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【明治文豪、令和を歩く】第92回:天皇全能

東京の喧騒から少し離れた、静かな喫茶店の片隅で。漱石は琥珀色のコーヒーを、荷風は窓の外を眺めながら冷めた紅茶を手にしている

夏目漱石                                                                                                                      

荷風君、先ほど君が話していた『東宮還御』の日の賑わい……花電車や提灯行列の話を思い出していた。この国において、あのお方は単なる統治者という以上に、時代の屋根のような存在だ。明治という巨大な屋根の下で、我々は必死に己の学問や芸術を築いてきたが、その屋根が揺らぐたびに、我々の足元もまた、得も言われぬ不安に晒される。

                                                                                                                     永井荷風

左様でございますな、先生。明治二年に明治天皇が東京城に入られた折の話など、今となっては遠い神話のようですが、私の父の世代にとっては、それが新しい世界の幕開けでございました。しかし、私のような放蕩者から見れば、あのお方はあまりに高貴で、あまりに遠い。銀座の泥濘(ぬかるみ)を歩き、カッフェーの灯火に亡国の悲愁を感じている私にとって、宮中の静謐(せいずい)は、もはや別の星の出来事のように思えることもございます。

遠い、か。確かにそうだ。だが、その『遠さ』こそが、この国の形を辛うじて保っている重石(おもし)なのかもしれん。私はかつて、西洋の開化が内側からではなく外側から押し寄せてくることに、強い危惧を覚えた。その荒波の中で、我々が日本人としての自意識を失わずにいられるのは、盤石たるあのお方の存在が、心のどこかで座標の役割を果たしているからではないか。……もちろん、それが個人の自由を束縛する鎖になることもあるがね。

先生の仰ることはよく解ります。ですが、私はあの厳かな行列や、祝祭の騒ぎの中に、どこか空虚なものを感じてしまうのです。かつて江戸の戯作者たちが、幕末の国難をよそに悠々と浮世絵を描いていた、あの『不敵な無関心』に、私はむしろ惹かれます。あのお方を崇める声が大きくなればなるほど、私は独り、隅田川のほとりで石垣に腰を下ろし、冷たい露に濡れながら、消え去りゆく江戸の情趣を惜しんでいたいのです。

君のその『非国民』的な超然とした態度は、ある意味で非常に贅沢なものだ。私は、あのお方が崩御された時、一つの時代が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。それは、単なる制度の終わりではなく、我々を生かしていた精神の支柱が折れるような感覚だった。今の世の若者たちが、あのお方を歴史の一頁として軽々しく扱うのを見ると、彼らがこれからどこへ漂流していくのか、いささか案じられるよ。

時代は移ろい、日本の風土は人をして早く老いさせる力を持っております。あのお方が象徴した重厚な明治も、今や令和の軽薄な空気の中に溶け込もうとしている。私は、政治を論じたり国事を憂いたりする器ではございませんが、せめてあのお方が愛されたこの国の山河が、これ以上、騒々しい文明に汚されぬことを願うばかりです。先生、この紅茶もまた、あのお方が見守られた明治の香りがいたしますな。

……そうかもしれない。この琥珀色の液体の中に、過ぎ去った日々の静寂が閉じ込められている。あのお方がいらっしゃったからこそ、我々はこうして安心して、孤独や芸術について語り合えるのかもしれん。荷風君、外はまた雨が降り出したようだ。この静かな雨音さえも、あのお方が統べられたこの国の、変わらぬ調べの一つだと思うと、少しは心が落ち着くというものだよ。

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