エルフィ・ヒンターコフ追悼文 : 私に「パターナリズム」超克の重要性をきづかされてくれたフォーカシング教師
フォーカシングの世界的な教師だった #エルフィー・ヒンターコフ が、1月21日、82歳で亡くなりました。

私は、2002年の米国と2004年のコスタリカでの国際会議で彼女の発表に参加しました。
それぞれ、夢とフォーカシング、霊性(#スピリチュアリティ)の統合というテーマでした。
コスタリカで、日本人の参加者が、感じたことを俳句で表現したことをほめていました。彼女は、やわらかな雰囲気の人でした。
「いのちとこころのカウンセリング 体験的フォーカシング法」という著書(日本語版:2000年出版)にも目を開かされました。
彼女は日本でもワークショップを開き、散歩しながらのフォーカシングを「ウォーカシング」と名付けて楽しみました。
彼女は若いころ、ウィーンに留学して「#夜と霧」の著者で心理学者のビクトル・フランクル に学び、米国に帰ってシカゴ大学の #ユージン・ジェンドリン にフォーカシングの草創期から師事しました。
カウンセリングで役立つ心理、霊的な成長に興味を持ちました。「霊性」を「現実に根付いた成長体験であり、そこから人が生きるエネルギーや幸福を感じるような体験」と考えました。そういう意味で、「霊的な体験は、どんな宗教の中にもあり、宗教以外の場でも起こりえます。たとえば、人は自然や詩や人との関係に、霊性を感じることもあります」と書いています。
その例として、日本人の思いやりや、生をゆっくり丁寧に味わう態度を挙げました。
たくさんの絵はがきを眺めて、自分のひかれた絵はがきを選んで、感じられる意味を受けとる「ポストカードフォーカシング」は1980年代に彼女が発案しました。
「霊性」と日本語で言うと、宗教がかったイメージがあります。しかし、日常生活で私たちが体験している、時のたつのを忘れるような感覚です。私もすばらしい音楽や絵、美しい風景を見たときの感じなどが浮かびます。
ご冥福をお祈りします。
以上、上村英生 さんのfacebook 記事を転載。
私のコメントとしての #追悼文 :
たいへん残念です。
でもお年を召される頃ではありましたでしょうから、神さまがお呼びになる順番がめぐって来たのだと、暖かくお送りするのがふさわしいかもしれません。
今頃天国でジェンドリンが待ちくたびれてたぜとばかりに歓待してくれているかもしれませんし。
エルフィ来日時にスピリチュアリティ のワークショップで、志願した私の蔵王での光景の思い出についてのワークで、「どうしようもなくそこにある」→「#絶対的父性」というたいへん意外で思いもよらない気づきを得たことが忘れられません。

日笠摩子さんは私の「絶対的父性」という言葉を”Paternity”と訳して彼女に伝えたのですが、実はこの”Paternity”と訳されてしまったことにはその時から違和感がありました。
なぜなら、”Paternity”とは”perternalism”=慈父主義 という言葉に通じるものです。
つまり、母性的で庇護的だが、お節介な親切の押し売り、干渉的で自分の描く理想のイメージを子供に押し付け、個性を奪い「いい子」にしようとする父性を連想させてしまう。
福祉や看護の業界には、この「パターナリズム」的な利用者の支配とコントロールが、「利用者の社会復帰促進のため」の「善意」の仮面を被って未だに跋扈しています。
さすがに心理職業界では、クライエントの自己実現を阻害する「パターナリズム」的な関わりへの疑問を呈し、そこに隠された「非対称的」な関係性 と 「権力構造 」を克服する必要を訴えることがまさに今のトレンドです。
これが暴力に晒される身体的女性の差別克服というフェミニズム的社会運動とも連動しているのがたいへん興味深いところです。
すなわち、単なる”Paternity”はむしろ超克されねばならない。
ある意味で、「絶対的」父性、すなわち一神教 的な父性神との関わり、という設定が、この「パターナリズムによる利用者支配」というテーマを解決していく上で重要かと思います。
神はまさに天に「絶対的にそこにおられる」形で地上の私たちを照覧なさってはいる。
しかし、何かをして助けてくれるわけではない。
神は神の裁きを一方的に押し付けるのみ、人類はそもそも神の気まぐれが作りたまいし泥人形に過ぎず、神は気まぐれのままにそれをもてあそび、「利用」し、飽きたら打ち捨てる。
しかし、そういう残酷な神への信仰によって救済されるように、祈る以外は、人間にはできない。
人間が「いいこと」をしたから、神は見返りとして救済してくれる、という教義はユダヤ・キリスト教世界には本来存在しない。
「ただ信仰によってのみ義とされる (ルター)」
という信仰義認説こそ正統の教義です。
すなわち、援助的専門家が、利用者を、社会に受け入れられる「善人」(いい子)になるようにとして育てるという「善行」を積むことが、神からの見返り的救済の契約でもあるかのように期待しているのでは、キリスト教的=欧米的人間観の根底を理解していないことになります。
カウンセラーである我々も、普段はクライエントを「見守る」存在に徹するべきでしょう。
ああしろ、こうしろとは言い過ぎない。
(仮にクライエントさんに有益そうな情報提供をするとしても、それを活用するか否かの決定権は、あくまでもクライエントさん側にある)
中島みゆきの「空と君のあいだに」でいう、
ポプラの枝
になり、
ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ いつまでも
でいい、あとは話の丁寧な聴き手であればいいかと思います。
ただし。
決定的な場面では、
君が笑ってくれるなら
僕は悪にでもなる
決断力は必要かと思います。
これが、私が最近やっとたどり着いた、エルフィとのワークへの回答です。
上村さんの、エルフィの訃報に接して、私が今のタイミングで、さらさらと最近抱くようになったカウンセリング観の核心を書き下せたのも、エルフィを天に召された 神さまの計らいかもしれません。
長文お読みいただいた皆様には感謝申し上げます。
