【明治文豪、令和を歩く】第93回:ひな祭りにわたつみ
東京の喧騒から少し離れた、静かな喫茶店の片隅で。漱石は琥珀色のコーヒーを、荷風は窓の外を眺めながら冷めた紅茶を手にしている

荷風君、先ほど表の角の菓子屋を通りかかったら、桃の節句だというので随分と華やかな雛人形が飾られていたよ。どうも私は、あの整然と並んだ人形の顔を見るたびに、どこか遠い時代の亡霊に見つめられているような、落ち着かない心地がしてね。君はこうした江戸の残り香が漂う行事には、人一倍思い入れがあるのではないか。

左様でございます。私にとっては、ひな祭りというものは、単なる子供の祝い事というよりは、過ぎ去った時代の風俗を今に留める、一幅の錦絵のようなものでございます。かつて明治の初年、両国の旗亭や築地の界隈で、芸者衆が座敷の隅に古風な雛を飾り、白酒を酌み交わしていた……あの、どこか物悲しくも艶やかな風景が、目に浮かぶようです。今の世の雛飾りは、どうも色彩が派手すぎて、かえって寂寥を感じさせますがね。

なるほど、白酒か。私は下戸だが、あの濁った液体の底に沈んでいる甘みには、どこか子供の純真さと、大人の隠し事が混ざり合ったような、不思議な趣を感じる。だが、人形というのは、一度飾り終えてしまえば、あとはただ時が過ぎるのを待つだけの静止した存在だ。それが、どうにも我々文士の、原稿用紙の上で思考を止めてしまった瞬間の空虚さに似ていて、少しばかり寒気がするのだよ。

先生は相変わらず、物事を裏側から眺められる。私は、あの雛壇のしつらえに、失われゆく『秩序』の美しさを感じます。三月九日の夜、私が麻布の家で蔵書が灰になるのを悠然と眺めていた時、ふと思い出したのは、かつて浅草の劇場の楽屋で見た、踊子たちのささやかな雛飾りでした。戦火や震災で街がどれほど様変わりしようとも、季節が巡れば桃の花を供え、人形を並べる。その執拗なまでの反復にこそ、日本人の情趣が凝縮されている気がいたします。

執拗な反復、か。確かに、我々がいくら新しい文明を気取ってみたところで、心の奥底では、ああした古い形式に縋らねば生きていけぬのかもしれん。だが荷風君、君のように独りで墨堤を歩き、桜の点々と開くのを愛でる者にとって、あの雛壇の賑やかさは、少々『世間』が近すぎはしないかね。私は、あの並んだ五人囃子の太鼓の音が、幻聴のようにこの喫茶店まで響いてくる気がして、どうにも落ち着いて茶を啜れんよ。

ふふ、先生。それならば、このひな祭りの喧騒も、一つの『芝居』だと思えばよろしい。私たちは観客席の隅で、冷めた紅茶を手に、舞台の上の人形たちが演じる古き良き日本を眺めているだけです。表通りの下駄の音がどれほど稠(しげ)くなろうとも、私の心は、あの震災前の静かな向島の廃園にございます。雛人形が片付けられた後の、あの何とも言えぬがらんとした空間……あそこにこそ、我々が愛してやまない真実の寂寥が潜んでいるのですから。

がらんとした空間、か。それはまた、君らしい見立てだ。よし、今日ばかりは私も、あの赤い毛氈の上に座らされた内裏雛のつもりで、この騒々しい現代という時代を、無言のまま見届けてやるとしよう。勝手に世間が祝い、勝手に季節が過ぎ去るのを、ただ黙って見つめているのも、悪くない隠居の愉しみかもしれんね。
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