【明治文豪、令和を歩く】第83回:ツイッターばけらった
喫茶店の窓辺、二月の明るい日差しがテーブルの上の白磁のカップを照らしている。漱石は手元のカレンダーを眺め、荷風は懐から取り出した古びた手帖に目を落としている

さて、今の世の中だが、「ツイッター」という、実に見境のない瓦版のようなものが流行っているそうだ。鳥のさえずりを意味する名だというが、僕の目には、あれはさえずりというよりは、無数の人間が檻の中から一斉に叫び声を上げている、奇妙な博覧会のように映る。
自分の思想や、今食べた飯の献立、あるいは通りすがりの他人への悪評を、わずか百数十文字の断片にして放り出す。君なら、あの喧騒をどう眺めるかね?

先生、あれはもはや「文学」の対極にある、ただの「排泄」でございますよ。
私はかつて、木場貞君や白井巍君といった青年たちから、文壇の消息や出版界の裏話を聞くのを楽しみとしておりました。しかし、それは西窓に燭を剪るような、静かな対話の中でのことです。
今のこの「ツイッター」とやらは、路地裏の情緒も、沈黙の美徳もすべて踏みにじっている。誰もが自分を「先生」に見せかけようとし、あるいは匿名という仮面を被って、日傘をさして歩く婦人に泥を投げつけるような真似を平気でする。
私は、自作の批評を雑誌で読む際にも、谷崎君や正宗君のような、真に文を解する人の言葉であればこそ、感謝の念を覚えたものです。しかし、あの画面に流れる無数の言葉は、ただの「砂」に過ぎません。先生、あんな場所で、真実の言葉を紡ぐことなど可能なのでしょうか。

いや、不可能だろうね。言葉というものは、ある程度の重みと、それを取り巻く余白があって初めて、読者の心に届くものだ。
僕が『三四郎(※)』を書いた時、田山花袋君が「あれはズーデルマンの筆法だ」と見当違いなことを言ったが、それに対して僕が答えたのも、やはり相応の紙幅を割いてのことだった。
今のツイッターでは、誤解を解くための言葉さえ、さらなる誤解の種になる。人々は、活きている人間を観察するのではなく、画面の中の「記号」を叩いて喜んでいる。それは、君が愛した江戸の戯作者たちが持っていた「粋」や「通」とは、正反対の、極めて野卑な振る舞いだ。

先生のおっしゃる通りです。
あそこには、私が古書肆の店頭で老眼鏡をかけ替えてまで探したような、古き良き時代の薫りなど微塵もありません。あるのは、剥き出しの自己顕示と、それを嘲笑う群衆の視線だけです。
私は、自分の生活を「かかでもの記(※)」に綴った際も、自家吹聴に過ぎぬかと気恥ずかしくなって筆を擱いたものですが……。現代の若者は、恥じらうこともなく、己の全生活をあのような騒がしい市場に晒し続けている。
先生、私はやはり、偏奇館の庭に咲く一輪の花を眺め、静かに筆を走らせる生活を選びたい。あのような、絶え間なく言葉が降り注ぐ嵐の中に身を置くのは、到底私には堪えられません。

同感だ。僕も、あの喧騒の中に放り込まれたら、きっとまたロンドンの下宿で独り震えていた頃のような、深い孤独に陥ってしまうだろう。
言葉は、もっと大切に、そしてもっと個人的に使われるべきものだ。
荷風君、僕たちはこれからも、あのような電波の海からは離れて、静かに古書の頁を捲り、時折こうして言葉を交わすことにしようじゃないか。その方が、よほど「文明的」な過ごし方というものだよ。
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