【明治文豪、令和を歩く】第82回:徴兵制どうにかせい
喫茶店の窓辺、二月の明るい日差しがテーブルの上の白磁のカップを照らしている。漱石は手元のカレンダーを眺め、荷風は懐から取り出した古びた手帖に目を落としている

先生。「徴兵制」という不穏な響きが、またぞろ現代の空気の中に漂い始めているようです。私はかつて、寄席の楽屋で落語家の前座を務め、萌黄の風呂敷を背負って歩いた放蕩の徒ですが、あの頃の徴兵というものは、我々のような芸術を愛でる者にとっては、まさに「生活の死」そのものでした。
若者がその最も多感な時期を、国家という巨大な機械の部品として差し出さねばならぬ。隅田川の蘆の茂みに舟を隠して、江戸文学の情趣に浸るような贅沢は、そこでは一切許されない。個人の嗜好も、伝統への愛着も、すべては一律の制服の下に圧殺されてしまう。先生、国家が個人の時間を根こそぎ奪い去るというこの制度、あなたはどうご覧になりますか?

荷風君、君の言う通りだ。僕もかつてロンドンで、霧の中に消えていく群衆を眺めながら、国家というものの重圧を肌で感じたことがある。
徴兵制というものは、いわば「自己」という尊い果実を、国家という巨大な臼で粉々に砕き、均一な粉末にしてしまうようなものだ。君が愛した江戸の情緒も、僕が追い求めた個人の内面も、銃剣の輝きの前では、ただの「雑音」として処理されてしまう。
現代の若者たちが、画面の中で「個」を主張し合っているその裏側で、もし再びこのような制度が頭をもたげてくるとすれば、それは文明の進歩などではなく、単なる「野蛮への回帰」に過ぎない。人間を数として数え、効率よく配置する。そこには、三四郎が迷い込んだような「青春の戸惑い」さえ許されない、冷酷な合理主義があるだけだ。

全くでございます。私はかつて、森先生が渋江抽斎の伝記で描かれた、あの江戸の武士たちの節度ある暮らしに憧れを抱きました。しかし、近代の軍隊が求めるのは、そのような高潔な精神ではなく、ただ命令に服従する肉体だけです。
私がかつて大川の水に飛び込み、巡査の目を盗んで悪口を叩きながら泳いだあの自由――あのような「稚気」こそが、芸術の源泉ではないでしょうか。徴兵という制度は、そうした人間の遊び心を根絶やしにし、魂を枯渇させてしまう。
先生、もし今の世にそのような制度が戻れば、文学も美術も、ただ国家を飾るための「書割」に成り下がってしまうでしょう。

その通りだね。芸術とは、本来「無用の用」であって、国家の役に立とうとした瞬間に、その命を失うものだ。僕たちが苦心して言葉を紡いできたのは、決して誰かの号令に従うためではない。
自分自身の内側に広がる、名付けようのない不安や、あるいは小さな喜びを、そのままの形で守り抜くためだ。徴兵という荒々しい風が吹けば、僕たちが大切にしてきたその「個の聖域」は、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうだろう。
荷風君、君が萌黄の風呂敷を背負って歩いたあの日の自由を、僕は今更ながら、この上なく尊いものだと感じるよ。国家のために死ぬことよりも、自分の愛するものと共に生きることの方が、はるかに困難で、そして価値のあることなのだ。
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