第67話『天元突破グレンラガン』と、イエス・キリスト。
「信じろ」と言われても、結局“何を”信じればいいの?
地下深くにある村で、地面に穴を掘りながら生きていた少年シモン。
彼は自分に自信がなく、いつも下を向いていました。けれど、彼とは正反対のような男、カミナだけは、シモンの中にある可能性を最初から信じていました。
「俺を信じろ。」
カミナがシモンへ語る言葉は、とても真っすぐです。自分を信じられないなら、まず自分を信じている誰かを信じればいい。その言葉に押し出されるように、シモンは地下の村を飛び出し、まだ見たことのない地上へ進んでいきます。
『天元突破グレンラガン』は、ドリルで大地を貫き、壁を壊し、天を突き破り、想像を超えるほど巨大な敵へ立ち向かっていく物語です。
でも、この作品が本当に描いていたのは、機体の大きさだけではなかったと思います。
自分には無理だと思っていた少年が、誰かに信じてもらい、仲間と出会い、痛みを通り、自分の足で立ち上がっていく。
その中心にあったものが、「信じる」ということでした。
けれど私は、大人になってから一つの疑問を持つようになりました。
「信じろ」と言われても、結局“何を”信じればいいのだろう。
自分を信じようとしていた私。
救われる前の私は、いろいろなものを信じていました。
自分の才能。努力。音楽。Buddhaの教え。宇宙。引き寄せ。瞑想。スピリチュアル。覚醒。次元上昇。
「意識を高めれば人生は変わる。」
「良いものを引き寄せれば、良い現実がやって来る。」
「ありがとうと唱え続ければ、世界は良い方向へ変わる。」
その一つひとつを、本気で実践していました。
車を運転しながら、一時間近く「ありがとう、ありがとう」と繰り返したこともあります。自然や宇宙、石や精霊、高次元の存在と呼ばれるものへ感謝し、何とか自分自身を高めようとしていました。
でも、どこまで行っても、私の中には埋まらないものがありました。
父の不在。
孤独。
罪悪感。
母との壊れた関係。
妻の心さえ十分に理解できていなかった自分。
メンタルトレーナーをひとつの柱とし、人に心の整え方を伝えようとしているのに、自分自身の心は全く整っていませんでした。
自分を信じようとしても、その自分が揺れていました。
現実がうまくいけば信じられる。失敗すれば信じられなくなる。
お金があれば安心できる。なくなれば不安になる。
人から認められれば自信が出る。否定されれば心が折れる。
信じる土台が自分である限り、その土台は状況によって何度でも揺れました。
「誰でも受け取れるギフトですよ。」
妻が先にイエス・キリストを信じ、水のバプテスマを受けた後も、私はまだBuddhaの弟子でした。
我が家では、「聖☆おにいさんみたいになってきたね」と冗談を言っていました。妻はイエス・キリストを信じ、私はBuddhaの教えを学んでいる。
その時の私にとって、キリスト教はまだ自分とは距離のあるものでした。
そんな私へ、Speedy UJは神の子として生きる魅力を何度も話してくれました。
「神様がお父さんになるんですよ。」
「神の子として権威が与えられるんです。」
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「これは誰でも受け取れるギフトみたいなものですよ。」
私はそれを聞きながら、「へえ、そうなんだ」と思っていました。
正直、まだよく分かっていませんでした。
だから私は、Speedy UJへ聞きました。
「それって、メリットとデメリットはないの?」
今思えば、神様から与えられる恵みに対して、損得を確認していたわけです。
でもSpeedy UJは、「デメリットなんてないですよ」と話してくれました。神様が父となり、神の子として歩み、神様が良くしてくださる。その魅力を、一つひとつ伝えてくれました。
それでも、当時の私はまだ半信半疑でした。
神様がお父さんになる。
神の子として権威が与えられる。
聖霊の力が与えられる。
「めっちゃファンタジーじゃん。」
そう思っていました。
私は異世界転生や特殊能力が登場する漫画やアニメが大好きでした。信じたら何かが発動するのか。受け取ると言ったら、本当に受け取れるのか。
疑いながらも、内心では少しワクワクしていました。
牛久に始まっていた教会。
その頃、Speedy UJから、茨城県の牛久市で教会が始まったことを聞きました。
現在のJTM、Jesus Tribe Ministries。その教会であるJTC、JTChurchが、私たちの家から車で三分ほどの場所にあったのです。
JTMのリーダーであるロギオンこと、岡野義喜牧師はもともと、松戸のグレイスホームで、実の父母、岡野俊之牧師、めぐみ牧師のもとに仕えていました。けれど神様から、親元を離れて一人立ちするように語られ、牛久へ遣わされたと聞きました。
「私は牛久へ行きたくないですよ。」
最初は、そのような思いもあったそうです。
それでも神様に従い、牛久で教会を始める。
そして、その場所が私たちの家のすぐ近くにあった。
今振り返ると、偶然とは思えません。
Speedy UJから「めちゃくちゃ近いので、一度来てみませんか?」と誘われ、私は日曜日の礼拝へ行くようになりました。
そこでは、ロギオンが聖書から語っていました。
そしてロギオンもまた、神様からの恵みは誰でも受け取ることができる、神の子、これはギフトなのだと語っていました。
けれど、私はすぐには信じられませんでした。
神体験をした人たち。
JTCには、それぞれ違う証を持った人たちがいました。
手術が必要だと言われていた体が、祈りによって回復した人。
長く痛んでいた膝が癒やされた人。
子どもの病気が回復した家族。
壊れていた親子関係が回復した人。
離婚寸前だった夫婦が、神様の介入によってもう一度一つにされた家庭。
もちろん、それはロギオン自身の力ではありません。
イエス・キリストの御名による働きであり、神様の生きた命によるものです。
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でも、当時の私には、その証をそのまま信じることができませんでした。
「本当にそんなことがあるのか。」
「思い込みではないのか。」
「たまたま良くなっただけではないのか。」
そう思っていました。
けれど、神の家族たちは、目の前で本当に喜んでいました。宗教の知識を説明しているというより、自分が体験したことを話していたのです。
「イエス様は最高ですよ。」
「神様は本当に良くしてくださいます。」
「チャンティさんにも神体験がありますよ。」
周りの人たちは、当たり前のようにそう言いました。
私はまだ信じ切れていませんでした。
でも、少しずつ思うようになりました。
「自分も神体験をしてみたい。」
信じる前に、すべてが分かるわけではなかった。
私は最初、全部理解してから信じようとしていました。
神様とは何なのか。
イエス・キリストとは誰なのか。
聖霊とは何なのか。
三位一体とは何なのか。
祈りとは何なのか。
バプテスマとは何なのか。
全部理解して、納得して、安全だと確認してから進みたい。
でも、信仰は、すべてを理解してから始まるものではありませんでした。
Speedy UJから聖霊のバプテスマを受けた時も、私はまだイエス様を十分に理解していませんでした。
それでも、「受け取ってみたい」と口にした。
そして、あの日を境に、私の中で火がつきました。
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聖書をもっと知りたい。
イエス様をもっと知りたい。
天の父とは誰なのか。
聖霊様とはどのようなお方なのか。
それまで、さまざまな方向へ向いていた私の、
「ディグる力」が、聖書へ一本化されました。
さらに聖書を調べる中で、北斗の拳のトキのモデルがイエス・キリストだと知りました。
子どもの頃から心を惹かれていたトキ。
自分を犠牲にし、弱い者を癒やし、人を生かすために自分を差し出した男。
「トキって、イエス様だったのか。」
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その瞬間、作品を通して抱いていた憧れと、イエス・キリストが一本につながりました。
気がつけば私は、イエス様のことをもっと知りたいと思い、水のバプテスマを受けたいと思うようになっていました。
スタジオで起きた神体験。
水のバプテスマを受けてから、まだ一、二週間ほどだったと思います。
私はスタジオで、一人で祈ってみることにしました。
その頃の私は、祈り方さえよく分かりませんでした。
周りの神の家族たちは、神体験があると言っている。
ならば、自分も神様へ聞いてみよう。
私は、スタジオの中で祈りました。
「神様、本当にあなたがおられるなら、私に分かるようにしてください。」
「私は、これから何をしたらいいんですか。」
「あなたの愛を、私にも分かるようにしてください。」
時間にして、10分ほど祈っていたでしょうか。
突然、体が温かくなり、涙があふれてきました。
悲しいわけではありません。
誰かに責められたわけでもありません。
でも、涙が止まりませんでした。
そして私は、祈りの中で言いました。
「お父さん、本当にいたんですね。」
父を知らずに育った私の心に、父なる神様の存在が触れた瞬間でした。
その時、私はなぜか続けて言いました。
「ラップがしたいです。」
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第6話 お父さん、ラップがしたいです。
長い間、自分の中で閉じ込められていたものが、神様の前で言葉になりました。
人に認められるためでもなく、自分を大きく見せるためでもなく、神様から与えられた賜物として、もう一度ラップがしたい。
この祈りから、私の音楽はもう一度動き始めました。
それは、知識だけでは説明できない体験でした。
「ああ、神様は本当におられる。」
誰かの証を聞いていただけだった私に、自分自身の証が与えられたのです。
「信じたい」と思った時、私は一歩を踏み出した。
神様は、私が信じる前から私を見つけてくださいました。
私が神様を探し出したというより、神様が私の人生へ何度も働きかけ、Speedy UJを送り、妻を先に救い、家から三分の場所にJTCを備え、ロギオンと神の家族たちへつないでくださいました。
でも、最後に「信じます」と決める部分は、私自身へ委ねられていました。
神様は無理やり信じさせるお方ではありません。
愛を示し、御言葉を語り、証を見せ、扉の前に立ってくださる。
けれど、その扉を開くかどうかは、自分に委ねられている。
私は、すべてを理解したから信じたのではありません。
「本当に神様がおられるなら、信じてみたい。」
その思いから、一歩を踏み出しました。
そして一歩を踏み出した後、私は次々と神様を体験していきました。
信じられる証拠を全部集めてから進んだのではありません。
進んだ先で、信じる理由を何度も受け取ったのです。
グレンラガンと、私の信仰。
シモンは最初、自分を信じることができませんでした。
だからまず、自分を信じてくれるカミナを信じた。
そして、さまざまな痛みや戦いを通り、自分自身の足で立つようになりました。
この流れは、私の歩みとも重なります。
私は最初、神様を信じることができませんでした。
けれど、妻が信じていました。
Speedy UJが信じていました。
ロギオンが信じていました。
神の家族たちが、神様は本当に良くしてくださるお方だと信じていました。
私はまず、彼らの証を聞きました。
そして、「この人たちが信じている神様を、自分も知ってみたい」と思いました。
でも今は、誰かが信じているから信じているのではありません。
私自身が、神様を体験しました。
祈りの中で触れられ、父なる神様を知り、人生を回復され、家庭を回復され、音楽をもう一度与えられました。
だから私は、自分の言葉で言うことができます。
イエス・キリストは生きておられます。
自分を信じることと、神様を信じること。
グレンラガンには、自分自身を信じて前へ進むという力強いメッセージがあります。
それは、人が立ち上がるための大切な力です。
でも、私には、自分だけでは突破できないものがありました。
罪。
孤独。
父の不在によって空いた心の穴。
母への怒り。
妻を理解できなかった自分。
タバコ。
お酒。
死への恐れ。
自分の努力では、どうしても変えられなかったもの。
それを突破してくださったのは、私自身ではありませんでした。
イエス・キリストでした。
聖書が語る信仰は、「自分にはできる」と言い聞かせることではありません。
「私にはできなくても、神様にはできる」と信頼することです。
自分の強さを土台にするのではなく、神様の強さを土台にする。
だから、自分が弱い日にも信仰は失われません。
失敗しても、神様の愛は変わらない。
状況が動かなくても、神様の御言葉は変わらない。
私が揺れても、神様は揺れない。
そこに、以前の私が求め続けていた本当の土台がありました。
信仰とは、神様のことばに立つこと。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
使徒の働き 16章31節
聖書は、ただ「何かを信じなさい」とは語りません。
信じる対象を、はっきりと示しています。
主イエスを信じなさい。
私は長い間、信じる力そのものが重要なのだと思っていました。
強く願うこと。
良い未来を思い描くこと。
自分にはできると言い聞かせること。
でも、大切なのは信じる力の強さだけではありません。
誰を信じるのか。
何を土台にするのか。
そこが違えば、同じ「信じる」という言葉でも、向かう先は全く変わります。
私は、自分自身ではなく、宇宙でも、引き寄せでも、偶然でもなく、イエス・キリストを信じるようになりました。
その信仰は、私の人生を少しだけ変えたのではありません。
私を新しく生まれさせ、父なる神様の子として歩む人生へ変えてくださいました。
天を突くドリルと、贖いの十字架
『天元突破グレンラガン』は、限界を突き破る物語です。
目の前に巨大な壁があっても、昨日の自分より一歩前へ進む。
無理だと言われても、仲間とともに立ち上がる。
その熱さが、私は大好きです。
けれど、私が人生の最後に託したものは、自分自身の螺旋力ではありませんでした。
イエス・キリストの十字架です。
私が神様までよじ登ったのではありません。
神様が、私のところまで来てくださいました。
私が自分の力で罪と死を突破したのではありません。
イエス様が十字架と復活によって、すでに打ち破ってくださいました。
だから信仰とは、何かを無理やり起こすための力ではありません。
すでにイエス様が成し遂げてくださったことを受け取り、その御言葉に立って歩むことです。
私は、自分を信じられなかった時期がありました。
それでも、神様は私を信じるに値する者へ変わるまで待ってから、愛してくださったのではありません。
弱く、迷い、何も分かっていなかった時から、愛してくださいました。
Buddhaの弟子だった私を見つけ、イエス・キリストの弟子として歩ませてくださいました。
そして今、私は自分の強さではなく、私を愛してくださったお方を信じて歩んでいます。
あなたは今、何を信じて歩んでいますか。
ディグってみたい
・信仰と、ただの思い込みは何が違うのか。
・なぜ聖書は、信じる「対象」をはっきり示しているのか。
・自分を信じられない時、何を土台にすればよいのか。
・もし神様がおられるなら、あなたは何を聞いてみたいですか。
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▶ 第65話「祈り」って、結局なんなの?|宇宙へ願いを投げていた私が、「父なる神」と話すようになった。
▶第63話「覚醒」って、結局なんなの?|「次元上昇」を求めていた私が、イエスの「新しく生まれる」を知った。
▶ 第61〜65話まとめ「Good News」を知り、「救い」「新生」「御国」「祈り」へ。|Buddhaの弟子だった私が、「父なる神」を知るまで。
Blessings to you.
