【明治文豪、令和を歩く】第36回:硬派に紅白歌合戦
漱石が銀座のカフェの片隅で珈琲を啜っている。向かいには、和服の上にインバネスを羽織り、どこか世捨て人のような風情を漂わせた荷風が、所在なげに外の景色を眺めている

……荷風君、先ほどから街のあちこちで耳にするあのにぎやかな騒ぎは何だい。聞けば、大晦日には『紅白歌合戦』なる催しがあるそうじゃないか。現代の日本人は、一年の締めくくりに寄席へ行くのでもなく、家で静かに除夜の鐘を聴くのでもなく、あのように電光の中に集うのかね

先生、あれは今の世の『お祭り』ですよ。かつての江戸の祭礼が形を変えたようなものかもしれません。ただ、情緒というものがまるでない。強烈な電灯の光に照らされて、断髪の女子や派手な衣装の男たちが歌い踊る……。私はどうも、あの蓄音機を何千倍にも大きくしたような騒音には馴染めませんな

ふむ。私も少しばかり覗いてみたが、どうにも落ち着かない。舞台の上で男女が組に分かれて競い合うというのは、いかにも西洋風の合理主義が、日本の湿り気のある情緒を乾燥させてしまった成れの果てのように見える。歌というものは、もっと個人の胸の内に、ひっそりと湧き上がる水のようなものであってほしいのだがね

全くです。今の歌手とやらは、喉を震わせて叫ぶばかりで、柳亭種彦の時代の艶っぽさもなければ、明治の寄席の芸人が持っていた、あの『粋』の微塵も感じられない。私などは、銀座の柳の苗木の下で、ひっそりと三味線の音でも聴いている方が、よほど心が安まります。あのような大舞台は、どうにも私の肌には合いません

ははあ、君はやはり江戸の残り香を求めているのだね。しかし、あの番組を熱狂的に見守る大衆の姿を見ていると、現代という時代の『焦燥』を感じずにはいられない。一分一秒を惜しむように、次から次へと新しい曲を繰り出し、勝ち負けを競う。まるで、立ち止まることを忘れてしまった機関車のようだ。私の書いた『三四郎(※)』の広田先生なら、きっと鼻で笑って、書斎へ逃げ帰ってしまうだろうな

私も同感です。私はもう老眼鏡の曇りを拭いている間に、この昭和……いや、令和の世相がどんどん変わっていくのを、ただ呆然と眺めているばかりの敗残者ですよ。あのような華やかな場に身を置く勇気もありません。ただ、一つだけ感心するのは、あれだけの人間が、同じ時間に同じ歌を聴くという、その奇妙な一体感です。かつての勧進相撲のような、一種の熱気だけは認めざるを得ない

一体感か……。それは、個人の内面を置き去りにした、群衆の熱狂に過ぎないのではないかな。まあ、餅でも食いながら、炬燵で眺める分には、これも一つの『浮世』の姿として面白いのかもしれないが。どうだい荷風君、たまにはあのような俗な世界を、君の筆で冷ややかに写生してみる気はないかね?

よしてください、先生。私はただ、市井の片隅で、消えゆく風俗を記録する操觚者の末に過ぎません。あのような強烈な光の中に、私の居場所はありませんよ。私は、番組が終わった後の、あの冷え冷えとした深夜の静寂こそが、現代における唯一の救いのように思えるのです
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