【明治文豪、令和を歩く】第81回:円滑婚活チキンカツ
喫茶店の窓辺、二月の明るい日差しがテーブルの上の白磁のカップを照らしている。漱石は手元のカレンダーを眺め、荷風は懐から取り出した古びた手帖に目を落としている

さて、近頃は「婚活」という言葉が、まるで徴兵か何かの義務のように世間を騒がせているようだ。僕のいた頃も、津田君のように叔父夫婦の差配で、顔もよく知らぬ相手と結ばれる例はあったが、現代のそれはもっと組織的で、かつ即物的な趣がある。
条件を並べ立て、釣書をデジタルな電波に乗せて飛ばし合う。そこに「愛」や「情」が介在する余地があるのか、甚だ疑問だよ。荷風君はどう思うね?

「婚活」……。この言葉の響きからして、私には耐え難い。結婚という、本来ならば路地裏の夕闇に消えるような個人的な情事が、今や「活動」という名の社会的な義務に成り下がってしまいました。
私は常々、妻帯という生活が自分には適さないと考えてきました。配偶者の親族との付き合い、行きたくもない劇場への同行、お世辞ばかりの会食……。独り身の気楽さを知れば、あのような騒がしい市場に自らを投げ出す若者たちの気が知れません。先生、彼らは一体、何を求めてあそこまで必死になるのでしょうか。

僕の小説に出てくる三四郎のように、女性の美しさに迷い、その一挙手一投足に戸惑うくらいの余裕があればまだ救われるがね。現代の「婚活」は、失敗を恐れるあまり、最初から正解の数式を解こうとしているように見える。
しかし、原口さんが言ったように、結婚は「離合集散、ともに自由にならない」ものだ。どれほど条件を精査したところで、人間という複雑な生き物が一つ屋根の下に暮らせば、必ずや摩擦が生じる。それをごまかすために、また別の「活動」が必要になる。これではまるで、尾を噛む蛇のような滑稽さだ。

左様でございます。私の知る向島の隠居などは、形ばかりの盃事で、静かに余生を共にする道を選びました。そこには光琳の軸を愛でるような、共通の風雅があった。
今の婚活とやらに、そのような「情緒の合致」を求めるのは酷というものでしょうか。画面越しに年収や年齢を品定めする彼らの瞳には、隅田川の川面に映る月影を美しいと感じる心など、もはや残っていないのかもしれません。
先生、あのような場所で出会っても、結局は「社交の苦痛」に耐え忍ぶ日々が待っているだけではないでしょうか。

確かにね。社交を厭う者が無理に世間の型に嵌まろうとすれば、待っているのは自己の喪失だけだ。
僕には、現代の若者が「一人でいることの寂しさ」よりも「世間から取り残される恐怖」に突き動かされているように見えてならない。
婚活という名の戦場で、彼らは自分という個性を削り取り、平均的な「良き夫」「良き妻」という偶像を演じている。それは、僕がかつて見た、外見ばかりを飾る現代建築や、安っぽい柩車と同じような空虚さを孕んでいる気がするよ。
荷風君、君のように「独り」を貫く覚悟を持つのも、今の時代には一つの高等な生き方なのかもしれないね。
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