海の図書館【8】
8 滅びの鎖
絵里は今日も昼休みに海岸へ降り、堤防に腰を下ろして弁当を広げた。
ふと、以前サンドイッチをウミネコに奪われた日のことを思い出す。
「あんなに意地汚いウミネコがいるなんて」
だが、最近はその姿をまるで見かけない。あれほど群れていたウミネコたちは、一体どこへ消えたのだろう。気になり出すと、その疑問が頭から離れなくなった。
食べ終えると、絵里はいつもより早めに学校へ戻り、図書室へと足を運んだ。
――ウミネコは渡り鳥だったろうか?
絵里は、図書室に入って、鳥類図鑑を探した。
――カモメ科・ウミネコ。
いつもは小説ばかり読んでいる絵里が図鑑を捲っているのを見て、司書教諭が興味深げに近づいてきた。
「珍しいわね、絵里が図鑑なんて」
「ウミネコが、どんな鳥なのか調べたくて……」
「ウミネコ? そこの海岸に沢山いたでしょう」
「それが、いつの間にかいなくなったんです」
「そうなのね」
司書教諭は、さほど関心がなさそうに頷いた。
「あら、これは何?」
図鑑の隣に置かれていたのは、分類番号も保護フィルムも貼られていない新しい単行本だった。
「変ね……誰かが勝手に置いたのかしら。寄贈ならちゃんと私を通してくれないと」首を傾げながら、表紙を眺めている。
「小説かしら。何故ここに?……ああ、なるほど。著者の名前が『ウミネコ』だからね」
――ウミネコ?
「ちょっと見せてください」絵里は思わず教諭の手から本を奪い取り、中を開いてみる。
「これ、借ります!」そう言って駆け出したのは、授業開始の鐘と同時だった。
「待って、 貸出し手続きが――」
司書教諭の声はもう、絵里の耳には届いていなかった。
絵里は教室には戻らず、校舎の屋上へと続く階段の踊り場に腰かけた。
膝の上に置いたその本は、黒い表紙に星雲が描かれ、題名はなく、著者名だけが小さく『ウミネコ』と記されていた。
絵里は表紙を開いた。
~前書き~
私は常々、人とは不思議なものだと眺めていた。
彼らのように生きてみたら、どんな風に世界が見えるのだろう。
海の魚が減り、私は腹を空かせていた。
そこで、人と同じものを食べようとしたが、うまくいかなかった。
だが、おかげで私は人と暮らす機会を得た。
心を通わせられたようにも思う。
しかし、彼らは消えてしまった。私ひとりを残して。
私は、彼らが遺したものを受け継いだ。
その叡智を委ねられた意味を知るために。
だがある時、それまでとは全く違うものが海の向こうから現れた――
秩序を成す分類を、拒絶する意思を持って。
その時から、私は指示に従う者から、
自らの意思で動く者に変わったのだ。
* * *
~二頭の王の物語~
――熱い。
絵里は灼熱の森をさ迷っていた。涼しいはずの木陰はなく、泉は干上がっている。水のない川を遡って、険しい山に分け入った。
――どうして私はここにいるのだろう。ウミネコのことを知りたかっただけなのに……。
山中の樹木は枯れ、生き物の気配がまったくない。
なんの前触れもなく目の前に、一匹の狼が現れた。その大きさは熊ほどもあり、銀色の毛並みが陽炎のように揺らめいている。金色に輝く双眸は、絵里の心の奥底を鋭く見透かして来るようだった。
狼は言った。
「絵里、今さら何をしに来た」
「どうして私の名前を……? 私はあなたなんて知らないのに」
狼は鼻で嗤った。
「知ろうとしたこともなかろう」
「そんな……いるかどうかも知らないのに……」
言いかけてハッとした。知らなかったのではない。忘れていた、あるいは忘れた振りをしていたのだ。
狼は一瞥を残して山道を登り始めた。
「待って!」絵里は、あわててその後を追った。
うだるような暑さにも拘らず、絵里は氷のような冷気を背後に感じた。振り返ると、黒い影の塊りが追って来ていた。それは、無数の獣たちの群れであった。彼らは実体のない影であり、音もなく押し寄せて来ると、絵里と狼をすり抜けて行った。その間、世界は耳を塞がれたかのように無音となり、絵里は声を発することすらできなかった。恐ろしい沈黙だった。
――助けて!
心の中で叫び、目を閉じた。
やがて影は、前方へと流れ去って消えた。狼は振り返って一度だけ視線を投げると、また山の頂を目指した。
突如、空が暗くなった。見上げると、群れを成す鳥の影が全天を覆い尽くしていた。大小の鳥たちは皆、黒い影と化し、頂を目指して音もなく羽ばたき、滑空していった。
やがて峻嶺の頂にたどり着いた。かつて雪に覆われていた場所は、今や岩肌を晒し、草一本生えていない。
天翔王が待っていた。大鷲の姿の、その眼光は鋭く嘴は輝き、その羽根は艶があり、爪は研ぎ澄まされている。
「遅いと思えば、珍しい客を連れてきたな、獣王」
狼――獣王は、絵里を振り返ると低く唸った。
「よく来られたな」と天翔王。
「我らは諦めることを知らぬ」と獣王。
向かい合っていた二頭の王は、同時に絵里の方を見た。
「されば、人に、問う」天翔王が言った。絵里は驚いた。
――私?
「赦し、とは何か」獣王が言った。
絵里は息を呑み、必死に言葉を探した。
「赦しとは……ウミネコにサンドイッチを分けてあげること」
二頭の王は、顔を見合わせた。
「それは……どうであろうな」獣王は欠伸をした。
「ウミネコは、そのようなものは喰えぬ」天翔王は羽根を伸ばした。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
絵里は心の中で謝っていた。
――ウミネコ、戻ってきて……
俄かに、雨雲が押し寄せて、頂に激しい驟雨を降らせた。絵里は空に向かって大きな口を開けて雨水を飲み、乾ききっていた喉を潤した。天翔王も獣王も、歓喜を全身で表し、羽ばたき、身を震わせて水浴びをした。
* * *
巡りの時、それは繰り返される。
数年に一度か、数千年に一度かは定かではない。
獣王と天翔王は、宇宙との境にある峻嶺で会い、問答を交わす。
それは秩序であり、宿命である――
花音は分類不能の書架に置かれたその本に、強く惹かれていた。まだ成熟しないうちから何度も開き、新しく文字が刻まれるたびに、二頭の王の物語に没入していった。
「陸の王が獣王で、空の王が天翔王。海の王は出てこないのかしら」
この物語の奥には、まだ見ぬ誰かとつながる絆がある――花音には、その確信があった。
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