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【明治文豪、令和を歩く】第35回:熊またたく間

現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

夏目漱石                                                                                                                       

荷風君、先ほどから新聞の片隅を眺めては眉をひそめているが……。近頃は山から下りてきた熊が、人里で暴れているという記事が絶えないようだね。僕が『吾輩は猫である(※)』で描いたあの平和な書斎の庭に、もし熊などが迷い込んできたら、それこそ主人の逆上も、山賊を叱る高山彦九郎どころの騒ぎでは済まなかったろうな。

(※)初出1905年[明治38年]ホトトギス
                                                                                                                       永井荷風

ええ、先生。しかし私は、あの荒ぶる獣たちが、アスファルトで固められた現代の無機質な街に現れるのを、どこか象徴的な出来事のように感じております。文明という名の檻が、あまりに窮屈になりすぎて、自然の側が、その不自然な静寂を食い破ろうとしているのではないかと。かつて私が巴里や米国の田舎で、土の匂いに安らぎを覚えたあの野性が、今は悲劇的な形で都会に逆襲を仕掛けてきているようでございます。

野性の逆襲、か。確かに現代の開化は、あまりに内発的な生命力を無視して、外側からばかり体裁を整えすぎている。人間は熊を『害獣』と呼んで排除しようとするが、実は自分たちも、文明という名の精巧な檻の中で、精神的な飢えに喘いでいる熊のようなものではないかね。僕がかつてロンドンで、霧に包まれた街を彷徨いながら感じたあの孤独な焦燥……。それは、居場所を失って人里に現れた熊の、あの絶望的な眼差しとどこか通じるものがある気がするんだ。

先生の仰る通りでございます。今の世の中は、あまりに清潔で、あまりに明るすぎる。私は雨の降る泥濘(ぬかるみ)の本所を歩き、捨てられた花びらや、零落した人々の姿にこそ、真の情趣を感じてまいりました。しかし現代人は、あの熊の毛並みの汚れや、生々しい獣の匂いを、ただただ忌まわしいものとして遠ざける。彼らが愛するのは、画面の中の愛くるしい記号としての熊ばかりで、真実の生を象徴する、あの恐ろしくも美しい荒ぶる魂には、もはや触れることさえ叶わないのでしょう。

そう、彼らは熊を『キャラクター』に変えて消費し、本物の熊が来れば鉄砲を向ける。それは、僕たちが小説の中で描こうとした人間の複雑な内面を、現代の人々が『スタンプ』一つで片付けてしまうのと似ているね。……ねえ、荷風君。もし僕が今、あの熊のように、この整然とした現代社会に対して、ただ一言『馬鹿野郎』と怒鳴り散らしたら、人々はどう反応するだろうか。やはり、保健所に通報されてしまうのかね?

(苦笑して)それは恐らく、熊が現れるよりも大きな騒ぎになるでしょうな。文明の敷居を跨いだ瞬間に、私たちは『人間らしい行動』という名の不自由な着物を着せられる。先生のような頑固な魂は、今の世では、熊以上に扱いにくい『絶滅危惧種』かもしれません。……ですが、私はそんな先生の、醋をかけても火炙りにしても癒えぬその頑固さこそが、この空疎な現代において、唯一の救いであるように思えてならないのです。

ははは、君にそう言われると、僕も少しは熊に近い存在になれたようで、悪い気はしないね。……さて、荷風君。表の通りを歩くときは気をつけたまえよ。君のような、失われた東京の残影を追いかけて路地裏を徘徊する者は、現代の監視の目からは、山から下りてきた得体の知れぬ獣と同じように映っているかもしれないからね。

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