ローリング・サラリーマン詩篇 the last chapter: パリで一番素敵な場所は
彼女の名前はイザベルだった。
なんと、イベントで流す映像を制作するために、華の都パリに海外出張することになったのである。パリというのは、正真正銘フランス共和国のパリである。日帰り出張全盛の現代日本にあって、こんなラッキーなことはとかく滅多にないのである。
そして、この仕事の現地アシスタントが彼女、イザベルだった。
まず僕は、思い描いていたパリジェンヌのイメージとまるでかけ離れた彼女の風貌に面食らった。パリジェンヌは当然ブロンドボブでボーダーカットソーにブラックデニムだとばかり思っていたのである。ところがイザベルは180センチはある長身で、ミディアムローストのコーヒー豆のような肌に、目鼻立ちははっきりくっきり。エキゾチックなふさ眉に、意思の強そうなライトブラウンの瞳。強いパーマの髪は肩甲骨の辺りまでぶわわっと空気を含みながら広がっており、化粧っ気はなく、ずっとダンガリーシャツにジーンズ姿だったので、それはそれはワイルドに見えたのである。雄のライオンみたいだなと思ったのである。
しかしこの相当にアグレッシブな感じは仕事にも徹底されており、とにかく熱心にサポートしてくれた。観光客気分に陥りそうな僕の手綱を要所要所でしっかりと締めてくれ、あれこれ戸惑うことなく、良いか悪いか、そうすべきか否か、判断することに集中させてくれた。慣れない土地であれやこれや考えごとなど出来るタイプではないことを読み取ってくれたのである。バレていたのである。
たかだか五日ほどの出張ではあったけれど、僕は仕事も佇まいも真っ直ぐな彼女のことがすっかり気に入り、しんじつこういう人と日本でも仕事がしたいと思った。
とにかく初めての土地であれこれ想像以上に世話になった御礼がしたいと思い、東京に帰る前夜に僕はイザベルを食事に誘った。フランス語など出来るはずもない僕は、辿々しい英語でやりとりをしていたのだが、「喜んで」ということだったので、仕事のまとめを終えホテルに一度戻り、チェックアウトの準備を済ませてから、予約しておいたレストランに向かった。
そして、待ち合わせ時間ぴったりに現れたイザベルを見て、僕は再び面食らった。
仕事中の彼女の姿とは、情熱的という点では同じだが、まるで別人だったのである。
真っ赤なパンプス。その上に伸びる脚はグラサージュショコラのよう。膝上丈のグレーのニット地のワンピース。ウエストにはサンドベージュの細い細い革ベルト。露わな肩。腕に抱えられたゴールドのバックルの赤いバッグ。髪は黒いツヤ革のカチューシャでアップされ後ろでまとめられ、ボルドーの口紅が際立つ顔に、僕はどこを見ていいのか恥ずかしくなるほどだった。
なんですかいきなり。パーティー仕様ってやつですか。お粧しして行くわよって、前もって言ってくださいよ。明らかにたじろいじゃったじゃないですか。
何か言わなきゃ。もはや平静を装うので精一杯です。胸元は煎りたてのようにくゆりながら匂い立つよう。その野性の香りを飼いならすかのようにきらめくゴールドのアクセサリー。
イザベル、君はなんて、なんて、なんて、なんて…。
「なんですか?」
「…………。」
こういうのに慣れていない僕は、彼女に見とれるばかりで言葉がみつからなかった。
そうだ、なんて、ゴージャスなんだ。
「メルシー♡」
どきまぎしながらドアを開いて立つ僕の斜め上を横切る彼女の悪戯っぽい笑顔は、征服者が馬上からこぼす笑みのようだった。彼女の後ろを続くと、バニラのような香水の刹那に記憶回路がふっ飛ぶようだった。
これまたレストランの雰囲気も料理も実に素晴らしく、食べるのも、時間が経つのももったいないと思えるほどだった。素敵な時はなぜこうもあっという間に過ぎ去ってしまうのか。今に夢中で未来を予感することすら忘れてしまっているから。
ともかくレストランを出て彼女から食事の礼を言われると、現実が前触れもなくやって来たように感じられて、寂しい気持ちが海風のように広く押し寄せた。
未練が顔に出てしまったのだろうか。彼女が思い直したように、
「そうね…、パリで一番素敵な場所を知ってる?」
と聞いてきた。
僕は内心「今、ここ。君の前!」と思ったのだが、多少酔っていたとはいえそんなこと言えるはずもなく、「どこだろう?」と答えた。
「シャンゼリゼ通り?」
「ノン。」
「ルーブル?」
「ノン。」
「エッフェル塔?」
「ノン。」
「モンマルトル?」
「ノン。」
「サンジェルマン・デ・プレ?」
「ノン(笑)。」
ガイドブックの見出しみたいになってきたところで、くすくす笑う彼女が、「今からそこに一緒に行ってみない?」と言うではないか。行きます、行きます、どこにでも行きます。
案内されたのは、パリの若い人の間で流行っているという超絶オシャレなクラブだった。なるほど、これは素敵ですな。置いてあるオブジェが何やら官能的で、客も店員さんもみなかっこいい。こういう場所がリアルに存在するのが流石ですな。
「わあ、これは確かに素敵な店だね。」と声をかけると、彼女は僕の手を握って、店の奥のテーブル席まで連れて行った。しばらく二人で何を話すともなく、音楽に体を揺らしながら、頼んだカクテルを挟んで微笑みあっていた。なんだかこれ、恋人同士みたいだなと思っていると、イザベルが「いっしょに踊りましょう!」と言う。上手く踊る自信のない僕は「音楽を聞いてる方がいい。」と本気で腰を引いて断り続けたのだが、最後は強引に手を引かれダンスフロアに連行された。
出た。やっぱり情熱的なイザベル。音楽を味わい尽くすように全身をくねらせるよじらせる。こっちは1、2、1、2、リズムをとるのが精一杯で、手足がバラバラの体操みたいな動きになっているのだが、彼女はノリノリで、時折、腰や脚や背中をすり寄せてくる。激しい。激しすぎるよ、イザベル。僕はこういうのに慣れていないんだ。日本人である僕は、なんで人前でそんな顔ができるのだろうと邪な思いに囚われて、フランス人の彼女のように、ただそこにある快楽を捉えることが出来ない。簡単なことのはずなのに。フロアを走る光であっという間に迷子のような気分になり、ズンズンと響く音に眩むようだった。
彼女が踊るのをやめ、テーブルに戻った時には、正直ホッとした。「ふう、楽しいわね。」
僕の方を見ずに彼女が楽しいと言ったことで、僕はちょっと落ち込んだ気分になった。喉が渇いたとばかりにラムコークなんか飲んでいる。ああ、これならさっきのレストランの方がよっぽどパリで一番素敵な場所だった。
すると彼女が真っ直ぐ僕の方をみつめるので、拗ねているのが見透かされたのかと焦った。
「じゃあ目的地に行きましょうか。」
「えっ?」
聞き間違いかな。
「パリで一番素敵な場所って、ここじゃなかったの?」
大音響の店を出て、もわんもわんとする頭でなおさら聞こえづらいのも加わり、二度三度問い直す僕に「ええ、ここじゃないわ。」と嘯くイザベル。オレンジ色の街灯に照らされる石畳の上を影と一緒になってふざけるように先へ先へと歩いていく。僕はさっきの店で終わりでなくてよかったと内心うれしく思いながらも、どこへ向かっているのか見当もつかず、ただ彼女に付いてゆくしかなかった。もう時計は午前二時を回っており、パリのどの辺にいるのかも分からない。
歩き始めてから二十分ほど経ってたどり着いたのは、「エスケイプ」という英語の名前のバーだった。これなら僕にも分かるぞ。はいはい、いいですね。
店は地下にあり、かつてそこにあったカーヴと呼ばれるワインの貯蔵庫を改装して作ったらしい。これまた相当に大人っぽい店で、入り口で料金を払うと、ロックグラスのように太い赤いキャンドルを渡される。その灯りを頼りに店内を歩くのだが、店にキャンドル以外の照明が点いておらず、ほとんど真っ暗なのだ。これは、素敵。
足元しか見えない中、手探りのように空いているソファーを探す。フロアに壁の間仕切りはなく、席ごとにカーテンで区切られているのだが、姿は見えずとも絶対恋人たちであろう声は聞こえるのである。で、二百パーセント、あっちゃこっちゃでチュッチュやっているのも聞こえるのである。
大丈夫ですか、イザベルさん。僕、男ですけれど。はい、さっきは上手く踊れなかったですけど。これはさすがに、ほぼ密室ですし。周りはあんな感じですし。三十代半ば過ぎて国際結婚が視野に入ってきました。
しかし大丈夫なのかと問いたくなるのはこのどうしようもない男の方で、雰囲気負けした僕は、「店員さんはこの暗さでよく迷子にならないもんだ。」とか「カーテンに火が点いて火事になったりしないのだろうか。」とか、子供のようなしつもん(、、、、)を繰り返したのである。素直なイザベルに「店員さんの中には視覚障碍者もいるそうよ。」と教えてもらい、なるほどフェアな街だな、などと納得している場合ではないのである。
はあ、我ながら情けなくなる。こんな僕に同情してくれた訳ではあるまいが、話題を探しがちな僕に、彼女はあれやこれやと話題をふって話してくれた。それどころか長い時間をかけて自分の将来の夢を語って聞かせてくれたのである。すごく彼女のプライベートな部分を見せてくれたようで、僕はなにかとても温かい気持ちになった。それは他人に明かすと嘘になってしまいそうで、人には内緒にしておきたい僕の宝物である。
どのくらいの時間を過ごしたのだろう。僕は十二分に満足した気分、いや精神状態になっていたので、「そろそろ出ましょうか。」と彼女が言った時、いよいよ別れの時が来たと分かっても、「そうだね。」と微笑み返すことが出来たのである。仕事でやってきたパリで、こんなにもいい思い出に恵まれた。
「それじゃあ、パリで一番素敵な場所に案内するわね。」
彼女がそう言った時、僕は耳を疑った。
「えっ。ここでもなかったの。」
笑うイザベル。これ以上どんな素敵なことがあるだろうか。しかし、イザベルの悪戯はまだ終わってなかったのである。
それからイザベルと僕は歩き続けた。街の細い舗道をいくつも通り抜け、セーヌ河に沿って歩いている。しかしちっとも目的地に着く様子がないので、これはもしやただ歩いているだけなのではないかとも思い始めた。もしそうだとしたら、ありがとうイザベル。君の貴重な時間を使ってくれて。しかし、この様子だとパリを一周する勢いである。足に豆が出来てもおかしくないコースである。
「イザベル、もう近くなった?」
「もうちょっとよ。」
「あと、どのくらいかな?」
「そうね、もうちょっとがんばって。」
こんな会話を何度繰り返しただろう。セーヌの岸辺をずいぶんと歩くうち、僕は頭の中に?マークが浮かび始めた。もしかして、ゴールはないのかな? これは僕が何か言わなくちゃならないのかな? レストランで食事して、クラブで踊って、バーへ行って。この流れから行くと、僕が何かアクションを起こさなきゃいけないのかな。やっぱ、そうだよな。ここまでイザベルにリードしてもらって。態度で示さなければ。男として。ぐるぐる考えながら。大人の男として。
「イザベル、」
「着いたわ。」
彼女はやっと足を止め、こちらを振り返ってにっこりと微笑んだ。
「ここがパリで一番素敵な場所よ。ほら。」
イザベルがその長い指で示した先に、何が見えたと思う? 忘れもしない。
それは、セーヌ河の彼方から、今まさに姿を現している太陽だった。
彼女は夜通し僕を引っ張り回して時間をかけ、セーヌに輝くパリの夜明けを見せてくれたのだ。
この石畳の続く遥か向こうの川岸の石に光が当たり、その石が目覚め、隣の石を呼び起こし、その石がまた隣の石に「ほら、朝だ。」と声をかけ、そうやって光を受け渡しながら、連なって僕の足元にも朝が来る。
周りの空や雲を引き連れるように明るむ太陽は、セーヌにやわらかに照り返し、弾けた光はむしろ硬くなって街並みを金色に染める。
明るさがそこかしこに差し込んで巡り、溢れる水のように満ちてゆく。気づけば鳥の声や車の音も聞こえる。
僕は自分の心がこの光に照らされてオレンジのようにピチピチとするのを感じた。疲れなぞ吹っ飛んで、川面に反射してもなお僕に届く愛を感じた。
なんと、素敵な心遣いだろう。
「ありがとう、イザベル。本当にありがとう。」
僕は夜明けに包まれる彼女を、その光ごと抱きしめた。
パリとは単に場所の名前ではない。そこで住む人々の想い、感性、生き様を含んだ呼び方だ。
僕は東京が好きだが、これだけの思い入れがあるだろうか。愛とも呼べるような。
そして、僕はそこでこんなにも活き活きと生きているだろうか。人生で大切なことが何かを、こんなに明確に感じているだろうか。
なぜかふと、東京で働き始めた時のことを思い出す。
僕はその頃、自分の心が弾むように仕事がしたいと思っていたのである。面白いとか、美しいとか、そして素敵だとか、そんな風に思える仕事がしたいとはっきり思っていたのである。
長く働いているうちに、すっかり忘れてしまっていた。いやいや自分で蓋をしていた。何やかんやと出来ない理由をつける技術は発達した。そううまくはいかないと納得するのも上手くなった。ピチピチとした気持ちにならない自分に慣れてしまった。
しかし、僕は今、ふたたびそういう気持ちになった。
大丈夫だ。僕は大丈夫なのだ。
そして僕は、次々と面接を落ちて途方に暮れていた大学生の頃の自分を思い浮かべた。ほら君、大丈夫だよ。君は何年も働いてオッサンになっても、喜びを思い出すよ。君のように四苦八苦しながら、今でもなんとかやってるよ。こんな素敵な出会いのおかげで。たくさんの周りの人のおかげで。
僕は思わず彼に向かって「君は大丈夫だから!」と叫んでやった。
さあ、こんなにも素敵な心をもらったのだ。一刻も早く戻って、サラリーマンらしく楽しく仕事をしようじゃないか。
ありがとう、イザベル。
ありがとう、パリ。
東京よ、待ってろよ!
ローリング・サラリーマンのお話は、いったんおしまい。
仕事は、つづく。
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この詩篇はフィクションです。
実在の人物・会社とは 一切関係がありません。
ローリング・サラリーマン詩篇 prologue
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 1: CONVENIENCE STORE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 2: E-MAIL
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 3: 7:00AM
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 4: TRAIN
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 5: GODZILLA
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 6: BIKINI MODELS
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 7: PRESENTATION
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 8: MASSAGE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 9: STAFF
ローリング・サラリーマン詩篇 poem: なりたいもの
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 10: TAXI DRIVER
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 11: NIGHT LIFE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 12: GHOSTS
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 13: NICKNAME
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 14: JAZZ CLUB
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 15: NURSE
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 16: LUNCH
ローリング・サラリーマン詩篇 chapter 17: FAREWELL PARTY
ローリング・サラリーマン詩篇 the last chapter: パリで一番素敵な場所は
