海の図書館【1】
あらすじ
世界には二つの図書館があった――
ひとつは、あらゆる叡智を集め、海上にそびえ立つ「海の上の図書館」
かつて隆盛を誇ったその場所には、今や人の姿はなく、たった一羽のウミネコが孤独な司書として書架を守り続けている。
もうひとつは、深海にひっそりと存在する「海の底の図書館」
そこでは、生まれる前の書物が、深海の静寂と悠久の時の流れに育まれ、成熟の時を待っていた。館長の流浪と司書の月夜は、漂う者・火喰との間に生まれた娘、花音と共に、この図書館を守っていた。
花音は、神秘的な海の体験をきっかけに「海の神」の存在に惹かれ、やがて叡智と生命の意味を求めて旅立つ。
人が消えた図書館に秘められた謎とは何か。
叡智とは、生命とは、そして記憶とは何か――
時空を交差して響き合う二つの図書館の物語が、静かにその答えを探し始める。
海の図書館
パステル・カンナ
プロローグ
「古代図書館? ロマンがあるじゃないか」記者の胸は躍った。
海図にも載っていない絶海の孤島に、偶然通りかかった海洋調査船が、古代文明の痕跡を発見した。今回の調査船には記者が同行し、現地の様子を取材する。
島に向かう船室の中で、発掘隊長の考古学博士にインタビューが始まった。
「今回の遺跡が図書館であると、何故わかったのですか?」
博士は、浅黒い肌に黒髪の癖毛、深緑色の瞳に真摯な光を湛えた、記者よりも若そうな男だった。
「司書の日記が、見つかったのです」
司書の日記――その響きに、記者の胸が高鳴る。
「古代人にも司書がいたのですね」
「それが、人ではなく、ウミネコなのです」
記者は博士の言葉がすぐには吞み込めなかった。
「ウミネコ――というと?」
「絶滅した鳥ですよ。海岸に棲む海鳥でした。だから、なぜこのような大海の真ん中にいたのかは、わかりません」
記者は、その前になぜ鳥が、という質問をしかけて止めた。博士の深緑色の瞳は、もう、そのことを受け入れているようだった。
「見えてきましたよ」甲板に上がった。
緑に覆われたな島が、近づいてきている。記者の目には、遥かな時を超えて、古代図書館が浮かび上がって見えた。その一室では、司書のウミネが、ひとり静かに日記をしたためていた。
第一部 海の底の図書館
~ウミネコの日記~
ただ一人となって、私は考える。
人が積み重ねてきた叡智とは何だったのだろうか。
残された私は、もう人ではなく、ただのウミネコにすぎない。
それでも、この図書館では言葉が息づき、
記憶が波のように広がっている。
かつての人々の、知への渇望は亡霊となり、
いまも書架の間を彷徨い続けている……
1 宿命の系譜
生まれる前の本は、柔らかく、静かに呼吸している。海の底で――
深海――そこは、太陽の光も届かない、真の暗闇が支配する世界。時折、行き過ぎる生き物たちは、自ら放つ微かな光を揺らめかせている。
そんな深海の、誰にも知られていない場所に、仄かな灯りを纏っている一角があった。見渡す限り立ち並ぶ書架の中に、書物が眠る――海の底の図書館である。
「これ、読んでもいい?」
幼い花音が、まだ柔らかい本を抱えて、母の月夜を見上げた。無垢な瞳には、好奇心が溢れている。
背の高い月夜は、踏み台も使用せずに書架の最上段を点検していた。
「まだ整っていない本に触ってはいけないと、何度言ったかしら。きちんと元の場所に戻しておきなさい」彼女は、切れ長の目を書架に向けたまま冷ややかに答えた。
「……はい、母さま」
花音は肩を落とし、本を抱きなおすと、小さな背中を向けて去っていった。
その様子を、書架の影から見ている者がいた。浮遊するエチゼンクラゲに腰掛け、ゆらりと姿を現した小柄な老人――館長の流浪だった。
「そろそろ花音も、自由にさせてやれ。あの子もいずれ、ここの司書になるのだから」彼は目尻に皺を寄せて微笑みながら言った。
「父さま、花音に本を触らせるのは、まだ早いのです。私は、この図書館にあるすべての書物を“向こう側”に送り届けるまで、守らなければなりません」
月夜は整然と並ぶ書架の群れを見渡した。冷徹な瞳の奥には、微かな陶酔が宿っていた。
流浪は声を上げて笑った。
「月夜、お前が花音くらいの頃には、もうこの図書館を我が物顔で歩いていたものだぞ」
月夜は父に鋭い視線を向けた。
「私があの子くらいの頃には、もう分類番号もすべて覚えていました。あの子はまだ、何もわかっていないのです」
そう言うと書架に向き直り、作業に戻った。
エチゼンクラゲは向きを変え、流浪を乗せて静かに離れていった。
海の底の図書館では、生まれる前の書物が、書架の中で成熟までの時を静かに過ごしている。穏やかな海の底に沈殿し、ときに攪拌される悠久の時の滋養が、書物たちを育てていた。
本は、最初はただ柔らかく、形も定まらない。書架に守られながら熟成を経て、やがて文字が現れ、表紙、背表紙と、書物の形が整う。本は整わずに途中で消えることもあれば、また現れることもある。時が満ちて本が整うと、司書の月夜がそれを“向こう側”へと送るのだ。
この図書館を守っているのは、月夜と、彼女を父親代わりとなって育てた館長の流浪である。月夜には娘がいる。名は花音。父の名は火喰――もう、この図書館にはいない。彼は漂う者であり、ひとつの場所に留まることができないからである。
館長の流浪も、かつては火喰のような漂う者だった。己が何者なのかも知らず、ただ海流に身を任せ、長い時をさまよっていた。
ある時、海底を埋め尽くす書架の群れをみつけた。これまでに書架はおろか本というものの存在すら知らなかったのに、そこが海の底の図書館―― 叡智の蔵――であることを即座に見抜いた。ここに来ることが彼の宿命だったからである。
書架の間を巡るうちに、流浪はここで己が為すべきことを思い出した。かつて図書館にその生を捧げていた記憶がよみがえったのだ。
そこにある本はみな、生きているようだった。柔らかな若い本、整い始めている本、みな静かに眠っていた。
彼は海の底の図書館に留まり、館長として生きることを選んだ。
図書館の中央には、小さな机が置かれた空間がある。その机は、ここから生み出される書物を”向こう側”――海の上の図書館――へ送るための儀式に使う、授け台である。
流浪は、成熟し、整った本を授け台に乗せると、左手を重ねて送り言葉を唱えた。
掛けまくも畏き海の大神よ
今ここに守人の身を以て
人の世に光をもたらす叡智を
潮の道より渡らせ運び給いて
弥栄の道を開かんと願い奉る
すると、本は静かに授け台に沈み、消えた。
ある時、いつものように本を送ろうと授け台に来てみると、天板の上に籐の籠が置かれていた。中には、赤子が眠っている。
「なぜ、ここに――」
流浪はおずおずと手を伸ばし、柔らかそうな頬に触れた。赤子は切れ長の目を静かに開き、意思の宿る眼差しで流浪を見つめ返した。
赤子は月夜と名付けられた。流浪は月夜を育て、司書として教育した。それが己の使命であり、存在意義であると心得ていた。
月夜は、まだ幼い頃から図書館の仕事を覚えた。
「月夜、分類番号の試験だ。芸術は?」
「7」月夜は即答した。
「自然科学は?」
「4」
「では1は?」
月夜の目が輝いた。「もちろん哲学です、父さま」
うっとりと歌うように答えた。流浪は微笑んだ。
「そう、哲学こそが叡智にとって最も大切なもの。だから1なのだ」
月夜は分類番号1の書架から、恭しく一冊の本を取り出した。それは、今まさに整ったばかりだった。
「父さま、この本を私が向こう側に送ってもいいですか?」
「ああ。やってみなさい」
本の背には仮の分類番号の札が貼られており、その番号に対応する”向こう側”の書架へと本が運ばれる仕組みになっている。
月夜は授け台に本を載せると、左手を重ねて、流浪から習った送り言葉を唱えた。
掛けまくも畏き海の大神よ
今ここに守人の身を以て
人の世に光をもたらす叡智を
潮の道より渡らせ運び給いて
弥栄の道を開かんと願い奉る
月夜は、掌を通して本が自ら意思を得るのを感じ取った。本は授け台に沈み込み、彼女の左手を宙に残したまま天板に吸い込まれて消えた。
月夜は、しばらく授け台を見ていたが、手を引込めて流浪に問いかけた。
「向こう側には――何があるのですか」
流浪の柔らかな眼差しが、微かに揺らいだ。
「――人の世界だ」流浪は皺の多い手を伸ばすと、授け台の天板を撫でながら言った。
「父さまは、人の世界を見たことがありますか?」
流浪は瞼を閉じ、動かなくなった。
月夜は返事を待ったが、いつまでも返ってこなかった。どうやら彼は、そのまま眠ってしまったらしい。
大きなエチゼンクラゲがどこからともなく現れると、流浪の身体をすくい上げて傘に乗せ、静かに運んでいった。月夜はその後ろ姿を見つめながら、不思議なことに気がついた。見たことのないはずの人の世界が、彼女の記憶の奥底で微かに息づいていたのだ。
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(全10話)
目次(全話リンク)
プロローグ
第一部 海の底の図書館
1話 宿命の系譜
2話 漂う者
3話 クジラの歌
4話 無知の知
第二部 海の上の図書館
5話 繋ぐ者
6話 記憶の断片
7話 希望の遺跡
8話 滅びの鎖
第三部 分類の外へ還る
9話 海の神
10話 渾沌に還る
エピローグ
