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【明治文豪、令和を歩く】第85回:自動運転車なんじゃ

喫茶店の窓辺、二月の明るい日差しがテーブルの上の白磁のカップを照らしている。漱石は手元のカレンダーを眺め、荷風は懐から取り出した古びた手帖に目を落としている

夏目漱石                                                                                                                       

荷風君、僕がいた頃の東京も、馬車や人力車に混じって、あの無遠慮な音を立てる鉄の塊が我が物顔で通りを闊歩し始めていたが、現代のそれはもはや、運転する人間さえ必要とせぬ「自動運転」なるものに進化を遂げたそうだ。
行き先を告げれば、機械が勝手に路地を曲がり、信号を読み取り、音もなく目的地へと運んでくれる。便利といえばこれほど便利なものはないが、果たしてそこに、君が愛した「日和下駄を鳴らして歩く裏町の風情」が入り込む隙間があるだろうか。

                                                                                                                     永井荷風

先生、仰る通りでございます。私はかつて、自動車の騒音を避けて、日の当たらない裏道へと逃げ込み、そこにこそ我ら一族の悲哀と興味を見出してまいりました。
あの「自動運転」とやらは、道端の淫祠に目を留めることも、崖の上から吹いてくる風に揺れる氷屋のビラに心を動かすこともない。ただ最短の距離を、機械的な正確さで突き進むだけです。
裏町でふと耳にする、十五、六の小娘がさらう清元の哀調――。あのような魂を刺す音色に、ふと歩を止める。そんな「道草」の美学を、今の世の機械は理解できるのでしょうか。目的地に早く着くことばかりを競い、途中の景色を「無駄」として切り捨てる。それは鳳凰の頸を絞めて、その羽をむしり取るような、無味乾燥な文明の暴挙に思えてなりません。

全く同感だ。独仙君が碁を打つ時に「考える暇もありゃしない」とこぼしていたが、自動運転というのも、人間に「迷う暇」や「後悔する暇」さえ与えない。
僕の小説に出てくる三四郎が、故郷から出てきて汽車の中で広田先生に出会った。あの偶然の出会いや、そこから始まる戸惑いこそが、人生の醍醐味ではないか。
機械がすべてを差配し、人間をただの「荷物」として運ぶようになれば、車中での思索も、窓外の風光への感興も、すべては効率という名の下に磨り潰されてしまう。君が日和下駄をカラカラ鳴らして歩いた、あの不自由で、かつ自由な足取りが、今の世には一番欠けているものなのかもしれないね。

先生、私はやはり、電気燈の下で演奏される音曲に伴って行くことができないように、この「自動運転」の世俗にも馴染めそうにありません。
たとえ世の中から除外された固陋偏狭な者と呼ばれようとも、私は自分の足で、泥道を、そして淫祠のある裏通りを、よろよろと歩んでいきたいのです。
自分で自分の身を抓って、その痛みに涙ぐむような、そんな泥臭い人間らしさこそが、文学の源泉なのですから。

ははは、君らしいね。僕も、迷亭君のようなせわしない男に急かされるよりは、君とこうして、一歩一歩の重みを確かめながら、果てしない雑談の旅を続けていたいよ。
文明がどれほど速く進もうとも、僕たちの言葉だけは、あの懐かしい東京の夕闇の中を、ゆっくりと彷徨い続けようじゃないか。

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