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海の図書館【10・最終話】

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10 渾沌に還る

 その朝、真弓は窓の外に見慣れないものを見つけた。穏やかな凪の海に、小さな白い紙で折った小舟が浮かんでいたのだ。彼女は窓から羽ばたいて潮風の中へ飛び出し、小舟のもとへ急降下して嘴でしっかりと咥えると、再び図書館の窓へ舞い戻った。 
 それはどう見てもただの紙の舟だった。もう人のいないこの世界で誰が折って海に流したのか。そしてなぜここへ辿り着いたのか――真弓にはわからなかった。
 彼女は、濡れている紙を破らないよう慎重に舟を開いた。内側には、見たこともない文字で何かが記されていた。文字なのか記号なのかさえ、判別できない。
 そして、紙の外側には、0の数字。
 真弓は――直感で悟った。
 これは、既存の分類番号では決して捉えられず、どの書架にも現れ得なかった、まったく新しい叡智の萌芽なのだと。
 分類番号0が、海の上の図書館に生まれた瞬間であった。
 真弓は、窓の外に再び目をやった。いつもと変わらない静かな海が、陽の光を反射して眩しく輝いていた。

* * *

 月夜の跡を継ぎ、花音は一人で海の底の図書館を守っていた。
 紙の舟は無事に“向こう側”へ届いただろうか――ふと、海面を仰ぎ見る。
「そうだ、確かめてみよう」
 花音は授け台に『二頭の王の物語』を載せると左手を重ね、送り言葉を唱えた。
掛けまくも畏き海の大神よ――
 本は花音の左手から離れ、授け台に沈み込んで消えた。
「やった……」
 花音の胸に、喜びと達成感がじわりと広がる。
『二頭の王の物語』は、ここ海の底の図書館から解き放たれた。分類に抗い、既存の枠を拒否して存在する、新しい知の道が開通したのだ。これから『分類番号0』の書物は、続々と生まれていくだろう。

 花音は、日々書架を巡り、整った本を授け台から“向こう側”へ送った。しかし、貼られている分類番号に疑問を抱くことがあった。
「この二冊は、同じ著者が一つの思想を語っているのに、片方は自然科学の4で、もう一方は文学の9になっている。これでは書架が離ればなれになってしまう」
 彼女は仮の分類番号札を、両方とも0に貼り替えた。
 送り言葉の儀式にも変化が現れた。花音は、いつも唱えている言葉に違和感を覚え始めた。

 掛けまくも畏き海の大神よ
 今ここに守人の身を以て
 人の世に光をもたらす叡智を
 潮の道より渡らせ運び給いて
 弥栄の道を開かんと願い奉る


「掛けまくも畏き……神の名か……」
 あの小舟を送ったときの、自分自身の言葉で“向こう側”に届いた経験が、彼女の意識に変化をもたらしていた。
 神の名に頼らずとも、何者でもない自分の力で、本を“向こう側”へ送れるのではないか。自分の言葉で――自分の力で――
 花音は、両手を添えて、静かに唱えた。

我がもろ手より放つ新たなる叡智よ彼方へ届け

 自分なりの言葉を紡ぐうちに、いつしか花音は神の名を唱えずとも、自分の意思で本を送ることができるようになっていた。

* * *

 その時――
 深海の奥底で、海溝が軋んだ。
 花音の感覚器官は、その微かな震動を捉えた。

 不気味な地鳴りがした――
 真弓は、耳を澄ませた。
「今の音は?――」

 プレート同士がぶつかり、一方のプレートがゆっくりと地下へ沈み込んでいく。その下では、海底の地殻ごと、大地が深く引き込まれていく。

 激震が走った。

 海の底の図書館が、巻き込まれた。すべての書架が倒れて、本が投げ出された。花音は身を翻し、書架の下敷きなることだけは免れた。
 轟音とともに、海流が渦巻き、花音は押し流された。

 その地震は、海の上の図書館の直下で起きた。
 建築技術の粋を尽くして建設された建物は、土台から崩れ落ち、波に飲み込まれた。
 真弓は窓から飛び出した。
 荒れ狂う波の上を、陸を目指して羽ばたいていった。

* * *

 花音はどこまでも流されていった――

 海が穏やかに戻っても、漂い続けた。
 漂いながら、花音はこれまでの日々を思い返していた。
 幼い頃、海に満ちる歌を聴いて慰められた日々。クジラの頭蓋骨で出会った神秘。旅で見たプランクトンの光。
 月夜から受け継いだ司書の仕事――愛された記憶は少ないけれど、母への感謝は心に残っている。
 火喰の語る遠い海の話が好きだった――短い間しか一緒にいられなかった父との思い出。
 そして、エチゼンクラゲに乗って、いつも飄々としていた流浪。

――何もかも、失ってしまった。
 時間も距離もわからなくなった。
 花音は意識だけの存在となって浮遊していた。
――海は、私の還る場所。
 遍く存在する海の神が、花音に微笑みかけていた。

 花音は今、深淵王になった。

* * *

 真弓は、飛び続けた。しかし、陸は遠すぎた。逆巻く波に羽を休めることもできず、翼はもう限界だった。呼吸に血が混じる。
――新しい叡智の道も、波にのまれてしまった。
 力尽きた真弓は波間へと落下していく。
――こんなことが、前にもあった。あの時は拾われて……
 真弓が意識を失うと同時に、大きな翼が、真弓を包み込んだ。

 真弓は、力強く羽ばたいていた。
 褐色の厚い翼。鋭い爪。尖った嘴。

 真弓は今、天翔王になった。

* * * 

 巡りの時が来た。
雪と氷に閉ざされた極地の氷床に、獣王、天翔王、深淵王が集まった。
 言葉はなかった。問いも答えもない。そこにあったのは、ただ沈黙だった。聞こえるのは風と波の音だけ――それで十分だった。
 獣王、天翔王、深淵王は、ただ互いの存在を確認し合うと、またそれぞれの場所へと帰っていった。

* * * 

 すべてが、海に還った。

 深淵王は、かつて海の底の図書館があった場所に佇んでいた。この場所で、月夜や自分が“向こう側”へ、送った書物たちのことを考えていた。
――叡智とは、何だったのだろう。
 ふと、月夜から教わり、何度も唱えた送り言葉が口をついて出た。

 掛けまくも畏き海の大神よ
 今ここに守人の身を以て
 人の世に光をもたらす叡智を
 潮の道より渡らせ運び給いて
 弥栄の道を開かんと願い奉る


 途端に、深淵王の心に虚しさと孤独が押し寄せた。
 その時、岩陰に隠れていたものが目に留まった。近寄ってみると籐の籠があり、中に赤子が眠っていた。
「あなたは……誰?」
 頬に触れると、赤子は深淵王を見て笑った。
 どこからか、火喰の声が聞こえたような気がした。
――流れに乗っていれば、いずれどこかで出会う。
「父さま……」
 深淵王は、籐の籠を抱え上げると、歩き出した。赤子は深淵王の顔を不思議そうに見上げている。
「あなたを絵里と名付けます」
 深淵王は、赤子にそう告げると、優しく微笑んだ。赤子も微笑み返した。

 海の図書館は消えた。
 しかし、世界そのものが叡智の図書館であることを、彼女は思い出していた。




エピローグ

 博士は、研究所の自室の机に向かい、遺跡から持ち帰った一冊の記録を静かに読み進めていた。
 それは、孤独な司書――ウミネコが書き残した日記だった。
 海の上の図書館で、たった一羽となっても書架を巡り、黙々と職務を果たす姿。失われた人々の知を、たとえ誰にも読まれないとしても、未来へと繋げようとする意志。
 頁を捲るたびに、博士はまるで自分自身が、あの静かな書架の間を歩き、遠い声に耳を澄ませているような錯覚にとらわれた。
――世界が滅びても、叡智を繋ぐ者はいる。
 ウミネコの言葉は、博士にそう語りかけていた。
 その時、控えめなノックの音が響いた。助手が扉の隙間から顔を覗かせる。
「藤堂博士、コーヒーが入りました。一緒に休憩なさいませんか?」
 博士はしばし目を伏せ、胸の奥に広がる熱を抑えきれなかった。
「……ああ、すぐ行く」
 涙の光をを悟られないよう、背を向けたまま低く答えた。

 日記の頁は、微かな潮の香りを残し、静かに机の上で風を待っていた。



(了)


参考文献

和田万吉 著「図書館史」慧文社
L. カッソン 著  新海邦治 訳「図書館の誕生ー古代オリエントからローマへ」刀水書房
マシュー・バトルズ 著  白須英子 訳「図書館の興亡 古代アレクサンドリアから現代まで」草思社
ヘレン・ケールズ 著  林裕美子 訳「深海学 深海底希少金属と死んだクジラの教え」築地書館

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