実録! 私の生態について その1
ざっと紹介 私の実体
私は幼少期からいじめを受け、厳しい先生に存分に扱かれ、辛い毎日を過ごしていました。
何度も引っ越しましたが、その度にいじめを受け、なぜ自分だけがこんな目に遭うのかと不思議でなりませんでしたが、親からの愛情を知ることもなかった私だったので今となっては当然のことだったのかなと思っています。
初恋の人もできましたが、結局引越しで別れることに。けれどもどうしても連絡したくて、手紙を送ってみましたが、返事はもう二度と連絡して欲しくない、という悲しい結末でした。
けれど不思議なことに、高校でまた一緒になってしまい、それは気まずい高校生活でした。
相変わらずいじめは続きます。体育の時間でのハンドボールの時は、徹底的に狙われて、ボールを全身に喰らいあざだらけになりましたが、それでも守ってくれる人はおらず。自分が生きることにどんな意味があるのだろうか、と考えるようになったのはこの頃からです。
高校生活の思い出
でも、決して最悪な高校生活ではありませんでした。
いまでも尊敬する、大好きな先生と出会う事ができたのです。この頃にようやく携帯電話が普及してきて、いまでもその先生と繋がる事ができています。
思い出深いのは、私が進路を決めた時です。
教員になりたい、と思うようになっていました。
それは、中学の時の親友の影響もあったと思います。彼は明確な目標を持っていて、中学の職場体験で唯一、幼稚園へ体験に行き、幼稚園教員として子どもたちと関わりたいと考えていたのです。
当時は、そんな彼の明確な目標に羨ましさを感じつつ、自分の目標さえわからないままだった私でしたが、高校の大好きな先生と出会って、なぜか一緒に仕事をしたいと思ったのです。
そんなことをその先生に伝えると、母校である教育大学を夏休みに連れて行ってくれて直に案内してくれたのです。
ちょっとしたデートの気分でした。それでも、先生には相手がいることもわかっていたので、なんとも言えない感情を抱きながらの2人きりの時間でした。
けれども、そういう時間こそ、なんとも愛おしくかけがえのない時間として記憶に残っているのです。
大学でのこと 文化人類学との出会い
大学は、残念ながら志望の教育大学にはいく事ができませんでしたが、それでも教育課程を履修し、無事に教員免許を取得する事ができました。
大学では、文化人類学を専攻しました。大好きなアイルランドの伝統音楽について研究したくて、日本で初めて文化人類学を広めたと言われている長島信弘教授に直に教えを乞う事ができました。
毎回のゼミで自分の研究成果を発表し、教授から講評をいただく。そしてさらに発展させて研究を深めていく作業が続きました。この経験が生きているのかどうかはわかりませんが、いまでも人類学関係の書籍は好んで読んでいます。
レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』、マリノフスキーの『南太平洋の遠洋航海者』、エヴァンス=プリチャードの『ヌアー族』、ルース・ベネディクトの『菊と刀』などなど、過去の名著は所持しています。
長島先生は、私にとってとてつもなく大きな存在でした。普通のおじさんと言えばそうなのですが、やはり学問に対しての強い興味関心、幅広い知識にはとてもかないませんでした。それでも、卒業論文は褒めてくださり、学部での優秀論文に推挙してくれたそうです。お前の論文が一番だった、とわざわざ私の座っているところまで来てくださり、手を握ってくれたことをいまでも思い出します。結局優秀論文からは漏れてしまいました、尊敬する教授からそんなことを言われたことで、自分の論文は最高のものだったんだと自負しています。
社会に出て 何かが狂い始める
就職活動にはことごとく失敗し、最後まで就職先が決まらなかった私。ですが、とある学校から非常勤講師として迎え入れてくださることになりました。手続きがてら見学に行くと、そこは養護学校(現 特別支援学校)でした。
大学では、普通の学校へ行く前提での講義しかなされていなかったので、戸惑いを隠せませんでした。障害児、しかも肢体不自由の子どもたちを相手にするなんて、全く勉強もしていませんでしたし、どう接したら良いのかもわかりませんでした。
けれど、いまとなってはいい経験となりました。介護の知識を存分に吸収し、子どもたちとも大いにコミュニケーションを楽しみ、本当に有意義な時間でした。当時の教え子とは、いまでも連絡しあう仲です。
静的弛緩誘導法という技術も学ぶ事ができ、そのおかげでいろんな先生からも信頼を得る事ができましたし、1を言えば10がわかる間柄の先生ともタッグを組んで、子どもたちのために一所懸命でした。正規の職員ではなかったのですが、大事なことを任されるようになり、時には意見もいい、子どもたちのより良い未来のために真剣な毎日でした。
ですが、教員採用試験にはことごとく一次で敗退。どんなに頑張っても認められないもどかしさでいっぱいでした。
何よりも、私が学部異動となりタッグを組んでいた先生とコンビ解消になってから、職場環境が悪化し、職員との仲もさほど良くなくなってしまい、毎日が緊張と謝る日々、しまいには睡眠障害を患い、うつ病にもなり、アルコールに依存するようになり、休職することになってしまいました。
うつ病、アルコール依存症、睡眠障害
休職中は精神科に通いながら治療を続けました。睡眠薬を処方されるものの全く効果がなく、うつ状態はひどくなり、しまいには退職することになりました。
けれど、ここからが私の人生がどん底になるきっかけになりました。
実家で過ごしていたのですが、病状は悪化。家庭環境も悪化。親からDVを受け、でも仕事もできないからなんとか逃げたいとカードローンを利用して実家を飛び出し、一人暮らしを始めました。その頃新しい仕事も見つかって意気揚々と仕事に行っていたのですが、どうも合わなかったのか、だんだんと仕事に行く事ができなくなり、寝込む事が多くなりました。すると、給料も減るので家賃が払えなくなります。車のローンも残っていたのでそれも払えなくなり、ライフラインさえも払えなくなります。ガスは止められ、食べることもままならなくなり、どう生きたらいいのかわからなくなりました。
そこで、泣きながら行政に頼り、生活保護を受給することになり、フードバンクも利用してなんとか食べる事ができました。
借金地獄、取り立て、強制退去
カードローンの返済もできなくなり、車のローンも支払えなくなり、車は取り上げられ、まさに借金地獄の日々が始まりました。毎日のように取り立ての電話がなり、やがてその電話は会社にもかかってくるようになりました。
家賃も払えなくなり、遅れて納付することが続くと、管理会社から直接人がやってきて、期日内にいくら払え、払えなければ裁判を起こす、と脅されるようになりました。当然払えないので、強制退去を命じられ、ホームレスになる危険性が高くなりました。
そんなときに、生きる希望も無くなって自殺未遂を図り、精神病棟へ入院することになり、とりあえず寝るところと3食の確保ができたのですが、それでも強制退去には変わりません。退院してからいろんなところへ家を探しに行きましたがなかなか見つからず、ようやく見つかったところは旧社員寮だったところでした。
それでも、ホームレスになるよりはマシなので、無事に引っ越しをすることができ、今に至ります。
引越ししても外国人ばかり(特に中国系)なので、喋り声はうるさいし、騒音は激しいし、本当にマナーが悪い。苦情の電話を毎日のようにしました。
なんとも運の悪い、私です。
続きはまた次の記事で。
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