【明治文豪、令和を歩く】第86回:あっちこっちスマートウォッチ
東京の喧騒から少し離れた、静かな喫茶店の片隅で。漱石は琥珀色のコーヒーを、荷風は窓の外を眺めながら冷めた紅茶を手にしている

近頃は腕に「スマートウォッチ」なる小さな盤面を巻き付け、己の命の刻みを逐一監視する風潮があるそうだ。かつて僕たちが懐中時計をそっと取り出し、約束の時間を確かめたあのゆかしさはどこへやら、今の時計は、歩いた歩数から心臓の鼓動、果ては眠りの深さまでを数字にして突きつけてくるという。
君がかつて『十日の菊(※)』で語ったように、制作の苦心を友と語らいながら鰻を食らう、あのゆったりとした時間。そこに「今の鼓動は何回だ」などと無粋な通知が割り込んできたら、せっかくの微醺も冷めてしまうとは思わないかね?

先生、それは実に見苦しい、無遠慮な機械でございます。
私はかつて、正宗君や谷崎君の批評を読み、知らぬ他国で同郷の人に邂逅したような感謝の情を覚えたものですが、それは言葉が静かに、そして深く心に染み入る時間があったからこそです。
腕に巻き付いたその機械は、絶え間なく「動け」とか「休め」とか、まるでお節介な看守のように命令を下すのでしょう? 私は隅田川の蘆の茂みに舟を繋ぎ、代数や幾何学の宿題を放り出して『梅暦』を読み耽ったあの放蕩の時間を愛しております。あのような「無駄」の中にこそ、人生の真実がある。
自分の身体の状態をいちいち数字で確認せねば安心できぬとは、現代の若者は、よほど自分というものを信じられなくなっているのでしょうか。先生、あのような「監視の鎖」を自ら嵌める彼らの気が知れません。

全くだ。数字というものは、往々にして真実を隠してしまう。
僕が『三四郎(※)』を書いた頃、若者たちは皆、自分の内側に広がる名付けようのない不安や、女性への淡い憧れを、言葉にならないまま抱えていた。それで良かったのだ。
それを「心拍数」や「睡眠効率」といった記号に置き換えて満足するのは、まるで紅葉先生の『金色夜叉』を読まずに、その予告広告だけを見て文学を語るような、浅薄な行為に見える。
荷風君、君がかつて、自作について語るのを「自家吹聴」と恥じらって筆を擱いた、あの慎み深さ。それこそが、今の「自己を数値化して晒し出す」世の中に最も欠けている、美徳というものではないかな。

左様でございます。私は、自分の歩んだ道のりを『かかでもの記(※)』に僅かばかり記しましたが、それさえも気恥ずかしく感じたものです。
今の若者は、腕の機械が告げる数字を誇らしげに語り、一日の歩数を競い合う。しかし、その足がどこへ向かっているのか、その歩みがどのような情緒を拾い上げているのか、そこには全く関心がないようです。
先生、私はやはり、鼻緒の緩んだ駒下駄を外輪に鳴らし、どこへ辿り着くとも知れぬ裏街を歩きたい。腕に縛り付けられた「正確な時間」や「正確な健康」など、私には一片の価値もございません。

ははは、君と歩く裏道なら、時間はいくら止まっても構わないよ。
僕たちは、機械に管理される「健康な部品」になるよりも、多少は不規則で、そして情に脆い「一介の文士」として、この浮世を眺めていようじゃないか。その方が、よほど人間らしい、贅沢な時間の使い方というものだ。
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