「何を信じるか」をどう選ぶべきか?
僕らは「信じる」という言葉を割と当たり前に使うが、「信じる」というのはどういうことなのか、あまりちゃんと考えたことはないように思う。例えばだが、「神様を信じる」と「科学を信じる」と「宝くじが当たることを信じる」の3つは、それぞれ全然違うはずだ。
「神様を信じる」というのは要するに「信仰」であり、「理屈はともかく、無条件に信じる」ということだろう。一方、「科学を信じる」は「信頼」であり、「優れたシステムとして頼りにしている」という意味だと思う。あるいは、「宝くじが当たることを信じる」は「期待」であり、「そうであってほしいと願っている」というわけだ。このように、同じ「信じる」でも大分違う。
ただ、結局のところどれも、「誰もが『信じたいもの』を信じている」という点は共通しているように思う。
以前、『クラブゼロ』という映画を観た。高校生向けの授業の中で「健康に良い『意識的な食事』」として「食べないこと」を教え、実践まで促す外部講師を主人公にした物語だ。生徒たちは、彼女が語る「意識的な食事」にのめり込んでいく。当事者以外からは、単に「食べていない」だけでしかないのだが、外部講師を始め、実践している生徒たちは「身体に良いことしている」と認識しており、そのズレを強烈に描き出していくのだ。まさに「『何を信じるか』をどう選ぶか?」が直接的に描かれている作品だった。
また以前、『ヒポクラテスの盲点』というドキュメンタリー映画を観て、いつものようにその感想を書いたのだが、その感想に対する批判がチラホラと目についたので、それら批判に対しての記事を書いたことがある。
『ヒポクラテスの盲点』はコロナワクチンの安全性を疑問視する内容で、映画自体は個人的に面白く観れたのだが、いわゆる「反ワク」と呼ばれる人たちによる反応がなかなか強烈で、映画の内容そのものではない部分で違和感やモヤモヤを抱かされてしまった。これも、「信じるもの」の選択に関係していると言っていいだろう。
他にも『ブゴニア』や『#拡散』など、「何を信じるか?」を問う映画に触れる機会があり、その度に色々と考えさせられている。
個人的には、「絶対的にこれを信じている」というものは持っていない。「持たないようにしている」というのが正しい認識かもしれないが、その話はちょっと後にしよう。例えば僕は、分かりやすく名前がついたどんな「宗教」も信仰していないし、「過去に何が起こったのかなんて正確に分かるわけがないだろ」と思っているので考古学や歴史は基本的に好きになれない。また、「常識」「当たり前」みたいなことも、時代や環境によって左右されるものだし、「信じる」みたいな対象には入らないのである。
ただ、唯一挙げるとするなら「科学」かなとは思う。「科学」も、「信じるべき理由」はないと言えばない。ただ、「これまで人類が作り上げてきたシステムの中で最も洗練されている」とは言えるんじゃないかと思っている。「他に代替できるものがない」という意味で、僕は「科学(を成立させている様々なシステム)」を信じていると言っていいだろう。
さて、僕は割と「信じること」から遠ざかろうと考えているのだが、その理由は結局のところ「信じるから裏切られる」と思っているからだろう。人によっては「『信じるもの』があるからこそ健全でいられる」みたいなこともあるのだろうが、僕にはあまりそういう感覚はない。「何かを信じている状態」は常に「裏切られる可能性」と表裏一体であるように思えているからだ。シンプルに、何も信じていなければ裏切られることもないだろう。
もちろん、「この人のことは信頼している」みたいに思うことはあるが、その場合も、より本質的に言えば、「この人にだったら裏切られてもいいや」と感じているのだと思っている。もちろんそこには、「僕のことを裏切らなければならないような切実な何かがあったんだろう」みたいな感覚があるというわけだ。僕にとっては、「信じること」と「裏切られること」は近接した概念なのである。
また、「信じること」から遠ざかりたいもう1つの理由は、「自分が固定化してしまう恐怖」にあると思う。宗教でも推しでも何でもいいが、何か信じるものが明確にあると、自分の考えや価値観がある方向に固まってしまい得るだろう。そして僕は、そういう状態をあまり好ましく思えない。だから、「何も信じない」か「信じてもいいけど、いつでも信じない状態に変われる」ぐらいがいいなと考えているのだ。
そしてこれと同じ発想で「他人を信じること」も避けたいと思ってしまう。何故なら「信じること」は「『今のまま変わらないでくれ』という圧力」と受け取られかねないからだ。僕は「関わりたい」と思える相手には色んな意味で自由でいてほしいと考えているので、そういう意味でも軽々しく「信じる」みたいな言葉を使わないようにしているつもりである。
そんなわけでここまで「『信じること』のデメリット」的なことについてあれこれ書いてきたが、「信じていても裏切られない(否定されない)」みたいな状況もあり、それはそれで非常に興味深い。これは「陰謀論」なんかが蔓延る理由だとも言えるだろう。
以前『虚空門GATE』というドキュメンタリー映画を観た。「UFOを呼べる」という人物に密着した作品なのだが、その感想の中で僕は「UFOや地球外生命体の話は、絶対に『否定されたという状態』に達しないから好まれるのだろう」という話に触れたことがある。
この広い宇宙のどこかに地球外生命体はいるだろうし、そういう存在が何らかの方法で地球に来ていてもおかしくはない。「そんなこと、絶対にあり得ない!」と主張することはなかなか難しいだろう。だから、UFOや地球外生命体を愛好する人たちは、UFOの目撃談やアブダクション(宇宙人による連れ去り)の証言などが否定されたとしても、「可能性はある」と主張することができるのだ。
そして同じようなことは「陰謀論」についても言えるだろう。世の中には色んな陰謀論が存在するが、例えば「コロナウイルスはどこかの国が作った生物兵器だ」みたいな仮説だって、「絶対にあり得ない!」と否定することは難しいだろうと思う。ほぼ可能性はないと思うが、ほんの僅かながら可能性は残り続ける。同じように「否定されたという状態」には絶対に達しないのだ。そしてだからこそ安心して飛び込める、みたいなことはあるんじゃないかと思う。
あるいは、以前七日の本で読んで印象的だったのが、「突然教祖になった主婦」の話である。彼女は「◯月◯日に世界が滅亡する」と主張し、彼女の考えに共感した人が集まって宗教団体のようになった。そのことを知ったある心理学者が、「◯月◯日に世界が滅亡しなかったら、彼らの考えはどう変わるのか?」と関心を抱き、その団体に潜り込むことにしたのである。
さて、当然世界は滅亡しなかったわけだが、ではその信者たちはどういう反応をしたのか。なんと、「彼らの信念がより強化された」というのだ。何故なら彼らは、「自分たちの祈りが通じたから世界が滅亡しなかったのだ」と捉えたからである。これも、先程とはまた違った形ではあるが、「否定されたという状態」に達しない例と言っていいだろう。
このように「信じる」という行為は様々なややこしさを生む。そういうこともあって、個人的にはやはり、「積極的に何かを信じること」からは遠ざかっておきたいものだなと思っている。欧米人は「信じる宗教を持たないなんておかしいのでは?」みたいな視線を向けるが、個人的には「信じるものがない方が健全じゃない?」という気がしているのだ。
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