【明治文豪、令和を歩く】第89回:どこへ行くリメイク
少し煤けたような、それでいてどこか懐かしい電球の光が灯る喫茶店の片隅で、二人の文豪が向かい合っている。漱石は琥珀色の紅茶を啜り、荷風は手元の古びた手帳を閉じて、活動写真のぱんふれっとを眺めている。

荷風君、先ほどから表通りの騒がしいことと言ったら。どうやら昔流行った物語や絵草紙を、今の世の技術で化粧直しして売り出すのが流行っているらしい。彼らはそれを『りめいく』と呼ぶそうだが、君はどう思うね。古い着物の仕立て直しのようなものかな。

左様でございますな、先生。私にはそれが、かつて明治の初年に、江戸の戯作を無理やり西洋風の綴じ本に仕立て直した、あの『東京新繁昌記』のような、どこか不純で混乱した試みに見えてなりません。古い名作の骨組みだけを借りて、中身を現代の派手な色彩で塗り潰す……。それはそれで今の若者には受けるのでしょうが、我々のように過ぎ去った時代の残り香を愛しむ者には、少々眩しすぎる光景です。

全くだ。物語というものは、その時代の空気や、書き手の苦悶が紙の裏まで染み込んでいるからこそ価値がある。それを今の便利な道具でなぞったところで、表面の形は整っても、肝心の『魂』が置き去りにされているような気がしてならない。私が昔、原稿用紙の升目と格闘しながら絞り出した言葉も、今の世で『りめいく』されれば、案外、軽薄な喜劇に成り下がってしまうかもしれん。

ふふ、先生の『坊っちゃん』などは、今の世なら格好の題材にされそうです。ですが、私は思うのです。たとえどれほど新しく作り変えられようとも、真に価値のあるものは、その底に流れる情趣までは消し去れない。私が隅田川の濁った流れの中に、かつての人情本の風景を幻視するように、鋭い読者であれば、新しい装いの中に隠された古き良きものの片鱗を見出すはずです。

なるほど、君は楽天家だね。確かに、古い建物を壊して煉瓦造りに変えたところで、そこに住む人間の業や悲哀が変わるわけではない。しかし、こうも次から次へと『新しい古物』が溢れると、どれが真実でどれが紛い物か、判別がつかなくなる。今の世の人間は、過去を懐かしんでいるのか、それとも単に新しい刺激を求めて過去を消費しているだけなのか……。その境目が、どうにも曖昧でいけない。

それは、現代という時代そのものが、鵺(ぬえ)のような正体不明の姿をしているからでしょう。私は、そんな騒々しい巷の『りめいく』には目もくれず、静かに古書を紐解き、かつての文士たちが遺した墨の跡を愛でていたい。先生の書簡を枕屏風に貼って眺めていたあの頃のように、本物だけが持つ静かな力を信じていたいのです。わざわざ色を塗り直さずとも、色褪せたままの美しさが、そこにはありますから。

……色褪せたままの美しさ、か。君にそう言われると、私の古びた物語も、そのまま放っておいてほしいという気分になるな。無理に若返らせて、無理に笑いを取るような真似は、真っ平御免だ。紅茶が冷めてしまった。今の世の『りめいく』とやらも、この冷めた茶のように、後味だけが虚しく残るものでなければ良いのだがね。
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