龍宮の門
【記録◆2025年7月4日】
「龍宮につながる滝がある」と知って、『奥飛鳥』へ。
両脚に障害のある身で、どこまで行けるか確かめるために。
川岸の階段がどこかに繋がっているようには見えないから、行きたい方と反対の斜面を下りていくと、おもいがけず、ひとと会いました。
「階段の向こう側には行けるのでしょうか」と訊くと、
「きょうは増水していて道が無い」とのこと。
『飛鳥川』の支流で、水量が多いとは感じないけれど、川底を隠さないで、川岸の細い道を、浅い水の下に隠したのでした。
「来てはならない」と拒まれた感じはしません。
「来なくてもいい」と伝えられたのかもしれません。
この川の名は、『フナト』。
出雲神族の大神「クナト」の名で、かつては呼ばれたのでしょうか。
川は現在、別の名になっていますが、その源流の名は「竜在峠」。
龍神を祀った出雲神族は、この清流を神水と呼んだでしょうか?
『奥飛鳥』に『出雲』が現れても、わたしは驚きません。
3年前、「みむろ山(三輪山)の東方」に出雲が現れたときのようには。

下りてきた斜面を上って、「どこにも繋がらない階段」を下りて、川とは反対側に身を寄せながら、細い細い通路を進みます。
たった一歩だけ水の中に入れる覚悟があれば、まだ先へ進めそうですが、ここまでにしましょう。
「涯て」に立って、身を置いた場所より遠くへ行ける視覚を使います。
視覚で捉えられない光景は、カメラが捉えてくれているはず。

斜面の下で会った方が狭い川岸を伝って、こちらにいらっしゃいました。 そして、「前に行ったとき撮りました」と、ここから見えない場所を写真で見せてくださるのでした。
そこには、「龍の女神がお住まいになっている滝」があり、滝の高さより深い滝壺は「龍宮」に繋がっています。
深い滝壺の暗い色が、この世の入口となった水面の色と重なりました。
わたしは、二番目の子どもを、水の中で産んだのです。
最初の子どもは、予定日が13日の金曜日だから、という理由で、出産日を変えられました。医師には、「教徒ではないから気にしません」と、抗議はしたのですが、出産経験がなかったため決定を覆せませんでした。
陣痛を誘発するために取られた方法は、90歳まで生きたら明かします。
海外の女流作家が100年近く前に記した違法な堕胎と同じだったので。
「お産を考える会」に属したこともあるのですが、同じ経験をしたひとは、誰も居ませんでした。他の全員が、声と命を奪われたのかもしれません。
不思議でならないのです。なぜ、この社会は妊婦や産婦を虐待するのか。
同じ国土で、かつては女性や子どもが大切にされていたのに。
[縄文の神域を、以下の記事の底に隠しています。]
「切迫流産で横になっていたのに、舅姑に無理やり働かされて流産した」
という話を聞いたとき、「休ませておいたら孫を抱けたかもしれないのに、自分の血統をなぜ断とうとするのか」と、不思議におもいました。
同い年の友人は、「出産予定日を伝えたら、『農繁期に生まれる赤ん坊は堕ろせ』と命じられたよ」と、いまでは淡々と話します。
自分自身が切迫流産で横になっていたとき、舅姑が交互にやってきて、
「もう、赤ん坊は死んでいるのだから起きて来なさい」と命じるのも理解ができませんでした(注:姑は謝罪してくれました)。
「病院で赤ん坊が死んでいるのを確認したら、言うことを何でもきくな」と念を押した時の舅は、そうさせるのが楽しみで笑みを浮かべていたけれど、「赤ちゃん、生きていました」という報告によって顔色を失うのでした。
医療者にまで虐待されて生まれてきた子どもはすぐに産声をあげられず、泣きはじめてからは泣き止めないようでした。わたしが居なくなったので。(その子が抱きしめられたのは、半日ほど過ぎてから。)
次の子は、水中から浮かび上がった瞬間に抱きしめられていました。
ぴったりと身を寄せて、いつまでも、「ぷ ぷ」とだけ発しているから、
「産声は、あげないのですか?」と、そばに居た方に訊くと、
「すぐに抱かれると安心して、泣かないのです」と説明されました。
水温は高くて胎内と変わりないし、水面に出ると温かい手が待っていて、外界の冷たさに驚くこともないのでした。
「龍宮の姫君」は、お産を陸でなさったのなら、とても辛かったでしょう。
階段を少し上がって、龍宮の方角を撮ります。
カメラを通せば、遠い所へ近づいていけるから。



◇◇飛鳥川の滝◇◇
「フナト川」の上流へ行けなかったので、下流へ向かいます。
帰る方角とは逆に進むと、「このあたりに滝がある」と感じました。
県道から川を見下ろすと、そのとおり。
「滝の名前」が記されているのに気づいたのは、帰る直前でした。

「飛鳥川本流の滝」とのことですが、幾つかの支流がひとつになる前だから「飛鳥川」ではなく、この川の名は、『行者川』なのかもしれません。
近づけないけれど、県道の高さから、角度を変えて観瀑ができます。









◇◇葛神社◇◇
予定していなかった場所へ向かいます。
帰り道から少し右に入ると『葛神社』がある、と気づき、
「葛(くず)は、九頭竜の九頭(くず)なのでは」と感じて。
先月に行った『加夜奈留美命神社』は、所在地が判らなくなっていて、「栢森(かやもり)」という地にある神社が比定地となったのでした。
以下の記事に、「比定地となるまで龍の神社だったよう」と書いたのは、「九頭神(くずがみ)さん」と、地元では呼ばれているため。
「九頭竜」とは何なのか、調べても分かりません。
なんとなく、「まつろわぬ民」のことかもしれない、と感じました。
観点によって、その存在が善になったり悪になったりするので。
専門家が、『龍神信仰は、渡来人に持ち込まれた』と推測しているのに、
「龍神を形どった藁蛇を聖木に巻くのは出雲王国の信仰」と、以下の記事に書いています。
渡来人は、出雲王国の人々を改宗させようとして藁蛇を切って回ったから嫌われたのですが、数百年後、磯城王家のオオヒコは出雲王国からの帰りに「藁蛇の祭り」が気に入り、自分の王国でも広めようと考えています。
「ヤマトを奪われたら、他所に自分の王国を創って、藁蛇の祭りをしよう」と考えていたのでしょうか。
「いったんは退けた九州勢の再侵攻に備えて、出雲へ加勢を頼みに行った」
というのに、しかも、「出雲王国にも余裕がなくて断られた」というのに、オオヒコの心の余裕が、わたしにはとても好ましく感じられました。
オオヒコについては、以下の記事。
ここで疑問が生じます。
「ヤマトに最初の王国を造ったクシヒカタ」は出雲王国の龍神信仰を藁蛇の祭りという形では持ち込まなかったのか、と。
では、現代にも残っている祭りは、誰が持ち込んだのか?
(オオヒコは、ヤマトから去りました。)
東出雲王家のクシヒカタは、父「事代主」が亡くなった後、成長するまで母方の「三島(大阪)」で過ごし、そこからヤマトに移り住んでいます。
「クシヒカタを頼ってヤマトに移り住んだタギツヒコ」は、西出雲王家から大勢を連れてきました。「龍神を形どった藁蛇を聖木に巻く」という祭りはタギツヒコが大和盆地を離れてから復活させたのでは。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
東出雲王家を継いだ「鳥鳴海(トリナルミ)」はクシヒカタの異母兄で、別名「加夜奈留美(カヤナルミ)」。
あるいは、東出雲王家の次世代が、「新王国ヤマトの飛鳥」に移り住んで「加夜奈留美」を祀るとともに、「藁蛇の祭り」を復活させたのでは。
盆地内は、クシヒカタの「登美家」が大王家と同様の勢力を持つ存在で、「磯城家(大王家)」と「登美家」の子孫がオオヒコだから、藁蛇の祭りに触れる機会が無かったのだろうか、と考えもします。
帰宅後、この記事を書くため『葛神社』について調べたら、現代でも、「藁で作った龍を村人がかついで踊る」という神事が伝承芸能として保存をされている、とのこと(『明日香南無天踊り』で動画を検索できます)。
出雲神族は、ヤマトに入った勢力が支配しようとしても、武力で攻めると逃げるだけで従わないし、税も納めなかったそうです。
山地に隠れて、「奪う者」が去ってから戻ってきたのでしょうか。
現代では、「大和盆地」の各地で「藁蛇の祭り」が行われています。



「鎮守の杜」の外では、眩しい真昼の陽が、夏草を輝かせています。

『葛神社』の近くには、これまでに何回も来ていました。
見えない場所に在るから、気づけなかったのです。

『葛神社』の前から、北東の山々を撮りました。
『加夜奈留美命神社』古社地が、そこに在ります。
『葛神社』も古社地の候補だと、いまは知っています。
ふたつが、ここで重なっているのは偶然でしょうか。
「5年前に、どういう気象現象なのか、遠い山から勢いよく垂直に昇る雲を『飛鳥』で見た」と何度か書いているのは、この場所。
「昇り龍!」と叫んだとき、いっしょに居た友人も、それを見ていました。
この友人は『天河大辨財天社』で、あり得ない方向から飛んできた合図も見ていたのでした[以下の記事]。
わたしは、この社会で生きるための実務能力を大切にしています。
友人たちは、わたし以上にその力を持っています。
ところが、誰かといっしょに居ると、しばしば日常の枠を超えるのです。
説明がつかない体験を経験として受け入れることに抵抗はないけれど。
