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「哲学カフェ」をテーマにした友人の修論を読んでみた


「哲学カフェ」をフィールドワークした友人が書いた修論を読んでみました

修論を読ませてもらった経緯

最近ちょっと仲良くしてもらってる大学院生が書いた修論を読んでみたので、その感想などなどを書いていこうと思います。

彼女はある哲学カフェ(修論中では「対象団体」と書かれているので、この記事でも具体名には触れないことにします)で出会った人です。彼女は運営の1人で、さらに「大学院で『哲学カフェ』をテーマに研究している」ということで、僕が参加し始めた頃はまさに、運営や参加者に色々とインタビューしている時期でした。で僕は、まだ3回ぐらいしか参加していなかったのに、「こいつは何度も来てる常連だろう」と思われて声が掛かったみたいです(笑 後に本人からそういう話を聞きました)。

それで、その修論がようやく完成したとのことで読ませてもらうことにしました。実は論文を読むのは初めてだったりします。僕は大学を中退しているので卒論を書いていないし、論文を読む機会もなかったので、そういう意味でも新鮮でした。

というわけで、あまり内容に触れすぎないようにあれこれ書いていくことにしましょう。

「先行研究」を踏まえた上でのフィールドワークのスタンス、そして「『哲学カフェ』の始まり」について

本修論ではまず、「先行研究」について触れられます。哲学カフェの「社会的意義」や「個人的意義」について色々と書かれていました。その中で最も重要な指摘は、「これまでの『哲学カフェ研究』は『対話』のみが対象だった」という点でしょう。「『対話中にどんなやり取りが行われたのか?』に関する研究は色々あるけれども、『対話前・対話後に関する言及』はなかった」というわけです。

そこで彼女は、「自ら運営に入り『対話』に関与する」だけではなく、「関係者にインタビューすることで、対話前・対話後についても把握する」という形で研究を進めていくことにします。確かに、かなりガッツリ「哲学カフェ」と関わらないと「対話前・対話後」について知るのは難しいように思うので、「自ら運営側になる」という形だからこそ可能な研究だなと感じました。

さて、「先行研究」への言及はこれぐらいにしておきますが、あと1つだけ、「哲学カフェの始まり」に関する記述が興味深かったので触れておこうと思います。「哲学カフェ」は「1992年にマルク・ソーテという哲学者がパリのカフェで始めた」のだそうです。僕にはそもそも、「そんな風に起源がちゃんと確定している」という点が新鮮に感じられたのですが、さらにこの哲学カフェが「自然発生的だった」というのも面白いポイントに思えました。どうやら、「決まった曜日に訪れるカフェについてラジオで言及したところ、視聴者がそのカフェに集まるようになり、それで自然と議論が始まった」みたいな流れだったようです。

何となく、「有史以前に、雷などによって自然に発生した『火』を見て『火を熾す』という発想が生まれた」みたいな始まり方に思えるし、さらに、「『運動』と呼べるほどではない些細な『さざ波』が上手いこと連綿と続いて割と大きな流れになっている」みたいな点も凄く印象的でした。

フィールドワークから明らかになったこと

修論はその後、彼女が実際に行ったフィールドワークの話に移っていきます。基本的には、「彼女自身が運営として参加した対話の記録」「彼女自身が参加していない対話の録音データ」「関係者へのインタビュー」の3つをベースにしながら、「哲学カフェに参加する目的」「哲学カフェが存在する意義」「哲学カフェがもたらす変化や効用」などについて探っていくという感じです。

様々なことに言及されているのですが、個人的に最も驚いたのが、「参加者の中には、対話当日に向けてあらかじめ考えをかなりまとめておく人がいる」ということでした。何人かの参加者が「対話のテーマが決まると、当日に向けてメモを書いたり思考をマインドマップ的にまとめたりして準備する」みたいに話していたのです。その中の1人は、「対話前にまとめたメモと対話後にまとめたメモの比較」みたいなこともしているようで、ちょっとこの話にはかなりビックリさせられました。

というのも僕は、対話に向けた準備を一切しないからです。対象団体では、テーマと共に「リード文」という、「テーマを設定した人がテーマに関して考えていることをまとめた文章」もあらかじめ提示されるのですが、僕はその「リード文」をざっと読むぐらいで対話に参加してしまいます。僕の場合、哲学カフェに参加するメインの動機は「『自由に何でも喋っていい』と感じてもらえる雰囲気をどう作り出すか?」みたいなコミュニケーションに関する部分だったりするので、だから正直、「テーマは何でも良い」と思ってさえいるのです。まあ「割と瞬発力だけでテキトーなことをペラペラ喋れる」みたいな特性もプラスに働いてはいるんですけど。

さて、彼女はインタビューの中で「哲学カフェに参加する動機」についても質問しています。そして、「参加者が哲学カフェに(意識的にせよ無意識的にせよ)求めていること」として、「話せること」「話したことを聞いてもらえること」「聞いてもらえた上で反応があること」「さらに、相手の話を聞けること」などを挙げていました。そして、これらが複合的に絡み合うことで「自分1人では辿り着けない『想定外のもの』と出会える可能性」が生まれ、そして「それが『気づき』に繋がる」という話になっていきます。

ちなみに、「先行研究」への言及の中に、「哲学カフェは『気づき』を得る場」という指摘もありました。哲学カフェでは「語ることによる『気づき』」や「他者の話を聞くことによる『気づき』」などがもたらされるというのは確かにその通りだなと思います。また僕自身、常に「『想定外のもの』との出会い」を希求しているので、「対話の中身」だけではなく、「興味深い他者」や「日常的ではないコミュニケーション空間」との出会いなども、僕が哲学カフェに足を運ぶ理由だなと改めて感じました。

で、この「日常的ではないコミュニケーション空間」についてですが、まず本修論で触れられている通り、「哲学カフェは『関係性のない人』との対話の場である」という要素がとても大きいでしょう。「関係性がある相手と話す時にはどうしても『忖度』『ポジショントーク』が発生し得るが、そうではない人同士のコミュニケーションだからこそ、『何らかのラベル付きの自分』ではない『私そのもの』として話が出来る」というのが哲学カフェの特徴であり、「だからこそ『日常的ではないコミュニケーション空間』が成立している」という側面は間違いなくあると思います。

しかし決してそれだけではなく、同時に「『哲学カフェ的な対話』が日常では成り立たない理由」も存在するはずです。本修論でも最後に、「どうしてそういう状況が発生するのかには踏み込めなかったので今後の課題としたい」みたいに書かれていました。

「『哲学カフェ的な対話』が日常では成り立たない理由」についての僕自身の考察

というわけで最後に、この点に関する僕自身の考えにあれこれ触れて終わりにしたいと思います。

まず僕自身も、「日常では『哲学カフェ的な対話』って難しいよなぁ」と感じているタイプです。まあ僕の場合は、「哲学カフェ的な対話」に限らず、「そもそも他人と話が合わない」みたいな感覚が昔からあって、だから「『哲学カフェ的な対話』も当然出来ないよね」と端から諦めているみたいなところはあったりします。

そんなわけで、普段から自分の思考を言語化してnoteにあれこれ書いたりしているというわけです。

ただありがたいことに、決して多くはないものの、僕には「『哲学カフェ的な対話』が出来る人」がそれなりにはいます。特に、以前驚かされたのが、友人2人(この2人はお互いに面識がない、全然無関係の人)がそれぞれ、「趣味は内省です」と言っていたことです。「内省」なんて単語、そもそも日常生活で耳にしないから、脳内で一瞬漢字に変換できませんでした。そして、そういう人がチラホラ周りにいてくれることでどうにか生き延びていられるというわけです。また最近知り合った人は、「正解が何かは知っているはずだけど、考え続けるために不正解を選ぶ」みたいなことを言っていて、ホントこういう感覚の人は貴重だなと思います。

それではここから、「『哲学カフェ的な対話』が日常では成り立たない理由」についてちゃんと触れていくことにしましょう。個人的には大きく4つに分けられるかなと思っています。

1つ目は「会話に何を求めるか?」についての話です。これは特に、大人になればなるほど強くなる傾向かなと思います。

学生時代であれば、人にもよるでしょうが、少なくとも社会人と比べれば「有り余るぐらいの時間がある」みたいなことが多いだろうし、だから、「仮に『無駄だ』と感じられるやり取りをしたとしても、そこまで『損した感』はない」みたいに思えるかもしれません。しかし、大人になればなるほど仕事や子育てなどで忙しくなり、「可処分時間」は圧倒的に減ります。そしてそういう状況では、「会話」に対しても「無駄にしたくない」という感覚が強くなるはずです。

その上で、「じゃあ『会話』に何を求めているのか」ですが、僕が想像するに、「自分の現状に対する共感・労い」や「明るく楽しい雰囲気に身を置く」みたいなことではないかと思っています(僕自身は特に求めていませんが)。家族や趣味の話をして「わかる~」と言われたり、楽しいエピソードやネタをぶっ込んで笑いを取ったりするみたいなことを多くの人は「会話」に求めているんじゃないでしょうか。

そして、「哲学カフェ的な対話」はどちらももたらしません。だから、「共感」や「楽しさ」を求める人からは「無駄だ」と思われてしまうのではないかと思います。

また、いつの話か忘れましたが、昔あったこんな会話も思い出しました。大学時代の友人何人かと話している時に、僕ともう1人がちょっとしたディベート的なやり取りを始めたのですが、その時に他の人から「おいおい、喧嘩するなよ~」と嗜めるようなことを言われたのです。僕も相手も「喧嘩してる」なんて認識はまったくなかったので、「そうか、これが喧嘩に見えるのか」と逆に驚かされてしまいました。

ディベートの議題が何だったかは忘れましたが、要するに「何か意見の対立があり、それについてやり取りしていた」のでしょう。で、「哲学カフェ的な対話」はディベートとは少し違うものの、それでも「必ずしも意見が一致しているわけではない(というか、違う方が望ましい対話になることが多い)」とは言えると思います。そのため、「意見の相違=喧嘩」みたいに受け取る人には「哲学カフェ的な対話」は好ましくないものなのかもしれません。

このように、「『会話に求めているもの』が大きく異なるせいで『哲学カフェ的な対話』が好まれない」みたいな背景はありそうな気がします。

2つ目の理由は、「シンプルに『考える能力』がない」です。「哲学カフェ的な対話」は「考える者同士がやり取りする」からこそ成立するわけで、「考える能力」がなければそもそも成り立ちません。

かなり前のことですが、『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣)という本を読みました。本作では「考えること」について示唆に富む指摘が様々になされているのですが、その中にこんな一文があります。

でも、なにに対しても、もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ、全然考えていない人が多すぎるからだ。みんな周りを見回して、自分がどうすれば良いのかを「選んでいる」だけで、考えているとは思えない。選択肢が簡単に見つからないような、少し難しい問題に直面すると、どうすれば良いかを、「人にきく」人、「調べる」人が多くなる。でも、なかなか自分では考えない。

正直、かなり同感です。また、僕自身も以前「頭の良さ」に関する文章を書いたことがあり、僕なりの結論は「頭の良さ=想像力」なのですが、個人的な印象として「想像力が無い人がどうも多いな」という気がしています。

さらに、最近は「言語化」が割と注目されているはずで、「言語化が苦手」みたいに感じている人はきっと多くいるのでしょう。ただ、正直僕は、「『言語化』以前にそもそも『思考』が存在するんですか?」と言いたくなってしまいます。この状況は「冷蔵庫に食材がないのに料理が苦手だと言っている」というのに近いでしょうか。「料理が苦手だ」と悩んでいるけれども、実は「そもそも冷蔵庫に食材が何も入っていないから作れないだけ」というのと同じように、「言語化が苦手」と言っている人は、単に「脳内に思考が存在しないだけ」なんじゃないかと思っているというわけです。

そしてそういう人が世の中の多数を占めているのだとすれば、そりゃあ「哲学カフェ的な対話」なんか好かれないでしょう。

で3つ目ですが、「考える能力がない」とも関わる話として、「『考える能力がないこと』に気づきたくない」みたいな感覚もあるような気がします。つまり、「考える場を求めていない」だけではなく「考える場から積極的に離れたい」のではないかないかというわけです。

さて、この点に少し関わる面白い話を以前何かで知りました。「あるチェスのトッププレイヤーがハンデ戦しか受けない」という話です。プロではないアマチュアなのか、あるいは元プロで今はプロの世界から離れているのか、その辺りの具体的な話は忘れてしまいました。まあそれはともかく、そのトッププレイヤーは誰と対戦する時も「相手にハンデを与える」ことにしていたそうです。

では何故そうしていたのか? それは、「たとえ負けたとしても『ハンデ戦だったから』と言い訳するため」みたいな理由でした。つまり、「対等な場を避けることで、言い訳できるようにしておく」というわけです。

そして、「考える能力がない人」も似たような判断をしているのかもしれません。つまり、「『考えることが求められる場』を積極的に避けることで、『考える能力がない』という事実を意識させられずに済む」みたいな気持ちを抱いているんじゃないでしょうか。

あるいは、「自分には『良き考え』を導けるはずがない」みたいに考えている人もいるのかもしれません。僕は少し前に、「最近の若者は本や映画に触れた時、『自分の感じ方が正しいかどうか不安』だから、ネットで他人の感想を検索してしまう」みたいな振る舞いに触れられている記事を読んだ記憶があります。僕は正直、「各々が感じたことが正解」としか思わないし、だから僕は、みんなが絶賛している作品を酷評したり、みんなが酷評している作品を絶賛したりするのですが、そんな風には考えられない人も結構いるということなのでしょう。

このように、「考える」という行為に対して「能力の無さを自覚したくない」「自信がない」みたいな感覚があるとすれば、やはり「考える場」からは遠ざかろうするだろうなと思います。

そして最後に、「自分が考える必要性を感じない」みたいな感覚もありそうです。

例えば、以前観た『アニマル ぼくたちと動物のこと』というドキュメンタリー映画の中で、高校生の環境活動家2人が、「環境問題の解決策は既にどこかに存在しているはずだから、後は私たちがそれをSNSで発信すればいいだけだと思っていた」と語る場面があります。「環境問題は世界的な大問題であり、大勢がこの課題に取り組んでいるんだから、既に明快な答えが存在するはずだし、だから自分が何かを考えたりする必要はない」というわけです。それはそれで合理的な判断だと思うし、なるほどなと感じました。

あるいは、現代では「生成AI」の進化が凄まじく、まさに「生成AIに聞けば自分で考えなくてもいい」みたいな状況が生まれつつあると言っていいでしょう。僕自身はChatGPTとか全然使わないのですが、多くの人にとってはもはや「インフラ」と言っていいレベルで日常に溶け込んでいる気がします。「タイパ」を重視する若者であればなおさら、「自分で考えるより早いし正確」みたいな感覚が強いかもしれません。

このように、「正解は誰かが知ってるんだから、わざわざ自力でそこに辿り着こうとする必要はない」みたいな感覚は結構強まっている気がします。

また、「考える能力」の有無に関係なく、「そもそも考えることが嫌い」みたいな人もいるでしょう。「考える=勉強=楽しくない」みたいな等式が刷り込まれている人もいそうだし、他にも「仕事など目的がある場合は仕方なく考えるけど、そうじゃない時まで考えていたくないよ」みたいなスタンスの人もいるんじゃないかと思います。

こんな風に、「考える必要性」という観点からも「『哲学カフェ的な対話』が日常では成り立たない理由」を説明できるかもしれません。

というわけであーだこーだと書いてみましたが、これらはあくまでも僕の「想像」でしかなく、こういうことを書いても論文としては成立しないでしょう。本修論でも指摘されていましたが、「『(哲学カフェの存在は知っているが)哲学カフェに参加したことがない人』『哲学カフェに参加したことがあり、その後参加しなくなった人』へのインタビューが難しく深堀りできなかった」という記述の通り、実際にこの点について検証するには、そういう人たちに話を聞く必要があるはずだからです。ただ、そう的外れというわけではないとも思っています。どうでしょうかね。

最後に

論文というものを書いたこともなければ読んだこともないので、「論文としてどうなのか?」みたいなことは僕にはよく分かりません。ただ、「書き手」も「テーマ」も「フィールドワークの対象」も僕自身と関わりが深かったこともあり、とても面白く読めました。色々あって、せっかく日常的に学生と関われているので、これからも機会があれば論文を読ませてもらおうかなと思います。

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