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第68話『るろうに剣心』と、イエス・キリスト。

「悔い改める」って、自分を責め続けることなの?


幕末。

日本という国そのものが大きく揺れ、昨日までの常識が今日には通用しなくなるような時代。

その動乱の中で、一人の剣客が恐れられていました。

人斬り抜刀斎。

小柄な体から繰り出される飛天御剣流。その圧倒的な剣技によって、幕末の闇を駆け抜けた男。

その正体が、緋村剣心です。

けれど『るろうに剣心』の物語が始まった時、私たちの前に現れる剣心は、もう「人斬り」ではありません。

赤い髪。

頬に残る十字傷。

柔らかい口調。

どこか抜けたところもあり、「おろ?」なんて言っている。

そして腰に差しているのは、人を斬るための普通の刀ではなく、刃と峰が逆になった「逆刃刀」。

剣心は幕末が終わった後、「不殺(ころさず)」を誓い、流浪人として日本中を旅していました。

ここが、この作品の面白いところだと思います。

最初から善人だった男の物語ではない。

一度も人を傷つけたことのない男が、「人を傷つけてはいけません」と語る物語でもない。

多くの命を奪った男が、その過去を背負ったまま、

「もう殺さない。」

と決めて歩き始める物語なのです。

剣心の過去は、消えていない。


神谷薫と出会い、神谷道場で暮らすようになってからも、剣心の過去が消えるわけではありません。

相楽左之助。

明神弥彦。

高荷恵。

斎藤一。

そして志々雄真実。

新しい仲間との出会い、新しい敵との戦いを通して、何度も「人斬り抜刀斎だった自分」が追いかけてきます。

特に斎藤一は、剣心のきれいな部分だけを見てくれる存在ではありません。

幕末を生き抜いた者として、剣心の中に今も残る「抜刀斎」を知っている。

そして京都編では、剣心がかつて歩んだ時代の闇を、別の形で引き継いだような志々雄真実が立ちはだかります。

志々雄もまた、明治政府のために人を斬った男。

けれど、新しい時代から必要とされなくなり、焼かれ、捨てられた。

同じ時代の闇を歩いた二人。

それなのに、その後の生き方は全く違う方向へ進んでいきます。

志々雄は、弱肉強食の世界を選ぶ。

剣心は、不殺を選ぶ。

ここが私は面白い。

同じように傷を負ったからといって、同じ未来へ進むわけではない。

過去が、その人の未来を完全に決めるわけではないのです。

そして、剣心は「逆刃刀」を持った。


私はこの設定が本当に好きです。

刀なのに、人を斬るための刃が相手側を向いていない。

しかも剣心は、剣を捨てたわけではありません。

飛天御剣流を捨てたわけでもない。

強さを失ったわけでもない。

むしろ、ものすごく強い。

でも、その力を使う「目的」が変わった。

かつては、新しい時代を作るために人を斬った。

今は、新しい時代に生きる人々を守るために剣を振るう。

同じ手。

同じ剣術。

同じ飛天御剣流。

でも、

向いている方向が変わった。

私はイエス・キリストを知ってから、この剣心の生き方を見ると、ある聖書の言葉を思い出すようになりました。

「悔い改めなさい。」


聖書を読んだことがない人でも、一度くらい聞いたことがある言葉かもしれません。

でも「悔い改め」と聞くと、どんなイメージがあるでしょうか。

悪いことをした人が、ものすごく反省する。

自分の罪を責める。

泣いて謝る。

「私は悪い人間です」と自分を罰する。

そんなイメージを持つ人もいるかもしれません。

私も最初は、そんな感じに受け取っていました。

でも聖書をディグっていくと、悔い改めは、ただ自分を責め続けることではありませんでした。

「向きを変える」。

神様から離れて歩いていた方向から、神様のほうへ向きを変える。

考え方が変わり、生き方が変わり、歩いていく方向が変わっていく。

そう考えた時、私は剣心を思い出しました。

剣心は、人斬りだった過去をなかったことにはしていません。

でも、その過去と同じ方向へ歩き続けることも選ばなかった。

逆刃刀を持ち、

人を殺す側から、

人を生かす側へ。

方向を変えたのです。

過去を消すことと、悔い改めることは違う。


これは私自身にも、とても大きなことでした。

私にも、消せない過去があります。

母に強い言葉をぶつけたこと。

妻を愛しているはずなのに、愛し方が分からなかったこと。

自分が正しいと思って、人を裁いていたこと。

お酒を飲んで暴れる。

タバコを吸い散らかす。

自分を認めてもらうための音楽。

Buddhaの教え、スピリチュアル、引き寄せ、覚醒を追いかけ、自分自身を高めようとしていたこと。

イエス様を知ったからといって、それらの過去が歴史から削除されたわけではありません。

でも、

向きが変わりました。

妻が先に、変わり始めた。


私より先にイエス様を信じたのは、妻でした。

最初の私は、それをすぐには受け入れられませんでした。

「キリスト教になっちゃったじゃん。」

そんな感覚でした。

でも、不思議なことが起き始めました。

妻が変わっていったのです。

以前より穏やかになっていく。

祈るようになる。

私を責めるのではなく、私のために祈る。

そして、なんというか……

可愛らしくなっていったんですよね。笑

私は妻に対して、過去の出来事から許せないと思っている部分がありました。

自分では「避けている」と強く意識していたわけではありません。

でも妻からすれば、避けられていると感じていた。

実際、夫婦なのに触れ合うことさえほとんどなくなっていました。

心の距離が、そのまま体の距離にもなっていたのだと思います。

でも、妻が変わっていく姿を隣で見ているうちに、私の中にも変化が起こりました。

「いつまでも妻を裁いている場合じゃないな。」

「もう許してあげなきゃな。」

最初は、そんなところからでした。

今振り返れば、「許してあげる」なんて上から目線だったと思います。笑

私自身も、どれだけ妻を傷つけてきたのか。

どれだけ愛せていなかったのか。

神様を知れば知るほど、自分自身の姿も見えるようになっていきました。

妻だけが変わる必要があったのではありません。

私も、向きを変える必要があった。

そして神様は、夫婦のどちらが正しいかを決めるために私たちの家庭へ来られたのではなく、

私たち二人を愛のほうへ向けてくださいました。

この夫婦がJTM、神の家族を通してどのように救い上げられていったのかは、第10話に詳しく書いています。

▶ 関連記事
10話 JTM、神の家族に救い上げられて。|夫婦が回復し、家族が変えられていった教会の歩み。

タバコも、お酒も。


私の生活にも、少しずつ変化が現れ始めました。

タバコ。

お酒。

長く自分の生活の一部になっていたものです。

特にタバコは、自分の意思だけで簡単にやめられたという話ではありませんでした。

妻が祈ってくれていました。

神様が私の中に働いてくださり、気がつけば、それまで手放せなかったものを手放していった。

お酒も同じです。

「聖書を信仰するクリスチャンになったから、ルールとして全部禁止された。」

そういう感覚ではありませんでした。

神様を知り、御言葉を知り、聖霊様に触れられ、生きる方向そのものが変わっていく中で、それまで必要だと思っていたものが、少しずつ必要ではなくなっていった。

だから私は、悔い改めを「我慢大会」だとは思っていません。

もっと大きなものを知ったことで、握っていたものを手放せるようになっていく。

そんなことが、本当にあるのです。

第10話にも、私たち夫婦がJTMにつながり、祈りの中でタバコやお酒から解放され、夫婦関係や子どもへの接し方まで変えられていった証を書いています。

でも、一番変えられたのは「人への向き」だったのかもしれない。


私には、母との長い葛藤がありました。

母がうつで苦しんでいる時も、昔の私は正論をぶつけていました。

「なんで分からないんだよ。」

「こうすればいいじゃん。」

「それじゃダメでしょ。」

正しいことを言っているつもりでした。

だから、こちらとしては「助けようとしている」。

でも母からすれば、

苦しい時に、

さらに正しさで殴られているようなものだったのかもしれません。

当時の私は、母と一週間一緒に過ごすことさえ難しかった。

愛していないわけではない。

でも、愛し方が分からない。

正しいことを教えれば変わると思っていた。

説得すれば分かると思っていた。

自分が勝てば、相手も良くなると思っていた。

でもイエス様を知って、少しずつ変えられていきました。

「正しいかどうか」の前に、

この人を愛しているか。

この人の話を聞いているか。

この人の痛みに寄り添っているか。

今では、うつで苦しむ母を家に迎え、一緒に暮らしています。

四ヶ月、五ヶ月と。

全快するまで、

ただ愛する。

ただ仕える。

「ありがとう。」

「感謝だよ。」

そう声をかける。

すると、母の表情が少しずつ変わっていく。

愛で満たされるように、少しずつ元気になっていく姿を見る。

もちろん、私は医者ではありません。

病気の治療を自分の愛だけでできると言いたいわけでもありません。

でも、

以前の私ならできなかったことを、

今の私はできるようになった。

一週間も一緒にいられなかった母と、

何ヶ月も同じ家で過ごし、

「早く変わってくれ」と責めるのではなく、

ただ愛することを学んでいる。

私にとって、これもイエス様のミラクルです。

剣心の強さは、「斬れるのに斬らない」こと。


ここで、もう一度剣心へ戻ります。

剣心は弱くなったから人を殺さなくなったのではありません。

斬れないから不殺なのではない。

斬れる。

圧倒的に強い。

それでも、

斬らない道を選ぶ。

だから不殺には重みがあります。

京都で志々雄と戦う時も、剣心は「人斬り抜刀斎」に戻れば簡単に済む、という単純な話ではありません。

自分が何者として生きるのか。

その問いがずっとついて回ります。

そして剣心を支えるのは、薫や左之助、弥彦たちとの関係です。

一人で過去を償い続ける孤独な流浪人だった男が、

帰る場所を持つ。

待ってくれる人を持つ。

愛してくれる人を持つ。

ここにも、私は惹かれます。

人は、正論だけでは変わらない。

愛されることで変わることがある。

私がそうでした。

イエス様も、「罪はない」とは言われなかった。


ここは、とても大切です。

聖書は、

「あなたはそのままで何も問題ありません。」

とは言いません。

罪を罪として語ります。

人を憎むこと。

人を裁くこと。

愛するべき人を傷つけること。

嘘をつくこと。

高慢になること。

そして、私たちを造られた神様から離れ、自分自身を人生の王として生きること。

私にも罪がありました。

だから私は、誰かに向かって、

「あなたは罪人だ!」

と上から石を投げたいのではありません。

私自身が、救いを必要としていた一人です。

以前、「罪って結局なんなの?」というテーマを『七つの大罪』を入口にして書きました。

▶ 関連記事
31話 漫画『七つの大罪』と、聖書が語る「罪」。


罪を知ることは、自分を嫌いになるためではありません。

病気が分からなければ治療を求めないように、

自分がどこで神様から離れていたのかを知ることで、

初めて救いの意味が見えてくる。

そして、ここでイエス・キリストが出てきます。

剣心は、自分の人生をかけて償おうとした。


剣心は、自分が奪ってしまった命を忘れていません。

だからこそ、人を守る。

助ける。

不殺を貫く。

その生き方には、私は強く心を打たれます。

でも聖書を知った私は、ここでさらに一つ考えるようになりました。

人は、自分の罪を、自分の善行だけで完全に償うことができるのだろうか。

一人傷つけたから、一人助ければゼロ。

十人傷つけたから、十人愛せばゼロ。

そんな計算で、本当に罪は消えるのだろうか。

私が母へ言ってしまった言葉は、

今母を百回励ましたら、なかったことになるのか。

妻を傷つけた過去は、

これから良い夫になれば、歴史から消えるのか??


A.消えません。

だから、聖書のGood Newsは、

「もっと良い人間になって、自分で全部償いなさい。」

ではありませんでした。

十字架。


イエス・キリストは、罪のないお方でした。

それなのに、罪ある私たちのために十字架へ進まれた。

私たちが自分では払いきれないものを、

イエス様が負ってくださった。

そして三日目によみがえられた。

だから私は、

過去をなかったことにして生きているのではありません。

赦された者として、

新しく歩いている。

ここが大きく違います。

悔い改めとは、

自分を一生罰し続けることではない。

十字架へ向きを変えること。

「私は自分では自分を救えません。」

そう認めて、

イエス様がしてくださったことを受け取る。

そして、

赦されたからこそ、

今度は自分も赦す者として生きていく。

愛されたから、

愛する。

仕えてくださったから、

仕える。

これが、私が聖書から知った悔い改めでした。

十字架については、こちらに一つの記事としてまとめています。

▶ 関連記事
特別編 イエス・キリストと十字架。|なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。

私にとっての「逆刃刀」。


そして私は、剣心を見ながらもう一つ思います。

神様は、私の賜物を全部捨てさせたわけではありませんでした。

ラップ。

音楽。

レコーディング。

映像。

文章。

ディグること。

救われる前から持っていたものが、たくさんあります。

でも、

向きが変わった。

以前は、自分を証明するためにマイクを握っていた。

今は、Good Newsを届けるために握る。

以前は、自分がすごいと思われるために知識を集めていた。

今は、聖書をディグって、誰かがイエス様を知る入口を作りたいと思っている。

以前は、正論を武器にして人を変えようとしていた。

今は、愛によって人に仕えたいと思っている。

同じ口。

同じ声。

同じラップ。

同じ映像。

同じ文章。

でも、

刃の向きが変わった。

そう考えると、

私にとってラップも、

このnoteも、

ある意味では「逆刃刀」なのかもしれません。

人を傷つけるためではなく、

人を生かすために使う。

自分を大きくするためではなく、

誰かを救い上げるために使う。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


聖書には、こうあります。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

コリント人への手紙第二 5章17節

出典:聖書 新改訳2017



私はこの御言葉が好きです。

新しくなるとは、

過去の記憶が全部消えることではありません。

顔が別人になるわけでもない。

名前も同じ。

家族も同じ。

過去も同じ。

でも、

内側から新しくされ、

生きる方向が変わっていく。

剣心の頬から十字傷が消えないように、

私にも過去の記憶があります。

でも、

傷があることと、

その傷に支配され続けることは違う。

過去があることと、

過去と同じ方向へ歩き続けることも違う。

悔い改めは、後ろを向き続けることではなかった。


昔の私は、

「自分はこんなことをした。」

「自分はこういう人間だった。」

と過去ばかり見ていたことがあります。

でもイエス様は、

過去の自分を眺め続けるために私を救ってくださったのではありません。

神様のほうへ向きを変え、

新しい命を生きるために救ってくださった。

私は今でも失敗します。

妻とぶつかることもあります。

母に対してイライラする日だってあります。

子どもへの接し方を間違えることもあります。

悔い改めたら二度と失敗しない、

という話ではありません。

でも今は、

戻る場所を知っています。

「お父さん、ごめんなさい。」

そう祈れる。

御言葉へ戻れる。

愛へ戻れる。

赦しへ戻れる。

イエス様へ戻れる。

以前は、自分の正しさへ戻っていました。

今は、

父なる神様のところへ戻る。

この違いは、

私にとって本当に大きなものです。

人斬り抜刀斎から、不殺の流浪人へ。


Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

もちろん、剣心と私を同じだと言いたいわけではありません。

『るろうに剣心』はフィクションであり、

イエス・キリストは私が信じ、人生を預けている救い主です。

でも物語を入口にすると、

昔は気づかなかったものが見えることがあります。

人は、過去だけで決まらない。

人は、向きを変えることができる。

そして聖書は、さらにその先を語っています。

人は、自分の力だけで自分を新しくするのではない。

イエス・キリストにあって、

新しく生き始めることができる。

剣心は逆刃刀を持ちました。

私は十字架を知りました。

剣心は「もう殺さない」と歩き始めました。

私は、

「もう自分を人生の王にするのではなく、イエス様についていきたい。」

そう思うようになりました。

そして気がつけば、

触れることさえなくなっていた妻を、

もう一度愛するようになった。

一週間一緒にいることさえ難しかった母と、

何ヶ月も同じ家で暮らし、

ただ愛し、仕えるようになった。

手放せなかったタバコやお酒を、

手放すことができた。

自分を証明するためだったラップが、

福音を届けるためのラップになった。

私はこれを、

自分の努力だけで起こした変化だとは思っていません。

イエス様が、

私の人生の向きを変えてくださいました。

過去は変えられない。

でも、

歩く方向は変えられる。

そしてイエス・キリストにあって、

人は新しく生き始めることができる。

これが、

『るろうに剣心』をもう一度見た私が、

「悔い改め」という言葉の中に見つけたGood Newsです。

あなたは今、

どちらの方向へ歩いていますか。

そして、その先へ。


向きを変えることができたとしても、そこで物語は終わりません。

次に出てくるのは、

「じゃあ、誰について歩くの?」

という問いです。

剣心には、剣の道がありました。

師がいて、受け継いだ技があり、守ろうとする人たちがいた。

私にも、イエス・キリストと出会ったあと、同じような問いが生まれました。

救われた。

悔い改めた。

人生の向きが変わった。

では、その先、

私は誰の弟子として生きるのか。

何を受け取り、

何を次の人へ渡していくのか。

そこで思い出すのが、

『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』。

アバン。

ダイ。

ポップ。

マァム。

それぞれ全く違う個性を持ちながら、

同じ師から受け取ったものを、それぞれの形で生きていく弟子たち。

次は、

「弟子って、結局なんなの?」

を、ダイの大冒険からディグってみたい



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Blessings to you.

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