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【明治文豪、令和を歩く】第78回:くやしき葬式

喫茶店の片隅、漱石は新聞の片隅にある知人の訃報を眺め、荷風は手元の『先哲叢談』を閉じて溜息をつく。表の通りを、黒塗りの車が静かに通り過ぎていった

夏目漱石                                                                                                                        

荷風君、また一人、古い知人が逝ったよ。長与さんの時もそうだったが、自分が生死の境を彷徨っている間に、自分を案じてくれていた人が先に門を潜ってしまうというのは、何とも割り切れぬ皮肉なものだ。葬式という儀式は、残された者が自らの踏み止まった場所を確認するための、寂しい句読点のようなものだな

                                                                                                                       永井荷風

左様でございますね。私も先日、井上唖々子の最期を看取りましたが、彼のような男が四十を少し越したばかりで世を去り、あとに残されたのは、ただ風通しの良い座敷と、古本の山ばかり。葬儀に白い鳩を贈るなどという西洋風の真似事をする向きもあるようですが、宗旨も持たぬ我らには、あのような虚飾はかえって死者への侮辱に思えてなりません。私は江戸の伝統に安んじる者。死して後は、ただ静かに土へ還りたいと願うばかりです

全くだ。昨今の葬礼は、個人の生涯を偲ぶというより、残された者の世間体を取り繕うための、一種の社交場の観がある。私は修善寺で一度死に損なった際、青い畳や塗り替えたばかりの壁に囲まれて、死というものが案外、日常の延長線上にあることを知った。仰々しい読経や、義理一遍の弔辞など、死者の耳には届かぬ空ろな響きに過ぎんよ。人間、死ぬ時くらいは、誰にも邪魔されず、己の業と静かに向き合いたいものだ

仰る通りでございます。私は、クリスマスに浮かれる世間が、洗礼も受けぬまま贈物を交わす無節操さを冷笑してまいりましたが、葬儀もまた、それと同じような無自覚な習慣に支配されている。儒教が説くように、死後のことは問わず、ただ生前の道徳を全うすればそれで十分。私は、深夜の天井裏を走る鼠の音や、窓を撲つ雨の音を聞きながら、日本という風土が育んだ寂寥の中に、独り消えていきたい。立派な墓も、賑やかな葬列も、私には無用の長物でございます

ははは、君らしいな。私も、自分の葬式に代理を立てられたり、訃報を秘せられたりするのは、もう御免被りたい。生きている間に十分に苦しみ、十分に迷ったのだから、最後はただ『お疲れさん』と一杯のコーヒーでも供えてもらえれば、それで本望だよ。死は生の終止符ではなく、ただの長い休息。それを無理に飾ろうとするのは、人間の傲慢というものだ

ええ。森先生が描かれた渋江抽斎のような、淡々とした、しかし揺るぎない生と死の在り方。あのような潔さこそが、今の世からは失われてしまった。先生、我々がこうして生きながらえているのも、何かの因縁でしょうが、せめて最期は、あのような騒々しい式典に巻き込まれぬよう、今のうちに固く言い置いておかねばなりませんね

そうだな。だが荷風君、死を語るには、今日のこのコーヒーは少々旨すぎるようだ。死後の安心を論じるよりも、まずはこの一杯を飲み干して、生きている実感を胃の腑に収めることにしようじゃないか

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