正論をぶっぱなせ — 多様性の否定、それってブーメランで自分に刺さらない?| ぽてぽたのよしなしごと #16
おっそろしいタイトルをつけてしまった。
「正論をぶっぱなせ」なんて、人生で初めて書いた。
冒頭で意図を明確にしておきたいが、本記事は私が多様性を全面的に肯定する内容である。
その上で、これは私個人の意見であり、そのほかの個人や個人の意見を否定したり、煽る意図は一切ないことを記しておきたい。
この記事を書こうと思った前提を紹介したいと思う。
以前に『正論』という曲を紹介した記事で、相互フォローしているゆうまるすさんから以下のようなコメントをいただいた。
ぽてぽたさんの書く、正論っていうほんとの正論を述べようとしている物騒な記事があったら、ちょっと読んでみたかった。
え、なになに。
どういうこと?
ちょっとそれ楽しそうなんですけど、広げてもいいですか?
と、食いついてしまったというわけだ。
始める前に、正論とは何なのか、改めてClaudeに聞いてみた。
Claude解説:「正論」って何?
「正論」とは、「筋が通っていて、誰も反論できないくらい正しい意見」のことです。
たとえば:
「宿題はちゃんとやったほうがいいよ」
「人には優しくしたほうがいいよ」
「早寝早起きは体にいいよ」
これって、間違ってはいないですよね。
でも言われた側は「それはそうなんだけどさ...」ってちょっとイラッとしたり、「うっ」となったりすることがあります。
ふんふん、なるほど。
「うっ」となったりすることがあり……か。
了解。やってみましょ。
* * *
おはようございます、ぽてぽたです。
ということで、今回は「ぽてぽたのよしなしごと」ではなく「ぽてぽたの正論」にトライしてみようと思いますよ。
おっかねえな。
でも、レッツ・トライ。
ゆうまるすさんにコメントをいただいて大喜びして、「物騒な正論かあ。書いてみたいな」とは思ってはいたものの、すぐにはテーマが思いつきませんでした。
あとから、ふと思い出したのが自分の過去記事です。
私はたまに『クロス考察』と銘打って、謎に硬派な記事を書くことがあります。
異なるコンテンツから共通のテーマが浮かび上がってくることがあるため、それを掛け合わせて考察する記事です。
その中の一本である『「ごんぎつね問題」をめぐる保守的な思想について考える』の後半で、多様性について我ながらなかなかの正論をぶっぱなしていたことを思い出しました。
今日は、その時の正論を掘り下げてみようと思います。
重要なことなのでもう一度、書いておきますが、私は多様性は全肯定派です。
ただ最近は「多様性」という言葉が一人歩きしがちだとも感じています。
「多様性」とは、そもそも何か?
今一度サラッと、おさらいしてから進めましょう。

違いが「ある」ことを認めることと、
一つ一つの違う意見に「同意する」ことは
同義ではありません。
「誤った解釈」は、一例として
わかりやすいものを挙げています。
この前提をもとに、私はこう考えています。
多様性を肯定することは、人それぞれの生き方を肯定すること
多様性を否定することは、人それぞれの生き方を否定すること
なぜ同じようなことを2回も書いたかというと、「人それぞれの生き方を否定してしまったら、それはすなわち自分自身の生き方を否定することにも繋がるのでは?」と言いたかったからです。
だってそれ、ブーメランのように自分に返ってきますよね?
はい、意見が強いですね。
おっかなくなったら、無理せず離脱してくださいね。
これは以前の記事にも書きましたが、私はときどき、直接的にも間接的にも、以下のような意見を見聞きすることがあります。
多様性が異なる考え方を受け入れる考え方だと言うなら、「多様性に反対する意見」も多様性に含めるべきなんじゃないの?
違う意見を受け入れられないなら、多様性を認めたことにならないじゃん。
これ一見、もっともらしく聞こえませんか?
「多様性に含めるべき」なんて言われたら、「確かに」となり、反論する道を塞がれた気持ちになってしまう。
どんなトンデモ理論にも、数%の真実や「それっぽさ」が必ず含まれるので、注意が必要ですね。
そのように注意して、「それっぽくないところ」に着目すると、大きな論理の破綻が浮かび上がります。
「多様性に反対する意見」は、「多様性を否定する考え方」と言い換えることができます。
細かい違いのようですが、「反対」を「否定」に置き換えるだけで、見えてくる景色がすこし、変わる気がします。
多様性という思想の中に、「多様性自体を否定する考え方」を含めてしまったら、その思想自体が成立しなくなりますよね。
多様性を受け入れる仕組みづくりを、ルールに例えるとわかりやすいかもしれないので、やってみます。
学校のクラスで、「このクラスでは、みんなの意見を大事にする」というルールを作ろうとする。
誰かから、「自分の意見だけが正しいと思う意見もOK」というのもルールに含めてほしい、という意見が出る。
最終的に一人ひとりが「自分だけが正しく、ほかの誰の意見も大事にしなくていい」という方向に進む。
「みんなの意見を大事にしよう」という最初の目的から、いちばん遠い場所に着地する。
→ ルール自体を否定する意見までルールに含めたら、ルールが成り立ちません。
多様性という言葉の難しさは、その字面や響きから「なんでも受け入れるべき」と思われてしまいがちなことだと思っています。
多様性イコール「ルールなし」「なんでもアリ」ではありません。
「お互いがお互いの違いを尊重し、踏みにじらない」という一点だけは譲らない、という思想なのだと思います。
この点をないがしろにすると、差別でも偏見でも受け入れるべきだ、というロジックになってしまいます。
また最後にもう一点、注意しておきたいことがあります。
「多様性を受け入れられない」と感じている個人そのものを否定してしまうのも、それはそれで違うと思っています。
「多様性の仕組みそのものに、多様性を否定する意見を組み込むことはできない」ということと、「多様性を肯定できない個人を否定する/切り捨てる」ことは、別の話だからです。
それは単に、すべての人の意見が一致する社会はなく、話し合うための余白がある、ということを意味します。
人間が人間社会で生きる限り、この余白は必要なものであり、絶対になくならないものでもあると思います。
多様性を受け入れるということは、この複雑性を受け入れる、ということにもなるでしょう。
複雑なものは理解しきれなくて面倒だし、もやもやをスッキリさせたい気持ちもあるけれど、それよりも私にとって大切なのは、思想や発言の自由です。
だからこそ、多様性を全面的に支持したい。
さて。
これ、ちゃんと正論になっていましたかね。
判断・解釈は、それぞれにお任せします。
多様性を肯定したいですからね。
オマケ: 『いのちの食べかた』(森 達也)を読んだ
この記事を書きながら思い出した本があったので、記録として残しておきたいと思います。
少し前に、以前BAKUさんの記事で紹介されていた『いのちの食べかた』という本を読みました。
『いのちの食べかた』(森 達也) あらすじ
魚は切り身で泳いじゃいない。じゃあ、牛や豚のお肉はどこからどうくるの?
お肉が僕らのご飯になるまでを詳細レポート。おいしいものを食べられるのは、数え切れない「誰か」がいるから。だから僕らの生活は続いている。“知って自ら考える”ことの大切さを伝えるノンフィクション。
やわらかいイラストや文章とは裏腹に、食を通して社会問題のかなり深いところまで書かれている作品でした。
この本の中で繰り返し出てくるのが、「人間はすぐに忘れてしまう」「やってはいけないことを繰り返すのは、忘れてしまうからだ。きちんと知らないからだ」「だから正しく知ることは大切だ」というメッセージです。
私は、多様性を理解することは、差別や偏見をなくすことにつながると思っています。
そういった意味で、多様性についての記事を書きながら、「知ることの大切さ」を繰り返し説くこの本が思い浮かびました。
字面だけで「多様性って大事だよね」「偏見はやめよう」と言うのは簡単だけれど、多様性の本来の意味や、何が偏見にあたるのかを自分の頭で考えて理解しない限り、実践は難しいのではないか、思っています。
一部、引用します。
大切なのは知ることだ。知って気づくことだ。差別問題についても、一人一人が本当に知れば、こんな根拠のない差別など、あっというまに昔話になる。
ひとりの人間が世の中のすべてのことを知り尽くし、理解することは、どれだけ努力しても不可能です。
個人が何を学び、何を考え、どう行動するかも、人それぞれの選択に委ねられるべきでしょう。
それでも、「知って気づくことが大切だ」ということ自体は、真実だと思います。
上記の引用文は、他の多くのことにも当てはまるように思ったので、ここに残させていただきました。
* * *
こちらの本を読むきっかけを与えてくださったBAKUさん、ありがとうございます。
また本記事を書くきっかけをくださったゆうまるすさんにも感謝です。視能訓練士として、いつも目や視力についてわかりやすい記事を書いていらっしゃいます。
さらに絵本制作などもされていて、とてもクリエイティブな方です。
この記事で紹介した本:
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