、己の自尊心と闘わねばならんらしい。

ハハハ、先生の神経過敏も相変わらずだ。しかし、その「自分で選ぶ」という点にこそ、現代人の滑稽なまでの自己顕示欲が現れていると僕は思いますよ。
僕が『濹東綺譚(※)』で書いた頃の路地裏の鮨屋でもそうでしたが、現代人は食事においてさえ、他人より少しでも優れたい、自分だけの特別な一杯を作りたいと躍起になっている。野菜をどれにするか、辛さをどうするか……その選択の一つ一つが、彼らにとっては一種の「戦場」なんでしょう。僕はそういう、生の欲望が剥き出しになった光景を見るのは、案外嫌いじゃあない。

君はそうやって一歩引いて人間観察を決め込んでいるから気楽でいい。僕はもう、この赤いスープを見ただけで胃潰瘍が再発しそうだ。「大辛」だの「激辛」だの、なぜ彼らは好んで痛みを摂取したがるのかね?
かつて僕はロンドンで神経をすり減らしたが、現代の東京もまた、別の意味で神経に悪い。この刺激は、平穏無事すぎて退屈な現代生活に対する、君の言うところの「反抗」の一種なのかもしれないな。

「反抗」、いい言葉だ。僕の生涯もまた、親への、そして世間への反抗でしたからね。退屈な日常に、この唐辛子の赤で一筆、強烈な悪戯書きをするようなものでしょう。
……さて、僕の丼が来たようだ。ほう、これは。春雨が透き通って、まるで隅田川の水面……とは言い難いが、この辣油の浮き具合、なかなかに毒々しくて美しい。一口、頂いてみますか。

よしたまえ。僕は豆腐と白菜を入れた一番辛くない「白湯(パイタン)」で十分だ。……(一口すする)……ふむ。
まあ、悪くはない。温かいものが腹に入ると、少しは心が落ち着く。しかし荷風君、君のそれは見ているだけで汗が出るよ。君は江戸っ子のくせに、そんな南蛮渡来の刺激物が食えるのかい?

食わず嫌いはいけませんよ。……(優雅に箸を運び、一口食べて目を見開く)……おや。これは……ッ!
成る程、これは舌を焼くというより、脳髄を痺れさせる感覚だ。僕が愛した三味線の音色が持つ「粋」な刺激とは違いますが、この暴力的なまでの香辛料の嵐、現代の無機質なビル街を生き抜くには、これくらいの荒療治が必要なのかもしれませんねえ。
それに、汗をかきながら夢中で麺をすするこの若い人々の顔、飾りがなくて、銀座で澄ましている連中よりよほど人間らしくて良い。

君は結局、何を食っても最後は「人間」の品定めに繋げるんだな。
……しかし、確かに。この痺れるような感覚、山椒の「麻(マー)」と言うんだったか。これが不思議と、頭の中にこびりついた憂鬱を一時的に麻痺させてくれるような気もする。現代人がこれに群がるのも、一種の麻酔を求めているからかもしれん。
やれやれ、僕も転生してまで、こんなハイカラな汁物に哲学を見出すことになるとは思わなかったよ。

違いない。さて、この一杯を食べ終えたら、どこか静かな喫茶店で甘い珈琲でも飲み直しに行きませんか。さすがにこの喧騒と刺激だけでは、僕のような老体には少々「過激」すぎますからね。

賛成だ。私の胃袋のためにも、次は胃薬の代わりになるような、優しい飲み物を頼むよ。
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