nobsse obligeを生きる
公立の中学高校から、(ガチガチに勉強しないで)現役で東大・難関大医学部に入るやつがいるやん。
— Mii (@Drmiidrdr) June 1, 2026
この素質の層を、SAPIX(浜学園)〜鉄緑会で受験特化させると東大理三に受かる層になるんじゃないかと予想している。
ラサールとかには、普通に授業聴いてる以外の何も受験勉強してないまま東大に現役で受かる輩はいくらでもいます。
— 阿世賀浩一郎@メンタルヘルス相談スポット西鉄久留米駅東口で随時開催 (@kasega1960) June 1, 2026
私自身、教員養成大学附属中学へのエスカレーター進学の権利失い、公立中にしか行けなくなるリスク冒すな!と、久留米大学付設中受験を教師に止められた人間ですから(続)
最後に東大大学院所属に至ったのは「別ルート」を取っただけ、ともいえるかもしれまえんが、高校世界史が全国模試50番台になった時も、業者テストで(付属小で)唐突に学年2位になれた時も、共通一次国語200点満点自己採点の時も、特に努力してそうなった意識皆無です。自分で「ふーん」という感覚。
— 阿世賀浩一郎@メンタルヘルス相談スポット西鉄久留米駅東口で随時開催 (@kasega1960) June 1, 2026
でも、自分で努力したという認識がないとうことは、「報酬/見返りが欲しい」という意識がないということになります。
— 阿世賀浩一郎@メンタルヘルス相談スポット西鉄久留米駅東口で随時開催 (@kasega1960) June 1, 2026
そして、神様が勝手に自分に「責務(noblesse oblige)」背負わせて来やがって!というプレッシャーに追われるのみ。当人の内側の実感からすれば。
これで正気でいるの大変なんよ。
nobsse obligeについてご解説を。
私の成育歴とも絡めて。
16秒間シンキングしました
ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)とは、フランス語で「高貴なる者の義務」という意味の概念です。
貴族(noblesse)や高い地位・能力・恵まれた立場にある者は、それに見合った社会的責任・道徳的義務を果たすべきだ、という考え方です。
由来と意味
19世紀初頭のフランスで広まった言葉(1808年頃の記述が起源とされ、バルザックなどの文学で普及)。
聖書のルカによる福音書12章48節「多く与えられた者には多く求められる」に由来するとも言われます。
元々は封建時代の貴族が、特権(財産・地位・教育の機会など)を得る代わりに、社会の模範となり、弱者保護や公的義務(軍務、慈善、模範的行動など)を果たす不文律でした。
現代では、高学歴者・富裕層・有名人・能力ある人々が「社会の規範となる振る舞い」「貢献」を期待される意味で使われます。法的強制力はないものの、社会的・倫理的なプレッシャーとして機能します。
日本では「武士道」の一部(新渡戸稲造が関連づけた例あり)や、企業人の社会的責任(CSR)などと重ねて語られることがあります。
ポジティブに「余裕ある人が率先して社会に還元しよう」という励ましとして使われる一方で、負担感として「神様が勝手に義務を背負わせてくるプレッシャー」と感じる人もいます(あなたのご投稿でも触れられていましたね)。
あなたの成育歴との絡みあなたのnoteや最近のポストから拝見した限り、**「努力したという実感が薄いのに、結果として高い地位・能力を得てしまった」**という体験が、ノブレス・オブリージュの「義務感」と深く結びついているように見えます。
幼少期〜学生時代:福岡・久留米の教員養成大学附属校で育ち、親から「勉強しろ」と強く言われず、ほめられる経験もほとんどなし。
一人っ子で物質的には恵まれていたが、「甘える」より「甘んじて」受け取る形。いじめ体験もありつつ、業者テストで唐突に学年2位になったり、高校世界史で全国模試上位になったり、共通一次国語満点級の出来でも「ふーん」という感覚。東大大学院(別ルートながら)への到達も「努力の実感皆無」。
その後の道:法政大哲学科 → 立教大大学院 → 東大院研究生・心理教育相談室 → 臨床心理士資格 → 大学カウンセラー常勤 → 独立開業、フォーカシング専門家として著書執筆、Focusing Professional認定など。
メンタルヘルス分野で長く貢献し、地元久留米で相談スポットを続けています。
この「才能や機会が『与えられた』感覚」が強いと、**ノブレス・オブリージュが「内側からのプレッシャー」**になりやすいです。
あなたの場合:
「自分で努力した認識がない → 報酬を強く欲する意識が薄い → 代わりに『責務』を神様(あるいは社会・内なる声)が背負わせてくる」という構造(ご自身の最近のポスト通り)。
親の無干渉・非干渉的な養育が、「自発的に意味を探す(学習哲学、日記、ヒルティなどの読書)」力を育てた一方で、外部からの「頑張れ!」という後押しが少なく、成果を「自分のもの」と実感しにくかった可能性。
結果として、臨床心理士・カウンセラーとして他者の心の苦しみを理解し、支える立場に自然と立っている。
これはまさに「与えられた能力(洞察力、知識、感受性)を、社会的弱さや迷いを持つ人に還元する」ノブレス・オブリージュの実践形と言えます。
あなたは「努力の実感がない」からこそ、純粋に才能や機会を『預かっている』感覚が強く、カウンセリングや執筆(フォーカシング入門書、臨床家向け本、ウマ娘精神分析などの同人誌まで幅広い)を通じて、「多く与えられた者として応える」生き方を体現されているのではないでしょうか。
プレッシャーが「正気でいるの大変」になる面もあるでしょうが、それがあなたの誠実さの表れでもあります。
もしこの「義務感」の重さを軽くしたり、再解釈したい場合、フォーカシングの技法(あなたのご専門)で「今、この義務感が体の中でどう感じられているか」を丁寧に聴いてみるのも一手です。
才能は「背負うもの」ではなく、「自由に活かしてよい贈り物」として捉え直す余地もあるかもしれません。
ご質問の意図に沿った解説になったでしょうか。ご自身の体験をさらに深掘りしたい点があれば、ぜひお聞かせください。
たまたま中学時代にスイスの高名な弁護士で宗教的著述家、「幸福論」や
「眠られぬ夜のために」で名高いカール・ヒルティと出会い、人生の師としたこともありますし、フォーカシングが、環境と相互作用する自分の有機体的身体の内側からの容易に言葉にならないメッセージの「聴き手」となるという性格が強いこともあり、私には、神様の導きのようなものが自分に絶えず働きかけているという感覚が全く自然なものです。
要するにもはや通常の自分から「解離」した「Hyer Self」としての高次存在が普段から「交代人格」として平然と常駐していて、高度な状況判断は、「普段の私」のことなどおかまいなしにやっている。
だから、例えば忘れ物をして予期したとおりに物事が進行しなくなることなら、(アダム・スミスの「国富論」じゃないですが)交代人格としての「見えざる(神の)手」が勝手に忘れ物を「させる」ことで私をコントロールしたということであり、おそらく「今ストレートに実行出来たら時期尚早、あるいはまだ経験不足」と「神様」が判断したゆえの軌道修正として「わざと」できなくされた、という「お計らい」の世界。
だから、それに逆らわずに"Let it Be"していれば、
「なるようになるダバないダバさ」
(「魔法のプリンセス ミンキーモモ」のモモのお父さんの魔法の国、フェナリナーサの王様の口癖)

と達観しているから、焦りやルサンチマンにとらわれずにいられるだけです。
自分は神様が勝手に今のようにお創りになった被造物という感覚ですから、やれといわれればやるけど、いつ使命満了で使い捨てられてもいい、これまでも努力もさほどしてきてないのになかなか体験えきないような結構面白い人生歩んできたと思っているからいつでも「わが人生に悔いなし」です。
ただ仮にも少し有名になれという神様のお達しがあれば、せっかくバイトで警備会社とのコネできたんだから、外出時の同行者あるいは運転手として
SPくらいひとり雇う必要
はででくるかも、とは半分マジに思っています。
ただ、すんごい努力をしたつもりはないけど、「夕鶴」のおつうのごとく、毎日自分の胸をついばみ、羽毛を抜いて文を紡ぎ出していることくらいは、察して欲しいなあ、とは思っています。
「身を削って」しか、こんな文章群、書いて来れない、ということを、読者の皆様が察してくださっていれば。
それは、YOASOBIの「群青」の歌詞への圧倒的共感について書いた時の記事の通り。
好きな ことを 続ける こと
それは楽しいだけじゃない
大丈夫 行こう
あとは楽しむだけだ
なるほど、私はけっこうええかっこしいではありますが、しかし同時に、
なんでもないわ 大丈夫
どこにも隙はない
と見せかけている、
パウダールームの自己暗示
男であり、
すべては演技、役者としての自分しかこういうところではさらしていない、あえて「場の空気」に挑む、確信犯的「ペルソナ」使い、トリックスターですから。

